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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 75 (2) :57-109, 1999

原著
血管運動性鼻炎の病態に関する研究
 長谷川真也

卒前臨床教育の変革に関する検討:(第三報)コンピュータによる 患者管理シミュシーション実習
 高林克日己 藤川一寿 鈴木隆弘 山崎俊司 岩本逸夫 齋藤 康 里村洋一

一般住民におけるβ3アドレナリン受容体遺伝子の多型と肥満の関連性
 諏訪園 靖 大久保靖司 小林悦子 能川浩二 城戸照彦

症例
成人特発性腸重積症の1例
 佐藤 徹 山口和人 小山秀彦 伊藤文憲 金子良一 笠貫順二 小林国力 近藤福雄

骨腫性エプーリスの1例
 横江秀隆 横田 剛 福田正勝 宮川昌久 鵜澤一弘 渡辺俊英 宮 恒男 丹沢秀樹

特別寄稿
千葉大学図書館亥鼻分館蔵:医学古書コレクションの内容
 樋口誠太郎

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰
 まえがき
 Albert von Szent Gyoergyi
 Carl Ferdinand Cori
 Sir Hans Adolf Krebs
 Jeffries Wyman

海外だより
カルフォルニア大学サンフランシスコ校
 五十嵐琢司

学会
第13回千葉腎病理集談会

編集後記

 
   
  血管運動性鼻炎の病態に関する研究
長谷川真也  千葉大学医学部耳鼻咽喉科学講座


日本アレルギー学会におけるアレルギー性疾患治療ガイドラインに示される診断基準に従うと、くしゃみ、鼻汁過多、鼻閉を伴うを鼻過敏症のうち、鼻汁好酸球陰性、皮膚テスト陰性、誘発テスト陰性である症例は血管運動性鼻炎と診断される。しかしながら、その病態は不明である。そこで、今回筆者は血管運動性鼻炎と鼻アレルギーの病態の違いを明らかにし、血管運動性鼻炎における鼻粘膜過敏性成立の幾序を知る目的で、血管運動性鼻炎、鼻アレルギー症例等を対象に1)鼻過敏症における鼻粘膜炎症細胞、2)鼻粘膜ヒスタミン過敏性、3)寒冷刺激に対する鼻粘膜反応について検討を行った。その結果、血管運動性鼻炎においては炎症細胞の関与は認めなかった。また、鼻粘膜ヒスタミン過敏性は正常者と比較して血管運動性鼻炎は有意な亢進を示したが、鼻アレルギーと比較すると軽度であった。血管運動性鼻炎の最も特徴的な所見は下肢寒冷刺激時にみられる鼻粘膜腫脹にあった。正常者では、下肢寒冷刺激中は交感神経中枢の興奮により鼻粘膜容積血管収縮がみられたが、血管運動性鼻炎では下肢寒冷刺激による鼻粘膜収縮反応は抑制され鼻汁分泌亢進と同時にむしろ有意な拡張反応が認められた。鼻アレルギーは正常コントロールと血管運動性鼻炎の中間の鼻粘膜反応を示した。また、下肢寒冷刺激は5-15mmHgの収縮期血圧上昇をおこしたが血圧の変化には血管運動性鼻炎と正常コントロール、鼻アレルギーの間に有意な差を認めなかった。このことより、血管運動性鼻炎では鼻粘膜を主とする末梢レベルに交感神経反応の抑制、副交感神経反応の亢進を起こす異常があるものと考えられた。
 
   
  卒前臨床教育の変革に関する検討:(第三報)コンピュータによる 患者管理シミュシーション実習
高林克日己 藤川一寿 鈴木隆弘1) 山崎俊司1) 岩本逸夫 齋藤 康 里村洋一1) 千葉大学医学部内科学第二講座 1)千葉大学医学部附属病院医療情報部


千葉大学医学部学生のコンピュータ普及率はこの6年間で、29.7%から69.1%とほぼ倍増した。このような中で、千葉大学医学部第二内科で1992年から行っているコンピュータによる患者管理のシミュレーションでは、独自に製作した一般疾患の患者管理問題をベッドサイドラーニング(BSL)の中で行うことにより、ふだん大学病院ではみる機会の少ないcommon diseaseを体験させている。これはまたマルチ・メデイアの環境下で、学生に診療の疑似体験をさせ、より鮮明な記憶を残すことが期待される新しい試みである。その内容を紹介するとともに、学生の反応をアンケートからまとめた。
 
   
  一般住民におけるβ3アドレナリン受容体遺伝子の多型と肥満の関連性
諏訪園 靖 大久保靖司 小林悦子 能川浩二 城戸照彦1)  千葉大学医学部衛生学講座 1)金沢大学医学部保健学科地域看護学


肥満症はインシュリン非依存性糖尿病、高血圧症、虚血性心疾患等のリスクファクタ−とされており、カロリ−摂取量とエネルギ−消費量のアンバランスにより発症する。近年、分子生物学の発展により、肥満症が遺伝子学的に解明されようとしている。Walstonらはピマインデアンで、β3アドレナリン受容体遺伝子Trp64Argの変異型の人ではインシュリン非依存性糖尿病の発症が早く、エネルギ−代謝率が低い傾向にあることを発見した。その後のインシュリン非依存性糖尿病患者を主体にした研究では、この遺伝子多型がBMIに関連しているという報告と関連していないという両方の報告がある。そこで本研究では、一般地域住民を対象に、肥満者とそうでない者でβ3アドレナリン受容体遺伝子Trp64Argの多型の出現頻度に差があるか否かを検討した。 BMI値はβ3アドレナリン受容体遺伝子Trp64Argの3多型間に有意差は認められなかった。3多型の出現頻度は肥満者(BMI≧26.0 Kg/m2)とそうでない者(BMI

<26.0 Kg/m2)の間で有意差は認められなかった。また多重ロジステックモデルによる解析において、性および年齢は肥満に対して有意のリスクファクタ−であるが、遺伝子多型は有意のリスクファクタ−ではなかった。しかし、 BMIとの関連性が検討されているAA型の出現頻度は肥満者で6.3 %で、非肥満者の2.8 %より2.3倍高かった。この事実を明確にするには、研究対象者を広げる必要があることが示された。
 
   
  成人特発性腸重積症の1例
佐藤 徹 山口和人 小山秀彦 伊藤文憲 金子良一1) 笠貫順二1) 小林国力2)  近藤福雄3)  社会保険船橋中央病院内科 同・健康管理センター1) 同・外科3) 同・病理3)


74歳女性の特発性腸重積症を報告した。主訴は難治性の下痢であり、腹痛はなかった。経過中に腹水貯留を生じたため、腹部CT検査を施行したところ、重積腸管像を認め確定診断された。重積腸管は可動性に富んでいたが、注腸および内視鏡的に整復不能であり、右半結腸切除術を施行した。上行結腸が後腹膜に固定されていない解剖学的異常が認められ、先進部は反転した盲腸であった。重積の誘因となり得る器質的な異常は認められなかった。診断には画像診断を反復して行うことが重要と思われた。
 
   
  骨腫性エプーリスの1例
横江秀隆 横田 剛 福田正勝 宮川昌久 鵜澤一弘 渡辺俊英 宮 恒男 丹沢秀樹 千葉大学医学部歯科口腔外科学講座


 まれな骨腫性エプーリスを経験したので報告する。患者は56歳女性。主訴は右上顎臼歯部腫瘤7| 歯槽頂相当部に表面滑沢な、骨様硬25X23X15mmの腫瘤が存在した。X線所見は、7| 相当部に梁状構造または、骨様の不透過像が認められた。エプーリスと診断し、切除術を行った。病理組織学的に線維性組織のなかに不規則な塊状の骨質が大量に形成されていた。病理組織診断は骨腫性エプーリス。骨形成性エプーリスの本邦報告例は 1966年〜98年において86症例あり、女性は55例で男性は31例、好発年齢は20〜50 歳代であった。好発部位は上顎が54例で下顎の33例より多くみられた。本症例ではエプーリスの中に生じた骨は歯槽骨と連絡しており、骨芽細胞が腫瘤内に多く認められた。これらの細胞が積極的に関与して上部に腫瘍的な骨の増大をきたしたと考えられた。a
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


まえがき:フランス語には過去形がいくつかあって、その中でも、「半過去、passe imparfait」という過去形は他の国の言葉にあまりないようだが、会話などにはよく用いられている。現在は20世紀が半過去になっている時代である。完全に過去になりきる前にわが同時代人(メ・コンタンポレーン, Mes contemporains)のことを半過去形で語ってみたいというのだが、この文章を書き始めた2〜3年前の私の想いであった。私の父,三浦謹之助は内科医で86年の生涯の間にはおそらく千か万の単位で数える患者さんを診ている。その中には、たとえば福沢諭吉先生のような傑出した方もおられて、福沢先生の人生観などを伺ったこともあり、それを私にも話してくれた。残念なことにその時私はメモもとっていなくて、今考えれば惜しいことをしたと思う。すべてこういう話は記録して置いた方が良いと思うので、このシリーズの執筆を始めた次第である。このシリーズに登場する人々は私の専門が生化学であるので、「わが師、わが友」として登場するのはどうしてもその領域の人にかたよる。しかし、人生はその人の職業と同じ方面の人だけに囲まれているわけではない。子供の時に一回しかお会いしていない西園寺公もここに登場するが、それはその時子供の私にもかなりインパクトを与えたからである。「千葉医学」の読者を考えると、医師や生化学者以外の方々、たとえば山本有三とか石坂洋次郎などの文学者をいれることも、私の小・中学の同級生の谷村裕や尾上梅幸をいれることも憚られるのだが、編集幹事の先生はまた別のお考えがあって、悉くご採用いただいたのは筆者の望外の幸いである。この原稿の題名を最初「20世紀の残像」としてが、登場される方のうちにはご存命の方もあり、「20世紀のわが同時代人」と改めた。末筆ながら全編の原稿に目を通して下さった、近年の私の栄養関係の著書の共著である橋本洋子さんに深く感謝する次第である。
                         1999年2月 著者しるす
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


Albert von Szent Gyoergyi:(1893-1986):ハンガリー生まれ,ブタペスト大学医学部卒業後,ヨーロッパ各地で研究生活を送り,1927年ケンブリッジ大学のホプキンスのもとで研究を始め,1937年生物学的燃焼に関する諸発見でノーベル医学賞を受賞する。1945年ブタペスト大学生理化学教授,1947年ウッズホール臨海実験所筋肉研究所所長となる。  戦後,私が東大医学部の生化学教室に入った時の教授は児玉桂三先生だった。児玉先生は1924年から3年間ケンブリッジ大学でホプキンスに師事しておられる。セント・ジェルジーがホプキンスのもとで研究を始めたのは児玉先生がケンブリッジを去られた直後である。セント・ジェルジーはホブキンスからこれからの栄養学にはビタミン様の微量で必須な物質の研究が重要になってくることを示唆されて,後のビタミンCの発見のヒントを得た。オチョアもまた1937年頃にはケンブリッジに移り,ホプキンスのもとでビタミンB1の研究をしている。児玉先生もホプキンスから栄養研究の重要さを教えられ,戦後の日本ではあれだけの栄養不足の状態があったにもかかわらず,餓死者が出ないで済んだ政府の施策に貢献しておられる。  ホプキンスは単なる栄養学者ではない。クレブス回路をみつけたクレブスがホプキンスのもとにいたのが1933年頃であり,この頃からクエン酸代謝が栄養素の燃焼に重要であることを認識している。セント・ジェルジーもまたクレブスと同時代にC4ジカルボン酸の呼吸代謝における触媒作用の研究をしてノーベル賞(生物学的燃焼の研究に対して)を受賞したのもホプキンスの影響であろう。  こうしてこの時代の生化学・栄養学の研究成果を眺めてみると,オットー・マイヤーホフだけに「近代生化学の父」という尊称をかぶせるのは誤りで,サー・ゴウランド・ホプキンスにも「近代栄養学の父」という尊称をあげてもよいのではないかとさえ思われる。  アメリカ東海岸のコッド岬にあるウッズホールは景色も素晴らしいが,大西洋の暖流と寒流双方が洗う別々の海岸をもつので,海洋生物に多様性がみられ,ウニなどの実験動物の入手が楽である。そのため夏になると全世界から生物学者や大学院学生などが集まり,午前はノーベル賞クラスの著名な学者のセミナー,午後は実験や海水浴などで学者同士の交歓の場所として有名である。夜はまた海洋生物学研究所の図書室が世界的にも有名な蔵書の多い立派なものなので,そこで論文を纏める学者も多い。町には殆ど遊ぶ場所もないので,研究所付属の寄宿舎の食堂が皆が顔を合わせる中心になっている。この研究所の一部にセント・ジェルジーが所長をしていた筋肉研究所がある。ここで彼は従来単一の筋肉蛋白質と考えられていたミヨシンが,実はミヨシンとアクチンの二つの蛋白質からなることを発見し,筋肉の収縮機構を分子レベルで解明することに成功している。しかし,彼の考えの本質は,生理現象をいきなり分子や電子レベルで研究するのではなくて,まず生きている状態でよく観察してから段階的に分子レベルの研究をすべきであるというのである。彼の講義は開口一番「君たちはここに生化学を習いに来ているのに,動物をみるとすぐに殺して組織を取り出してそれを擦りつぶすことを考えているじやないか。それでは死んだものしか見ていないから生化学ではなくて死化学だ。もっと生きているうちに観察すべきものなのだ。俺も医学生のころ伯父の組織学者の部屋で組織標本ばかり見せられて,死んだ標本はもうたくさんだと逃げだしてきたよ」と気炎をあげるのだった。  私はこの研究所で夜11時頃実験を終えて帰る時,狭い階段を駆け登ってくる彼に会ってぶつかりそうになった。「お休みなさい」と挨拶すると「何だ,もう帰るのか,俺はこれから実験だ」といいながら階段を駆け登って行った。彼は朝早くから冷たい海で泳いでいるし,一体いつ眠るのだろうか。実験室は働く所で本を読む所ではないと言うし,当時60歳の彼には実験室はあったが,いわゆるオフィスではなかった。研究者が図書室などでゆっくり本を読んでいると,どこか体でも悪いのかと訊ねてくる。  私がウッズホールでの実験が終わりニューョークヘ帰り,日本の総領事館を訪ねた時,東郷総領事から「今度皇太子さん(現在の陛下)がウッズホールをご訪問になるので,セントジェルジー所長にご案内をお願いして欲しいといわれた。数日後,モントリオールで開かれた国際生理学会で彼をつかまえて「よろしくお願いします」といったら,ふだんは冗談好きの彼が妙に真面目になって「それが日本の科学者のためになることなら俺は何でもするよ」といわれた。  セント・ジェルジーは晩年NHKの招きで日本を訪れた。この時NHKは彼にテレビに出演を頼み,私に通訳の依頼をしてきたのである。私はかねて彼の話が決して原稿通りではなく,興がのってくると原稿などそっちのけで,あまりうまくない英語でしやべりまくることを知っていたので,一度はお断りしたのだが,彼が通訳には三浦がよいと言ったらしく,とうとう引受けさせられた。  案の状,話がビタミンCの発見に及ぶと,原稿には無い話になり,彼は祖国のハンガリ一には赤トウガラシが多く料理にもよく使うので,何か栄養になるものがある筈だと考えてとうとう赤トウガラシからビタミンCを発見したと言い出した。文献によると彼は1928年にオランダのグロニンゲン大学の地下にある小さな実験室で最初この化合物へキスロン酸を副腎からみつけたとある。この時はこの化合物がビタミンとしての働きがあることに気づかず,後に1932年にハンガリーに帰ってからトウガラシを使ってこの物質を再び取り上げ,ビタミンの作用を認めている。しかし,その前に他の人がヘキスロン酸こそビタミンCに他ならないことを発表している。愛国者のセントジェルジーにしてみればビタミンCこそ祖国ハンガリーの赤トウガラシからハンガリー人の自分が見つけたビタミンであって,他の国の人がみつけたなどとは言いたくないのだろう。彼は大学在学中に第一次世界大戦に駆り出され,負傷までしている一本筋の通った愛国者なのである。  そして,この講演の最後には,ハンガリーに進駐して来たヒットラーに単身会いに行って,祖国ハンガリーの科学者の研究の自由を獲得した話になって終わった。彼にはヒットラーから研究の自由を奪われた苦い経験があり,すべての帝国主義の国では科学者は独裁者の弾圧を受けるものだという固定観念があるらしい。私が皇太子のご案内を依頼した時も,「それが日本の科学者のためになるなら俺は何でもする」という言葉が飛び出したのだろう。幸い日本の天皇陛下も皇太子も生物学者でもあり,それに君臨しても統治をしないという憲法があると説明したら,それは希有な国で大変幸福な国民だと感心していた。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


Carl Ferdinand Cori(1896‐1984):プラハ生まれ,1920年プラハのドイツ大学医学部卒業,1922年渡米,バッファロー癌研〈1922-1931),セントルイスのワシイトン大学教授(1931-1966),マサチュセッツ・ジェネラル・ホスピタル(1966)に移る。1947年にノーベル賞を夫人とともに受賞。  クレブス回路の他に,コリ回路もあることを書かないと片手落ちになる。コリ回路はクレブス回路ほど一般に使われている言葉ではないが,体全体の生化学からみれば重要さではさして変わらない。それは糖が無酸素的に分解されて出来たピルピン酸が乳酸になり,その乳酸が肝臓の糖の新生系で再びグルコースに変わり,末梢組織で分解されてピルピン酸に戻る経路のことである。この回路は血中のグルコースと肝臓のグルコースとの間の異なった臓器にまたがる回路で,クレブス回路が同じ臓器の中の回路であるのとは異なって全身的な視野で見なければ分からないものである。  回路を作っている反応系は直線的な反応系に比べて効率がよいといわれている。山手線の方が中央線の電車より稼ぎがよいかどうかは私は知らないが,少なくとも折り返しの手間がないだけ回路の方が時間のロスがないのではないかと考えている。  コリの回路は運動中の人が何からエネルギーを得て運動を続けるか,或いは筋肉中に乳酸が溜まった時にどう処理するかに関係している。生じた乳酸を再利用してエネルギー源に使うかの岐路に立った時,クレブス回路を採るか,コリ回路をとるかは人間の意思によらずに,その時のエネルギー獲得の模様によって自動的にスィッチが切り替わるものなのである。コリ回路の存在を見つけ出したコリはグリコーゲンの研究をしていた。人間の運動の時のエネルギー源についてかねがね深い洞察をもっていたからこそ,この回路に思い至ったものであろう。  私が初めてコリに会ったのは1964年のことであった。その年ニューヨークで開かれていた国際生化学会議の席上で次期の会議が東京で開催されることが決定したため,在ニューョーク日本総領事が主だった各国の生化学者を日本料理店の「斎藤」に招待したことがあった。私はお客さんを主人役の総領事に紹介するため入口に並んでいると,定刻より少し遅れて見覚えのない老学者が一人で現れ,私がとまどっていると向こうから私がコリですと自己紹介をされた。びどく丁重なご挨拶で人柄が推察されるものだった。  その次にお目にかかったのはインディアナ大学のシンポジウムで,1969年から1979年に至る10年間に4回お会いする機会があった。このシンポジウムは割合ゆったりと時間がとってあり,かつ参加者は同じゲストハウスに泊まり食事を共にするので,会話の機会に恵まれている。コリは元来自分のことばかり話すセント・ジェルジーのようなタイプではない。他人の話をうまく引き出すタイプの人だが,私は逆に貴重な彼の体験を聞き出すのに成功した。  彼の家は元来プラハ在住の学者の家系で,祖父はプラハ大学の理論物理学の教授,父はトリエステの臨海生物学研究所所長であった。彼自身はプラハで生まれている。一家はプラハに残って,父だけがトリエステに赴任していたのかどうか知らないが,トリエステについてはよい思い出がたくさんあるらしい。トリエステはイタリア半島と旧ユーゴースラビアに囲まれるアドリア海の最奥に位置する港で,この当時はオーストリア・ハンガリア帝国に属していたのではないかと思われる。それゆえにコリの父プラハのCarl.I.Coriがおなじ国のトリエステの臨海実験所所長として赴任したのであろう。また私がウッズホールの臨海実験所で行ったウニやタコノマクラを使って生化学の実験に対して彼は的確な質問した。彼が海棲生物についてかなりの知識のあるところからみると,コリ自身この実験所で何か研究した経験があるのかも知れない。  彼が通学した大学はプラハのドイツ系大学で,ここでの同級生が妻であり,ノーべル賞の共同受賞者のGerty Theresa Radnitzである。彼は在学中に第一次世界大戦に従軍しているが,卒業年次は夫妻ともに1920年である。  卒業後,プラハ,ウィーン,グラーツなどの諸大学に勤めた後,1922年に夫妻ともに渡米している。まだナチスの勢力が盛んになる前のことだから,後のユダヤ系学者の亡命ではなく,夫妻は純粋に新天地に憧れてアメリカに渡って行ったのではなかろうか。ともかく、コリの挙措動作をみていると,アメリカ的ではなく,ョーロッパ流の紳士という印象が強い。  アメリカでの最初の10年はバッファローの州立腫瘍研究所で,次の30年間はセントルイスのワシントン大学である。セントルイスは夏暑いので有名で,オチョアなどはl年いただけで逃げだしている。しかし,コリ夫妻はここで冷房もない実験室でグリコーゲン・ホスホリラーゼの結晶を作って,ノーベル賞を受賞したのだから偉いと思う。彼に聞くと,予め実験動物は成るべく涼しい環境に避暑させておかないと,酵素はうまく抽出されないという。私も冷房のない時代にショウジョウバエを夏場は東京から那須温泉に避暑に連れていった経験があり,一昔前の生化学の研究者は厚さ寒さとの戦いが実験の成否を握っていたものである。  生化学領域で蛋白質化学を扱った酵素の精製のような仕事でノーベル賞を受賞したのは,実験室や動物の飼養室の温度管理が比較的容易になってからのものが多い。コリ夫妻のように暑いセントルイスで酵素の結晶などを出す実験は奇跡的ともいえるのではなかろうか。  セントルイスはなるほど夏は暑いが,ワシントン大学はヨーロッパからの学者をあたたかく迎える気風があったと考えられる。後にオチョアがスペインからアメリカに渡ってすぐにこの大学に来ている。これはヨーロッパ出身のコリ夫妻がいるということもあろうが,アメリカ南部のホスピタリティーの精神がこの辺の大学にもあるからだという人もある。ヨーロッパから来たわけではないが,コーンバーグもまたコリ夫妻のいる大学として若い時にはこの大学で研究をしている。このようなことを書くと,ノーベル賞受賞者のコリ夫鼻はこの大学の「人寄せパンダ」みたいに思われるかも知れないが,人の話をよく聞いてくれるコリの温厚な性格が若い研究者をここに引きつける力を持っていたことは否めない。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


Hans Adolf Krebs(1900‐1981):ドイツのヒルデスハイム生まれ。医学をゲッチンゲン,フライブルグ,ベルリンの各大学で学ぶ。1926年にカイザー・ウィルヘルム研究所でオットー・ワールブルグについて呼吸酵素の研究を行う。1933年にケンブリッジ大学のホプキンスのもとで研究,以後ドイツに帰らず,オックスフォード大学教授〈1954‐1967)など終始英国に留まった。1953年ノーベル賞受賞(クレブス回路の研究による)。  クレブスの父は外科系の医師だったので,彼もその跡を継ぐ積もりでいた。医学校卒業後間もなく,あしかけ5年問もカイザー・ウィルヘルム研究所でオットー・ワールブルグの助手を勤めていたのは,この有名なノーベル賞受賞者がクレブスの従兄に当たるので,むしろ父が勧めたのかも知れない。この5年間にワールブルグから強烈な影響を受けたと,クレブスはノーベル賞受賞講演の時に述べているが,それは彼がまだ若く感受性に富んでいたからであろう。ワールブルグは弟子を育てる人ではなく,すべての実験は男性のテクニシャンが職人芸で難しい実験をこなすのである。したがって、クレブスもテクニシャン代わりに使われていたのかもしれないが,この時代はまだクレブスも将来は生化学ではなくて,臨床医学に進むつもりでいたと思われる。  しかし,この5年間にクレブスは生化学の手法を学びとっている。1930年には再ぴ臨床医にかえり,アルトナ市立病院やベルリン大学病院に勤めている。しかし,この間にも医学生だったヘンゼライトを助手代わりに使って尿素の生成がアルギニン,オルニチン,シトルリンの回路で出来ることを発見している。いわゆるクレブス回路すなわちジカルボン酸による呼吸系の回路は1940年代の発見だから,尿素生成のクレブス・ヘンゼライトの回路の発見の方が先きなのである。  クレブスは地味な人で,必ずしも人付き合いの良い人ではない。どちらかといえば口の重い人なので,臨床医になるよりも実験科学の方向に進んだのであろう。ワールブルグのもとを去って3年後にロックフェラー財団のフェローシッブを得て,英国に留学することになった時,彼は再び生化学の道を選んだ。1933年当時は生化学でもっとも有名であったのはワールブルグを除けばケンブリッジ大学のゴーランド・ホプキンスであろう。クレブスは迷わずホプキンスを師に選んだのである。  全盛期のホプキンスの教室には四十人を越す研究生が各国から集まっていたが,ホプキンスはそれらの研究生には各自好きなことをやらせ,教室をまとめて一大研究を行うということはなかった。クレブスのやり方はそれほど自由ではないにしても,ワールブルグが研究生をテクニシャンのように有無を言わせず使っていたのとは少し違うようである。彼の教室に在籍した人の話を聞くと,クレブスは個人的には愛想のよい人物ではなかったというが,しかし,私個人の経験ではクレブスはなかなか紳士でマナーを心得た人であり,他人にも思いやりのある人であった。  それは1968年から1977年まで5回ほどクレブスも出席するシンポジウムに参加した時の私の印象である。これは毎年9月頃にインディアナ大学で非公開で開かれる「酵素調節のシンポジウム」があって,そこで毎年のように顔を合わせた時のことである。このシンポジウムの参会者は大学のゲストハウスに宿泊するのだが,どういうわけか毎年私の部屋とクレブスの部屋とは隣あわせだった。クレブスは当時七十歳前後の高齢だったのにもかかわらず,夜中にトイレの音が聞こえなかった。何かの機会に私がクレブスに,あなたは少しも夜お起きになりませんね,といったら,彼がニッコリして,あなたを起こしてはいけないから夜は水を流さないだけなのです,というのである。それからシンポジウムで居眠りが出ないのは,時差ぼけをどうやって防ぐのですかと訊ねたら,睡眠薬の使い方を詳しく教えてくれたのである。そういう時のクレブスはさすがに若い時何年かは臨床の経験をつんだ人らしく,てきぱきと薬品名と服用法を教えてくれた。クレブスがケンブリッジ大学で師事したホプキンスは正規の医学教育を受けた人ではないのに名門のケンブリッジ大学の初代の生化学の教授になっただけあって,なかなか気のつく人だったという。この教室には英国の習慣通り,毎日午後にはティーの時間があって,この時問に教室員のセミナーも行われる。この時の教室員のプレゼンテーションが悪くても,ホプキンスはどこかに皆の興味を引きつけて,話を興味あるものにしてしまう天才であったという。  クレブスはドイツ生まれだから,英国人の得意とするユーモアの精神には欠けるが,よく気のつく人ではあるようである。この点はホプキンスの気風をひきついでいる。クレブスは1945年にシェフィールド大学の教授,さらに1958年にはオックスフォード大学の生化学の教授になっていて,ついに再びドイツには帰らなかった。ノーベル賞受賞は1953年で,いわゆるクレブス回路の発見からは既に10年ほどたってからである。受賞の遅れは一つは第二次世界大戦のせいもあるが,ジカルポン酸の代謝の研究は何もクレブスー人ではなくセント・ジェルジ,オチョアなどの研究成果をうまく纏めたこと,尿素回路で回路という言葉を生化学領域にクレブスの名とともに定着させていたこともあり,いつかは受賞するだろうと皆が考えて居た所へ,折りよくリップマンが補酵素Aの研究を出したのでリップマンと同時に受賞したという評判である。ノーベル賞はその事実の発見から何十年かの年月を経て受賞する例,たとえば腫瘍ウィルスのペイトン・ラウス(1966年受賞),あるいは動く遺伝子を発見したバーバラ・マクリントック(1983年受賞)のように,発見から受賞までに50年ほど経過していて,生きていてよかったという例もある。その点ではクレブスなどは丁度よい時期であったと思う。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


Jeffries Wyman(1901-1995):マサチュセッツ州West Newtonの旧家に生まれる。祖父は同名の考古学者で,大森の貝塚の発見者モース博士の師であった。ハーバート大学を経て,University College Londonに学ぶ。戦時中は海軍の仕事に携わり,戦後ハーバート大学助教授,駐仏大使館科学捕佐官(1950-53),ユネスコ勤務(1954-58)を経て,ローマ大学教授(1960),退職後パリに住む。  1950年の夏,突然に朝鮮戦争が勃発した。ジェフェリスはソウル大学の講師として招聘されていて,その途中東京滞在中に戦争が始まり足止めをされたのである。私は東大理学部化学の水島教授から彼を紹介されたが,彼の専門は生物物理,私の専門は生化学で学問的興味は異なるが,初対面の時からウマが合って,その夏休みに当時家内の実家がまだ那須に疎開したままだったので,日本の田舎が見たいという彼の要望に応えて家族ぐるみでそこを訪問することになった。  那須野の家は温泉があるわけではなく,ただ農場の真っただ中に建てられた日本家に居住設備がやや整っている程度で,外人向きのものではない。アェフェリスは最初からここが気に入り,その上初めて親しく外人に接した家内の両親の歓待ぶりがすっかり彼を日本の農村の生活に溶け込ませてしまった。  昨年実に45年ぶりに彼が家族に出した那須の生活ぶりを知らせる長文の手紙がみつかったといって,彼の長女のアンヌから10ぺ一ジにわたってぎっしりタイプされた手紙が私に送られてきた。農村の人たちが彼に何か講演して欲しいと申し込んできた時,どんな話が聞きたいのですかと訊ねたら,村の人達は彼が私と同じ専門で生化学者と思い込み,当時の日本で問題になっていた産児制限について話して欲しいといわれた。これは生化学と性科学との間違いとわかって大笑いになったが,ともかく那須野の農民にとってはアメリカ兵以外の初めての外人さんだったので,どこへ行っても大歓迎だったのである。  夏も終わるころ,私たちは佐渡と新潟の旅行に出掛けた。ジェフェリスは島に興味があり,佐渡へ渡って見たいというので新潟大学での講演を兼ねて出掛けたのである。佐渡では船に乗ったり,新潟では花火を見物した時旅館が無くて芸者置屋に泊めてもらったり,彼には楽しい思い出になることばかりだった。  二度目の出会いはパリだった。私はアメリカ留学の帰りにヨーロッパ回りで帰国したので,パリではアメリカ大使館の科学補佐官だったアェフェリスにフランスの生化学者に紹介してもらった。まだノーベル賞をもらってはいなかったが,優れた研究者のジャック・モノーとか,その教室の若い助手だったフランソワ・グロ(後のパストウール研究所所長)などと親しくなったのは彼のお蔭である。グロは私がアメリカ大使館の紹介だったのでてっきり二世だと信じていたようである。  三度目の出会いは日本である。彼は三度目の奥さんのOlga Lodigenskayaと結婚していて,初めて紹介してくれた。オルガは旧ロシア皇帝の縁戚にあたるとかで見識の高い人で,微笑もしないコワイおばさんだった。話しているうちに,神戸に親友がいるから電話をかけたいのだがと相談を受けた。名をきくとモロゾフだという。モロゾフなら有名なチョコレート屋さんだというと,とんでもない,れっきとしたロシア貴族でチョコレートなどは作ったことはない筈だという。それでも試みにチョコレート屋さんのモロゾフに電話をかけたら,オルガの親友が出てきた。彼女らの会話を聞いているとフランス語なので、なるほどロシア貴族はフランス語が日常語なのだと思い出して,以後のオルガとの会話はフランス語に切り換えた。そうしたらあのにこりともしないおばさんが急に愛想がよくなってびっくりしてしまった。彼女によるとフランス語を話す人はしかるべき家柄の人だから,お付き合いできるというのだった。  四度目の出会いは1988年のパリである。Jeffriesは車椅子だった。あんなに歩くことの好きだった彼が歩けないとは何とも気の毒である。オルガは優しく看護していた。部屋の正面に軍服姿の肖像画があるので,ジェフェリスに誰の肖像ですかと聞くと,オルガが話を引き取って,これぞロシア帝国最後の皇帝であるという。戦前日本の家庭によく見られた御真影よりももっとオルガの心のよりどころになっているようだった。 オルガが先に亡くなると,ジェフェリスも間もなく亡くなった。その年の12月にアメリカのケンブリッジで行われたJeffriesの追悼の会のプログラムに幼いJeffriesがシャボン玉を吹いている写真に添えて,次の英文があった。 The flow of the river is ceaseless and its water is never the same. The bubbles that float in the pools,now vanishing,now forming, are not of long duration:so in the world are man and his dwellings.  「流れに浮かぶうたかたは・・・」というこの句は紛れもなく鴨の長明の方丈記の冒頭の句である。ジェフェリスの一生がまさしく方丈記の長明の心境であったことは誰よりも彼がよく心得ていたとは思われるが,彼の死後,いったい誰がこの文を択んだのだろうか。遺言でもあったのだろうか。気になる話である。
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