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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 75 (3) :111-189, 1999

原著
ラット骨肉腫細胞(MSK)のコラゲナーゼ活性と遠隔転移能の解析
 成川芳明 高橋喜久雄 佐藤研一 藤村眞示
 
マウスポリコーム群遣伝子mel−18の機能:胸腺器官形成過程における役割
 川平 洋

マウス移植片対宿主病モデルを用いた移植片対腫瘍効果と移植片対白血病効果の比較検討
 石井昭広

前立腺癌の進行・転移における第8, 10, 16染色体の欠失
 池田良一

定型網膜色素変性症の視野・網膜電図の検討:遺伝形式間の比較
 石川一之 安達恵美子 溝田 淳

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰
 (5) Severo Ochoa
 (6) Jacques Lucien Monod
 (7) 江上不二夫
 (8) Feodor Lynen

私の2000年問題
 福武敏夫

海外だより
ハーバード大学スケペンス眼研究所より
 水野谷 智
ミシガン州アナーバーより
 松田兼一

らいぶらりい
Oncologic Therapies
 伊東久夫
食の科学:飽食時代の栄養学あれこれ
 中島祥夫

学会
第12回千葉県重症患者管理研究会(旧千葉県MOF研究会)
第983千葉医学会例会第16回神経内科例会
第987千葉医学会例会第21回千葉大学第三内科懇話会

編集後記

 
   
  ラット骨肉腫細胞(MSK)のコラゲナーゼ活性と遠隔転移能の解析
成川芳明 高橋喜久雄1) 佐藤研一 藤村眞示2)  千葉大学医学部歯科口腔外科学講座 1)社会保険船橋中央病院歯科口腔外科 1)
千葉大学医学部生化学第一講座


 ラット骨肉腫由来の3種の培養細胞株において、コラゲナーゼの活性レベルと組織接着を精査した。さらにこれらのデータを、各培養細胞細胞株を近交系F344ラットに注入して得られた腫瘍の遠隔転移率と比較検討した。1)in vivoにおいて、培養細胞のコラゲナーゼ活性レベルと臓器接着の間には明らかな関連が認められた。すなわち、酵素活性が高い細胞株は、ラットの肝切片に対する高い接着を示した。2)これらの接着はEDTAおよびo‐フェナントロリンによって濃度依存的に阻害された。このことがら、コラゲナーゼはラット肝切片に対する接着に重要な役割を果たしていると考えられた。3)コラゲナーゼ活性のレベルが高い株によって形成された戻し移植腫瘍は、その活性のレベルが低いものによって形成された腫瘍に比較して、高率に遠隔転移がみられた。これらの結果は、骨肉腫の遠隔転移のメカニズムに関して、コラゲナーゼが重要な役割を持つことを示唆している。さらに、同一の腫瘍から得られ、しかもそれぞれ異なる性格を持つ3種の培養株は、今後のコラゲナーゼと腫瘍の転移に関する研究において有用であると考えられた。
 
   
  マウスポリコーム群遣伝子mel−18の機能:胸腺器官形成過程における役割
川 平 洋 千葉大学医学部外科学第二講座


マウスmel-18は、ショウジョウバエの形態形成、特に前後軸形成に関与するポリコームグループ遺伝子posterior sex combs (Psc)と高い相同性をを持つ。mel-18の生体内機能を解析する目的で遺伝子相同組み換え法を用い、mel-18欠損マウスを作製した。その結果、中軸骨格系に後方化の変異を呈する他、下部腸管の病的肥厚とリンパ系組織の形成異常が観察された。このマウスを用いて、胸腺形成過程にどのような機能を果たしているかを解析した。mel-18欠損マウスの胸腺は、著明な発育不全と胸腺細胞の増殖異常を認めた。特に生後4週齢マウスにおける胸腺においては、胸腺細胞数は野生型の1/100以下に減少し、CD4/CD8によるフローサイトメトリー解析では、欠損型では99%以上がCD4/CD8二重陰性胸腺細胞にとどまっていた。胎仔胸腺器官培養の手法を用い、欠損型と野生型の胸腺細胞と胸腺上皮の入れ換え実験を行った。欠損型胸腺細胞は、野生型胸腺上皮内の環境では増殖、分化とも正常であったが、野生型胸腺細胞は、欠損型胸腺上皮内では増殖、分化ともみられなかった。胸腺上皮の機能を解析するため、ヌードマウスの腎被膜下に胎仔胸腺を移植、ヌードマウス由来の再構築した胸腺細胞を解析した。欠損型胸腺上皮内では、胸腺細胞のCD4/CD8の分化は正常にみられたが、細胞数は、コントロールに比較し、1/10以下であった。以上の結果からmel-18欠損マウスの胸腺は、発育不全と胸腺細胞数の減少と分化の異常を認め、その胸腺細胞数減少の原因は、胸腺上皮の機能異常が原因であることが示唆された。
 
   
  マウス移植片対宿主病モデルを用いた移植片対腫瘍効果と移植片対白血病効果の比較検討
石井昭広 千葉大学医学部内科学第二講座


同種骨髄移植後のgraft-versus-leukemia effect (GVL)と同様にgraft-versus-tumor effect (GVT)が認められるかどうかをマウスgraft-versus-host-disease (GVHD) モデルを用い検討した。白血病のcell line では4種類全てに認めたのに対し固形腫瘍のcell lineでは3種類のうち1つにGVTを認めた。すなわち、GVLとGVTは同等でないと考えられた。次に我々はかねてより、いくつかの固形腫瘍においてimmunosuppressant として知られる、transforming growth factor-beta (TGF-β)が高濃度に分泌されることを知り得ており、その作用をnaive cell lineとGVTの発現を比較することにより検討した。その結果、naive cell lineでは明らかではなかったGVTをTGF−β anisenseをtransfectすることにより認めた。すなわち、腫瘍のTGF−βの産生を抑制することによりGVTが誘導されたことから、TGF-βが同種免疫における重要なimmunomudulatorである可能性が示唆された。
 
   
  前立腺癌の進行・転移における第8, 10, 16染色体の欠失
池田良一 千葉大学医学部泌尿器科学講座


前立腺癌の進行や転移と第8,10,16染色体の欠失の相関について転移巣を含めた、様々な臨床病期の前立腺癌検体を用いて検討した。各症例の正常および癌組織よりゲノムDNAを抽出し、PSR-LOH方を用いて各染色体につき2−4個のマイクロサテライト・マーカー部位について解析した。組織学的分化度は特に染色体欠失はその相関を見なかったが、それぞれの染色体の欠失と臨床病期との間に有意な相関を認めた。染色体の欠失はその領域における癌抑制遺伝子の存在を意味しており、前立腺癌の進行および転移に第8,10,16染色体上に存在が予想される癌抑制遺伝子は重要な役割を演じているものと考えた。またこれらの染色体欠失は前立腺癌患者の予後や進展の可能性を把握するのに有効な指標となりうるものと考えられた。
 
   
  定型網膜色素変性症の視野・網膜電図の検討:遺伝形式間の比較
石川一之 安達恵美子 溝田 淳 千葉大学医学部眼科学講座


1984年から1996年までに千葉大学眼科を受診した定型網膜色素変性症228例について常優26例,常劣64例,弧発例138例に分け動的量視野および網膜電図を検討した。Goldmann視野におけるV-4イソプターでは5から10cm2までと150から250cm2までの2群に別れ、V-4イソプターでは5cm2以下は群のみ認められた。加齢及び遺伝子形式による差異は認められなかった。網膜電図ではa,b.波とともに正常対照群より減少してはいるものの、遺伝形式による差異は認められなかった。また、網膜電図で振幅を認められる割合はV-4イソプターおよびV-4イソプターの面積と相関していることが示唆されたが、遺伝形式による差異は認められなかった。網膜電図の振幅の比であるb/a比は正常対照群に対して疾患群は減少していたが、常優は特に他に比べ有意に減少していた。定型網膜色素変性症の網膜電図や視野の検討は数多くなされてきたが、b/a比について統計的考察がなれてきたことはない。a波およびb波は組織学的に発現起源が異なっており、b波はa波のインパルスによって二次的に引き起こされることは以前より知られてきている。網膜電図において常優のb/a比が有意な低下を示すことは、網膜障害の機序が他と異なる可能性が示唆された。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(5) Severo Ochoa(1905-1993):スペインのアスツリアス地方のLuarca生まれ。1929年マドリド大学医学部卒業、ベルリンのカイザー・ウイルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフのもとで研究、マドリド大学講師(1931-35)、スペインの内乱を避けて再びハイデルベルグに移転したカイザー・ウィルヘルム研究所のオットー・マイヤーホフのもとで筋肉の研究(1936年)、翌年プリマスの海洋生物研究所に移り、ついでオックスホード大学でビタミンBlの研究、1940年に渡米し、セント・ルイスのワシントン大学のコリ夫妻のもとで研究、1942年ニューョーク大学に移る。1954年生化学教授、1959年ノーベル生理学医学賞受賞。1974年ニュージャージー州のロッシュ研究所に移る。  オチョアの生まれたアスツリアス地方の海岸Luarcaはいわゆるバスク民族の多い地方である。オチョアの父も同名(セヴェロ・オチョア)で、バスクの血をひいている弁護士であり、実業家でもあった。日本に初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ハビエルもバスク民族である。バスクの言葉は主語、動詞などの並び方は日本語に近い。したがってフランス系バスクのカンドー神父のような日本語の達人が多い。しかし、オチョアはおそらくバスク語はあまり知らない筈である。バスク語のナショナリズムが勃興してきたのはここ二十年ほどのことであって、オチョアが故国を出た頃はバスク民族であることに誇りを持ってはいても、まだバスク語を習おうというような気分は薄かったと思われる。オチョアの若い時はむしろスペインの内乱とか、ヨーロッパに吹き荒れた第二次世界大戦の嵐を避けるのに懸命で、バスクの独立運動は盛んではなく、今のようにバスク語を習うとか、バスクの独自性を強調するような運動はなかった。むしろオチョアはスペインの生んだ天才的な神経学者のラモン・イ・カハールに私淑し、マドリド大学医学部に入学したが、間もなくカハールが引退してしまい、オチョアの夢は消えてしまった。  オチョアの例でも分かるように、若い時はえてして功なりとげた大学者に師事したいと考えるものだが、自然科学の師匠を選ぶなら、出来れば自分よりやや年長の人の方が共同研究の期間に余裕があってよいと思われる。オチョアが大学卒業直後に選んだ師匠、オットー・マイヤーホフは当時まだ45歳に過ぎず、これはよい選択であった。当時のマイヤーホフのもとにはリップマン、ルオフ、ナハマンゾーンなどがいて活気のある研究室だったのである。後年、私がルオフやナハマンゾーンにこの時代のマイヤーホフ研究室の雰囲気を訊いてみたところ、みんな若くて元気がよく、向学心に燃えていて楽しかったと口を揃えて懐かしがっていた。  オチョアは二度マイヤーホフの研究室に留学している。二度目の時はスペインの内乱を嫌って緊急にマドリドからハイデルベルグの研究室に赴いたのだが、まもなくマイヤーホフ自身がナチスに追われて、フランスに亡命してしまった。しかし、出発前の慌ただしい時期にもかかわらず、オチョアの行く先を英国のヒルに相談している。そのお蔭でオチョアの渡英が実現したのである。マイヤーホフは戦乱を避けてフランスからさらにペンシルバニア大学に教授として赴任している。私がペンシルバニア大学に留学したのは丁度マイヤーホフが逝去してまだ一年もたっておらず、私にあてがわれた研究室のドアにはまだ金文字でProfessor 0tto Myerhofと書かれていて、大切に使いなさいと特にチェアマンからお達示があった。しかし、一番私に強い印象を与えたのはマイヤーホフの大勢のお弟子さんが、いかにマイスター・マイヤーホフが人間的に魅力のある人だったかという思い出話であった。マイスターは自然科学だけでなく、古典の知識、芸術への理解もあって、自宅で開かれるパーティでの会話がどんなに楽しいものであったかを度々聞かされたものである。  ペンシルバニア大学に留学中、私はアメリカ東部の大学の生化学の教室を出来るだけ訪ねてみたい希望があり、ブキャナン教授が若い、新進気鋭の人を選んでは紹介してくれた。オチョアを訪ねたのもブキャナン教授の紹介であった。初め彼は薬理の教授と聞いて、私の専門とは違うと思ったが、実はオチョアは薬理学よりも生化学にくわしく、人柄がすばらしくいいというので、ニューヨーク大学に出掛けてみた。行ってみて驚いたのは研究室が他の大学に比べて貧弱なことであった。ニューヨーク大学はスペースの関係で狭い場所を無理してオチョアのために空けたのであろう、教授の研究室というには狭すぎたようであった。しかし、評判通り、人柄がよく、研究内容が魅力的だったので、後に日本に帰ってから当時私の上司だった島薗教授がアメリカ訪問のスケジュールをつくる段になって、オチョアにはぜびお会い下さいと二重丸をつけておいた。その縁で後に島薗門下の上代淑人さんがオチョアのもとに1959年に留学することになったのである。  ノーベル賞受賞の理由としてRNA合成酵素の発見というのもコーンバーグの場合と同様正しくは後に同じ人たちによって発見された別の酵素が真の合成酵素であった。これはあるいはオチョアにとって不本意なことであったろうが、受賞後もオチョアの研究はさらに冴えて蛋白質合成の基本となる遺伝子の暗号の発見などすばらしい業績がある。  オチョアは門下生の多い日本に来るのを大変楽しみにしていた。私も何度か日本での会食の席に同席したことがあるが、一番驚いたのはオチョアが芸者さんとタンゴ風のダンスを踊った時である。スペイン舞踊には動作の止まる瞬間があるのだが、それが見栄を切るようにちょっと長いので、パートナーの芸者さんは間が取りにくかったらしい。もう一つ驚いたのはアムステルダムのホテル・オークラのバーで偶然に会った時で、あの長身のオチョアに抱擁されてョーロッパ風の頬を寄せ合う挨拶をされた時である。髭がチクチクと痛かった記憶がある。  オチョアは1961年から1967年まで国際生化学連合の会長だった。丁度その頃、1967年に東京で国際生化学会議を開くので、私はその準備のためしばしばオチョアに会う機会があった。私の質問にいつも機嫌よく明快な返答が返ってきて、事務的にも交渉しやすい人だったのが印象に残っている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(6) Jacques Lucien Monod(1910-1976):パリ生まれ、パリ大学卒業(1931年)後、ストラスブール大学で原虫の研究後、パリに戻る。グリーンランド探検隊に参加、ついでアメリカのMorganの研究室で遺伝学を研究(1936年)、帰仏後ウィルス学者のLwoffとともにジオーキシー現象を発見し学位受領(1941年)。ドイツ占領下のレジスタンス部隊に参加、負傷。戦後、大腸菌の誘導酵素の研究を遺伝学者のJacob及びLwoffと行い、その功績が認められ1965年にノーベル医学生理学賞受賞。  1953年にパリで駐仏アメリカ大使館の科学参事官だったジェフェリス・ワイマンの紹介でパストウール研究所にいたモノーを訪ねた。その時はアメリカ大使館の紹介だから、私のことを日本人二世だと思ってモノーは専ら英語で応対する。その英語がフランス人離れした立派なキングス・イングリッシュなのに驚き、訊ねてみると彼のお父さんはCalvin派のユグノー教徒でお母さんは英国人だったそうで、彼は幼い時から英仏両国語で教育されたという。彼の研究室は古いパストウール研究所の屋根裏部屋で、さして広くない所だった。アメリカの研究室を見慣れた目には新しい実験器具も冷房もない部屋は見すぼらしく見えたが、若い研究員の熱気が自ずと伝わって来るような雰囲気だった。その中には後のパストウール研究所の所長となるフランソア・グロと彼の最初の夫人もいたのを覚えている。彼らは私がアメリカ留学を終えて帰国の途中であることを聞き、しきりとアメリカの研究室の模様を聞きたがっていた。その晩ワイマンのアパートにモノー夫妻を招待して、家内の手料理で日本食パーティを開いた。モノー夫人はギメ博物館に勤める考古学者で、私も東京で会ったことのある、アフガン探検で有名なアッカン教授の愛弟子であった。  当時のモノーの研究は大腸菌を使った適応酵素の実験であった。大腸菌はふだん乳糖を分解する酵素をもちあわせないが、栄養分として乳糖を与えると、その環境に適応して乳糖を分解する酵素を作り出す性質がある。モノーはこの機構を説明するのに、遺伝子に調節、作動、構造などの役割をもった多様の遺伝子があるという説を立てていた。いかにもフランス人が考え出しそうな理論である。私達、日本人は子供の時は乳糖を分解する酵素をもちあわせるが、成人になると乳糖が分解できず、牛乳をたくさん飲むとおなかをこわす。即ち、私たちの遺伝子には乳糖に適応してそれを分解する適応酵素が出来てこないのである。モノーは当時発見されたメッセンジャーRNAなども自分の理論取り入れてこういった問題を見事な体系にまとめあげたのである。  もう一つ、モノーが体系作りに成功した問題は代謝の調節機構にアロステリック酵素というものの発見がある。これについてはワイマンがへモグロビンが酸素と結合する時の反応がアロステリック作用の典型的なものであることを発表しているので、モノーとワイマンとは気があうのである。私はフランスを訪れる前に、予めフランスのこれからの生化学者を紹介して欲しいと手紙を出していた。それに対してワイマンがただ一人紹介したのがモノーで、私は当時やや「モノ足りない」気持ちもしたが、ワイマンの見方はさすがに正鵠を射ていて、モノーとその後継者のグロがその後のフランス生化学の事実上の指導者になっている。  その後十年余の年月が経過して、1966年の日本生化学会はモノーに特別講演を依頼することになり、モノーも承諾していたが、その年のノーベル賞がモノーに与えられることになり、急に延期になってしまった。私はもう一度「モノ足りない」気持ちを味わったのである。ところが1967年の日本生化学会には延期していたモノーの講演が実現することになった。しかし、今度はノーベル賞受賞者だから、前年とは違い旅費その他の経費が倍増して今度は「モノ入り」の特別講演者になってしまった。  その後、しばらくモノーに会う機会がなかった。日本では学生騒動があって、どこの大学も大なり小なりこの騒動に巻き込まれ、外国に出張するのもままならない状態が続いた。フランスもご多分に洩れず、学生のデモがあり、血の気の多いモノーは学生の先頭に立ってデモをしたとか江上先生から聞いたことがある。ようやく騒動がおさまってパリに行く機会があり、パストゥール研究所に所長になっていたグロを訪ねた時、グロがいうには、亡くなったモノーに代わってルオフが君に会いたがっている。電話をかけてみろという。結局ルオフさんのお宅に晩餐に招待された。陸軍病院の近くのアパートに伺ってみると、特別の用事は無かったがモノーの追憶談など、もう引退しているルオフ老夫婦の歓待を受けた。世間の評判ではルオフさんは難しい人で社交好きではないとのことだったが、私はどこが気にいられたのか、その後もパリ訪問の度に晩餐に招待された。ルオフさんと私との接点はモノーとの関係のほか、ルオフさんが1933年にオットー・マイヤーホフのもとに学んでいることである。私がペンシルバニア大学に留学したのはマイヤーホフの没後一年にもならない時で、私は彼の実験室をそのまま使わせてもらった。お弟子さんからの話ではマイヤーホフはよく外国からの留学生を自宅に招待して、学問以外の話をしたということであった。マイヤーホフは古典や芸術にも通じ、その何気ない会話でも大変奥深いものがあったと今でも懐かしがる人が多い。ルオフさんはマイヤーホフにそれを学んだのかも知れない。もうあまり学問の話は出ず、引退した老夫婦の普通の会話だったが、今私自身がその年齢、その境遇になってみると、私は外国のお客さんを手料理でもてなすほどの元気がなくなっているのに気づき、改めてルオフ夫妻の親切に心を打たれている。  ルオフさんはモノーよりもさらに8年の年長者である。ノーベル賞受賞の時にはルオフ、ジャコブ、モノーと並んでいるが、私達が最初に受けた印象はこの賞の対象になった実験はモノー一人の業績のように思われ、どうして他の二人が同列に並ぶのかわからなかった。しかし、この業績の理論的指導者は案外にルオフさんなのかも知れないと思うようになってきたのはルオフさんの若い時の業績を知ってからの話である。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(7)江上不二夫(1910-1982):東京生まれ、1933年東大理学部化学科卒、フランス留学、名古屋大学理学部教授(1943-1958)、東大理学部教授(1958‐1971)、三菱化成生命科学研究所所長、日本学術会議会長(1969-1972)、硝酸呼吸の研究、核酸の構造研究、生命の起源の研究、国際生命の起源学会会長(1977‐1982)。  江上先生は小学校時代大変虚弱な方だったそうである。これは千葉大学教授で高師付属〈現在の筑波大付属)小学校で同級だった方から聞いた話だから、信用が置けると思われるが、遠足の時歩けなくなって、女の子におんぶされて山に登ったとか。随分強い女子がいたものだと思うが、後年のエネルギーの塊のように活躍された江上先生からは想像もつかない。72歳でお亡くなりになった時も昔のことを知っている人はむしろ奇蹟的な長寿というような表現をされている。  私は学生時代から江上先生を存じあげているが、ちょうど先生がフランスから帰られたばかりの頃で、その時はもう虚弱児童の面影はみじんもなく、元気一杯の若い研究者だった。戦後、私が核酸の研究を始めて、医学部の生化学教室でその頃はまだ珍しかった放射性同位元素を使って核酸代謝の研究を数名の若い仲間と始めた頃、同じく核酸の研究を始めた理学部、農学部さらには他の大学の人も加わって「核酸研究会」というものをつくり、しばしば会合を開いていた。江上先生もその仲間で、日本にはまだ核酸に関する単行本がないからというので江上先生が音頭をとって、共立出版から「核酸及び核蛋白質の研究」という上下二巻の本を1951年に出版した。この頃は核酸が遺伝子であることはうすうす知っていても遺伝子そのものだということは誰も断言しておらず、まして蛋白質を作るときの鋳型になるなどとは知らなかった時代である。  江上先生はしきりと、小学校では蛋白質や脂肪などの栄養の基礎的知識は教えるのに、核酸は教えないのは核酸が栄養にならないからである、と主張して、役に立たずともよいから核酸というものの存在を小学校から教えた方がよいといっておられた。この頃からすでに核酸は栄養にはならないことが確立していたのに、最近はやたらに「話題の核酸」などと銘打って強壮食として核酸が売られているのには驚く。その上、先日あるテレビで核酸の一日所要量は5gで、これが不足すると癌や老化がおこるとまことしやかに話した医者があった。最後に食物として核酸に富むものは蕪であるという珍説を聞かされて本当にびっくりした。もし江上先生が聞かれたら、例の手を振り回す独特のジェスチャーで否定されるだろう。  私は1952年に江上先生に誘われてクセジュ文庫の「死」という本を訳した。この本は表題に似合わず長命な本で未だに白水社から印税が届く。さらに1956年には丸善からフルトン原著の「生化学」を江上先生の音頭取りで訳している。「死」の訳者のまえがきを読むと、「原著者およびわれわれ二人の訳者(江上・三浦)はそれぞれ異なった人生観を持ち、また生命観もそれぞれ異なる」と江上先生は書いておられる。江上先生はふだんの会話の時はかなり強引に自説を主張される方なのに、この前書きをみると個々の人生観、生命観を尊重しておられて微笑ましい。  ここに生命観といっておられるが、これは江上先生の場合は特別で、生命の起源という問題に逢着するのであろうと思われる。これはもちろん核酸の研究から出発した疑問である。地球上に初めて姿をあらわした生命体はその蛋白質が最初に出来たのだろうか、それともその鋳型である核酸が初めにあって、その鋳型によって蛋白質ができたのであろうか、という素朴な疑間から出発している。最近は最初にRNAが出来、それから蛋白質が出来ることが証明されたが、50年前は全く不明だったので、日本生化学会の創立50周年記念の会に、生命の起源についての考察をしきりと発表していたロシアのオパーリンを招待したのも江上先生の発案である。オパーリンはもちろん実験的に生命を作ったわけではない。ただ原始の地球上の環境を再現してみてどんな化学反応が可能かを探ってみたのに過ぎない。  オパーリンは東京滞在中、駿河台の山ノ上ホテルに泊まっていた。私は同じ駿河台に住んでいるということで接待係を命じられたが、英語、フランス語の通じないオパーリンとはお互いにブロークンのドイツ語で話したので学問的な話は出来なかった。しかし、その大分後で、初めて人類が月に到達した時、月に生物がいる可能性についてNHKのテレビで一晩中、アポロが飛び立つまで、脚本なしの話をさせられた。なぜ私が選ばれたのか、その時は分からなかったが、オパーリンの世話をしたのが誤解のもとだったと後からわかった次第である。  江上先生は生命の起源の問題がお好きで、国際生命の起源学会の会長を1977年から亡くなられるまで続けておられた。先生は何の学会でも自分が作られた学会は一期、会長を勤められるが、二期目から誰かに譲られるのが常である。日仏関係の学術団体を私が戦後復活させた時、会長の三選を禁ずる条項を会則にいれるのを忘れて、万年会長が生まれた時、江上先生から会則の不備を指摘されて閉口したものだった。  江上先生は物の考え方がラジカルなので、政治的にはかなり左に偏っておられたように世間では噂をしていた。しかし、国際生化学会の時、私たち事務を委ねられていた人達に一番ねぎらいの言葉をかけ、実際的な心遣いを示されたのは、ボス的な医学部出身の方ではなく、理学部出身の江上先生だったのである。それだからこそ日本学術会議会長にも選ばれたのであろうと推察している。しかし、江上先生は晩年、三菱化成の研究所の所長になられた。ここは財閥の研究所であるだけにご心労も多かったのではなかろうか。三菱に行かれたのも理学部出身の研究者の働く場所を作っておいてやろうというお心遣いだったのであろうというのが巷の噂であった。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(8)Feodor Lynen(1911-1979):ミュンヘン生まれ。ミュンヘン大学卒業、ノーベル賞受賞者のウィーランド(化学者)の指導を受け、1937年学位受領、ウィーランドの令嬢と結婚、スキーで骨折、足が不自由になる。講師、員外教授を経て、1953年ミュンヘン大学教授に任命される。翌年新設のマックス・プランク細胞化学研究所の所長を兼任する。1964年には脂肪酸の生合成機構の研究でノーベル賞受賞。 1972年には新しく統合されたマックス・プランク生化学研究所の全体の所長となる。国際生化学連合(IUB)の会頭も勤めた。  私は最初略歴にも述べたように師事したウィーランドにその資質を認められてその婿殿になったのかと思ったが、実は大恋愛の末だと聞かされた。リネンは涙もろい熱血漢で、スキーで足を骨折した後、松葉杖の生活になってからもダンスはとびきり上手だし、本当に男らしい、親切な性格の人だから、大恋愛の話ももっともだと納得した。  リネンの回路というのがある。生化学にはやたら回路が多いのだが、教科書などにはあまり出て来ない回路で、脂肪酸の酸化回路のことである。この回路のことは最初、私は1952年のころ、留学先のペンシルバニア大学で、折からアメリカ訪問中のリネンのセミナーで彼自身から聞いた覚えがある。その頃彼はもう助教授かあるいは教授になりたてで、活性酢酸(アセチール補酵素A)のことを熱っぽく講演していた。ドイツ人にしては訛りのない英語だったので、初対面なのに気安く話ができた。戦後の日本の大学の復興について訊ねられ、私もドイツの大学の復興状況を訊ねたりした。  次に会ったのは1964年の4月、京都で開かれた天然物構造化学シンポジウムの後で、各地の大学を訪問した時だった。実験室で若い研究者と差し向かいで質問し、ノートをとる気さくな先生という評判だった。その年の夏、ニューョークの国際生化学会議の後で開かれた日本総領事の和食パーティの時は、彼は「これはおいしいお酒だから」と日本酒をしきりと外国人に勧めて廻っていた。もうこの時はいっぱしの知日家になりすましていたのである。実際、彼は日本が好きで、生涯の間に10回近くも訪日しているのではなかろうか。それに涙もろい性格で、お世話になった岡山大学の清水多栄先生のお墓参りをした時は顔もあげられないほどだったといわれている。清水先生は彼の岳父ウィーランドのお弟子さんで、その関係から彼が来日する度によく世話をみておられた。  1964年にニューョークで国際生化学会が開かれた時、休みの日に皆で万国博覧会を見に行ったことがある。リネンは自分は足が悪いから、遠慮なく自分に構わず先に行ってくれとしきりにいうので、彼を置き去りにして見て廻った。確かに松葉杖で歩くのはかなり時間がかかる。しかし、驚いたことにスキーも大変うまいそうである。この頃はパラリンピックの冬季大会が日本でも開かれて、身障者がスキーの滑降に出場して片足の選手も珍しくもないが、最初リネンからスキーも滑っているよと聞かされた時はからかっているのかとさえ思ったのであった。  さてリネンの研究業績だが、酢酸の活性化にピタミンのパントテン酸を含んだ補酵素Aが必要だということは、リネンより以前にリップマンによって見つけられ、リップマンはこの業績によって1953年にノーベル医学賞を受賞している。これまではパントテン酸がヒトにとってビタミン作用があることは知られていても、どのような生化学反応に必要なのかは分からなかったのである。パントテン酸と同じくビオチンもまたヒトのビタミンであることは知られていたが、これもどんな化学反応に与かるのかは全く分かっていなかった。リネンはアセチール補酵素Aに炭酸ガスが固定されてマロニール補酵素Aになることを発見し、この段階にビタミンであるビオチンと、ミネラルとしてマンガンが必要であることを発見したのである。  ビタミンの役割を発見すると、ノーベル賞が貰えるという伝説があるが、一通りビタミンの研究がすんだ今は、ノーベル賞は生化学者に背を向け始めたようである。1964年のリネンのノーベル生理医学賞受賞の主な理由は、脂肪酸のべ一夕酸化のいわゆるリネンの回路の発見と脂肪酸合成の多酵素複合体の発見であって、パントテン酸やビオチンなどのビタミンの関与はこの中に含まれている。その後のこの方面の研究はリネンのもとに留学した京大の沼教授に引き継がれている。  生化学用語の中で回路(サイクル)と呼ばれるものは、クレブスの呼吸の回路、クレブス・へンゼライトの尿素回路、コリのグルコースと乳酸の間の回路などが有名で、リネンの回路はあまり人の口に登らないが、脂肪の酸化については大変重要なものである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
   
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