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千葉医学雑誌

 
千葉医学 75 (4) :191-247, 1999

総説
癌に対する遺伝子治療
 落合武徳 軍司祥雄 松原久裕 島田英昭
 
原著
S状結腸癌および直腸癌に対する大動脈周囲リンパ節郭清の臨床的意義
 新井竜夫 小野正人 杉藤正典 鈴木弘文 川島清隆 竜 崇正

皮節配列の規則性とヒト皮節図の再評価
 高橋 弦

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰
 (9)  Arthur Kornberg
 (10) 山村雄一
 (11) 佐々木隆興
 (12) 児玉桂三

話題
「病院」と「hospital」
 金久保好男

らいぶらりい
New Diagnostic Methods in Oncology and Hematology
 佐藤武幸

学会
第975回千葉医学会例会・第19回歯科口腔外科例会
第980回千葉医学会例会・第23回放射線科例会
第984回千葉医学会例会・第33回肺癌研究施設例会

編集後記

 
   
  S状結腸癌および直腸癌に対する大動脈周囲リンパ節郭清の臨床的意義
新井竜夫 小野正人 杉藤正典 鈴木弘文 川島清隆 竜 崇正 国立がんセンター東病院消化器外科


S状結腸、直腸癌に対する大動脈周囲リンパ節郭清の適応とその臨床的意義に関しては未だに明確にされていない点も多い。今回 retrospective にS状結腸、直腸癌症例を対象とし、大動脈周囲リンパ節郭清と#253、#216陽性症例につき検討を行った。対象は最近4年7ヶ月間に手術を施行した大腸癌症例507例のうち病変がS状結腸以下の症例348例とした。S状結腸158例と直腸190例である。大動脈周囲リンパ節郭清(以下D4)の適応はこの時期は、1) 術前に大動脈周囲や主幹動脈にリンパ節が指摘されている症例、2) 術中にN2以上の転移があると判断された症例としている。D4の施行率であるが全体では32.5% (113/348) であった。D4施行群と非施行群(以下D3以下)を比較すると手術時間(D4 : 331min vs D3以下: 238min)、出血量(D4: 949g vs D3以下: 438g)の両群で有意差を認めた。次に大動脈周囲転移陽性例についてであるが、#253陽性症例はS/Cに2.6% (4/158) にのみ認められ直腸にはみられなかった。#216陽性症例はS/Cで2.6% (4/158)、Rsで0% (0/59)、Raで8.6% (5/58)、Rbで1.4% (1/73)であり、全体では2.9% (10/348)であった。根治度でみると#253陽性症例では根治度A, B, Cがそれぞれ1例, 2例, 1例であり、腹膜播種2例と肝転移1例が根治度B, Cの原因となっていた。一方#216陽性症例では根治度A, B, Cが3例, 3例, 4例であり、根治度B, Cの原因として残存#216が4例、ewが2例、肝転移が1例であった。予後についてであるが、#253陽性症例では再発死亡1、再発生存2、無再発生存1である。#216陽性症例では死亡7、再発生存2、無再発生存1であり、累積生存率は12, 18, 24ヶ月でそれぞれ56%, 33%, 0%であった。今後術前大動脈周囲リンパ節転移診断の向上および危険群の抽出を行い効率的なD4郭清を行う必要があり、再発危険群でもあり術後の強力な補助療法も必要と考えられた。
 
   
  皮節配列の規則性とヒト皮節図の再評価
高橋 弦 千葉大学医学部整形外科学講座


動物実験より決定した感覚神経の分節性支配領域(皮節)分布の規則性を報告し、その規則性を根拠として既存のヒト皮節図の再評価を行なった。あらかじめEvans blueを静注投与したラットの、前肢・後肢の脊髄神経を感覚神経のC線維の興奮強度で電気刺激すると、その脊髄神経の支配領域の皮膚に色素漏出が発生した。この方法を用いてラットのC1-T1 (前肢), T12-S1 (後肢) 脊髄神経を刺激し四肢の皮節図を決定した。四肢の皮節図は体幹部の皮節と同様に原則として体幹前後軸を集回するループ状構造を示し、そして腹側面・背側面では抹消に向かい四肢の中心軸に沿って伸長していた。ラットとヒトの四肢は解剖学的に相同関係にあり、骨・筋・末梢神経の空間的関係も同一である。さらに、今回ラットに認められた皮節分布の原則性は、霊長類を含めた他の哺乳類においてもすでに報告されており、ヒトの皮節分布もこの原則性に従うことが演繹的に推論される。そこで、この原則性をもとに仮説的なヒト皮節図を描き、この仮説図からヒト皮節図を再評価した。その結果、神経根切断症例より得られた野崎の図 (1938年) や、神経ブロックにより決定した Bonica の図(1990年)などがこの皮節分布の規則性を比較的によく示しており、臨床応用にふさわしい図であると結論した。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


( 9)Arthur Kornberg (1918- ):1941年 Rochester 大学医学部卒業、U.S. Public Health Service 栄養部門 (1942-45)、NIH酵素及び代謝部門 (1947-53)、セントルイスの Washington University 教授 (1953-59)、Stanford University 教授 (1959- )、ノーベル医学生理学賞受賞 (1959)。  1957年に戦後の日本で開かれた二番目の国際会議である「酵素化学シンポジウム」が東京と京都で開催された。このシンポジウムには私が1952〜3年にアメリカに留学した時に知り合いになった多数の生化学者も参加したが、初めて会う人も多く新しい友人が飛躍的に増えた機会であった。アーサーもこの時初めて会った学者の一人である。 そのころ私たち、若い生化学者の間には懇話会があって、毎月誰かの話を聞く会がどこかでささやかに開かれていたが、シンポジウムのために来日したアーサーの話を聞きたいという会員が多く、彼が招待に応じてセミナーが開かれた。  その時、アーサーが何を話し、どんな質疑応答があったかは今では忘れてしまったが、彼が私と同じく核酸に興味を持ち、1945年にはニューョーク大学の核酸研究者で、私も知り合いのセブェロ・オチョアの所に一年留学していたことなどが共通の話題となって、お互いに親近感が生まれたのだった。そんなことから、彼が離日前に当時、私が住んでいた駿河台の家に夕食に招待したことがあった。  その時、日本酒をお猪口に注いで出した時、それはどこかの温泉のお土産の品であったが、酒を注ぐとお猪口の底にレンズがあって怪しげな写真が浮かび上がる仕掛けが彼の興味をひいた。お土産にしたいがどこで買えるかと訪ねられた記憶がある。  私は「東京ではこんなものはあまり売っていないから、今度どこか温泉に行ったら買って、君がノーベル賞でも貰ったらお祝いに秘書のところに送るよ」と言ったが、「秘書の所は困るよ、直接自分に届くようにしてくれ」と真顔でいうのがおかしかった。私は彼がまさかノーベル賞を貰うとは思っていなかったので、それから二年後に本当にノーベル賞を貰い驚いてしまった。誰か彼に直接届ける人はいないかと探していたら、折りよくロックフェラー財団の懇意のドクターが帰米するというので、冗談にこの話をしたら、それは面白いから自分が届ける、ただし自分にもお猪口を買ってくれということになった。後年アーサーの家のパーティでそのお猪口を見た人があって、あれはあなたの贈り物だそうで、と言われて赤面したことがある。  アーサーはノーベル賞の賞金でテニスコートを造るのにも使ったという。なるほどコンクリート製のテニスコートがカリフォルニアの彼の家の庭にある。若い間はアーサーが一番家族内でテニスは上手だったが、息子さんの成長とともに王座は崩れ去った。「息子が大きくなったらかなわないよ」といっていたのが1965年頃だが、1981年頃でもまだアーサ一のテニスは少しも衰えてはいなかったのである。  1981年の12月に京都の国際会議場で何かの学会があり私たちも出席していた。その中日の午後は休みということになり、アーサーがどこかでテニスはできないかと言い出した。その年は雪が早く京都でも蛍が池は積雪があるくらいだった。方々へ電話して雪が無くて使えるコートがあるかと訊ねたら阪神間の山崎の近くに一つ見つかって、アーサーを案内した。プレイの初めのころは日も照っていたのに、ゲームが5-5になった頃、突然雪が舞い出し、白い雪のカーテンの向こうから黄色いテニスボールがいきなり目の前に現れるという天気になってしまった。ここで引き分けようといってもアーサーは諾かず、とうとう私が根負けして7-5で敗れてしまった。雪の中をクラブハウスに引き上げると、気違い老人のマッチを見守っていたクラブの小母様方からさかんな拍手を受けて、アーサーもまんざらではないようなご機嫌だったことを覚えている。  さらに二年後にこの試合のことを書いた私のエッセイがロレックス社の懸賞に当選して、私はウィンブルドンのテニス大会見物に招待された。この話が遥々海を越えてアーサーの耳に届き、俺たちの試合をネタにしたエッセイでウィンブルドンを見て来て、お土産一つもないのはけしからんと冗談まじりに叱られてしまった。  アーサーはテニスだけでなく、アメリカン・フットボールも好きで、スタンフォード大学のチームの来日に合わせて応援かたがた日本に来たこともある。選手の個人的な情報までよく知っていて大分年期がはいっているように見受けられた。  アーサーがノーベル賞を受けたDNAの複製酵素は生細胞の中で行われているDNAの新規の合成に使われている酵素とは異なっているようである。しかし、当時は「試験管内で生命を創造する酵素」としてジャーナリズムにとりあげられた。この酵素はバイオテクノロジーのテクニックの中でも大変重要なテップを受け持っている。それは分離したDNAの量があまりにも少ない時に、アーサーの酵素を使えばたちまち何万倍にも複製されるからである。この酵素の作り方にはパテントはない。アーサーはいくら勧められても特許の話には耳を傾けない。これは人類の財産であって彼一人のものではないというのである。  アーサーの科学的業績がジャーナリズムに踊らされたのはノーベル賞受賞時だけではない。1967年には国際生化学会議が東京で開かれ、私も実行委員の一人として会議の準備に多忙だった。この会議は夏だったが、それが終わった12月にまたもアーサーの業績が世界のジャーナリズムに衝撃を与えた。それは試験管内で生命が創造されたというニュースだった。アーサーが報告したのは「感染性ファージDNAの酵素的合成」という演題だったが、これについてジョンソン大統領が「スタンフォード大学の天才的科学者が試験管の中で生命をつくることに成功した」と拡大解釈をしたために騒ぎは大きくなってしまったのである。ジョンソン大統領はこの発表の前に既に科学研究費の削減を始めていたが、アーサーの画期的な業績といえどもこの削減を中止することはできなかったのである。  アーサーの最初の夫人シルビーはロチェスター大学の化学者でアーサーとはロチェスターで知り合っている。この人は単なる科学一辺倒の人ではなく、雑誌の編集者の経歴もあり、個人的には私も法隆寺の見学のお供をしたこともあって、東西の文化交流にもある見識をもった人であった。アーサーが70歳位の時夫人の死に会い、さらに二番目の夫人もアーサーに先立っている。一人住まいで困っていたアーサーは1998年の年の暮れに三度目の結婚をした。アーサーのどこか魅力のある明るい性格が彼を一人では放っておかないのだろう。友人達がアーサーの八十歳の誕生祝いをサンフランシスコで盛大に開いたのも彼の人柄のよさによるものだろう。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


山村雄一 (1918-1990):浪速高校を経て1941年大阪大学医学部卒業、1942年海軍二年現役軍医科士官、戦時中は駆逐艦乗組の軍医として南方勤務、戦後、大阪大学理学部の赤堀四郎教授につき生化学を専攻、1955〜56年米国留学、1956年国立刀根山病院内科医長、1957年九州大学医学部生化学教授、1962年大阪大学医学部教授、1967〜69年医学部長、1979〜89年 大阪大学学長。  私自身は旧制高校が大阪高校という学校だったので、同じく大阪の高校でも浪速高校を卒業した山村に初めて会ったのは、海軍に入ってからである。戦争が始まって、足りなくなった軍医を補うために1942年の1月には海軍は500名ほどの医学部卒業生を採用、千葉県館山の砲術学校で訓練を始めた。現在、館山のこの学校の跡地には記念碑があって、当時の在校生の名前が刻まれている。山村は大学の卒業成績がよかったとみえて、館山では班長として活躍していた。  次に山村の名前を聞いたのは戦争が終わり、彼も私も生化学を専攻するようになってからである。彼は刀根山病院という結核症専門の病院にいて、結核菌の生化学を研究していた。ここで彼は肺結核の時に空洞が出来るのは結核菌の分泌するリポ蛋白やミコール酸という脂肪酸が関係していることを発見した。この発見はそれまで世界の誰も行っていなかった実験の成果である。  生化学者は主として研究している物質によって、蛋白屋とか脂質屋とか核酸屋とかに分けられるが、この分類では山村はさしずめ脂質屋に属する。これはその研究室に行けば、蛋白質や核酸、脂肪を分析する器具や試薬が揃っていて、しかも適当な指導者がいるので研究がしやすいという意味である。 私の属していた千葉大学の生化学教室では大学院学生を一度他の大学で千葉では出来ない研究をしばらく研修する習慣だった。ある時福岡出身の院生がいたので、九大の山村に預けて脂質の勉強をさせる計画をたてた。この計画は大成功で、それ以来、山村との交渉が円滑になって、研究の進展にも弾みがついたのである。  私は千葉大学を定年退職後、サントリーの生物医学研究所に顧問として勤めることになった。この研究所は大山崎の近くにあり、阪大にも近く、また阪大に頼らなければならない施設も多かった。したがって私も山村の助力を仰ぎに時々阪大に依頼に出掛けた。この頃のことである。私は山村が大のネービーファンであることに気づいた。  ネービーファンというのは海軍本来の士官、いわゆる江田島の海軍兵学校出身のデッキ・オフィサーではなくて、戦争になって、士官不足を捕うために採用された他の学校出身の二年現役の軍医科とか主計科の士官とか、技術科士官とか、海軍予備学生出身の士官などに多いようである。たとえば文筆家でいえば阿川弘之、陸軍出身だが司馬遼太郎、主計科士官出身では前の大蔵事務次官の谷村裕などがそうで、山村もまた軍医科士官出身の稀にみる情熱的なネービーファンである。  たとえば彼の行きつけの大阪の北の新地のクラブでは、山村が来ると突然バックグラウンド・ミュージックが軍艦マーチに変わる。一瞬パチンコ屋にはいったような錯覚に襲われるが、なんとこれは大事なお客の山村大尉のお成りの合図なのである。  山村が大阪大学の学長を辞めた後でパーティがあり、その時の山村の挨拶がふるっている。「学長という職業は難しい物事の判断をしなくてはならない。いくら考えても判断がつきかねることもしばしばです。こういう時、私は『アフター・フイールド・マウンテン』の考え方に従いました。」と言ったのである。  出席していた旧海軍軍医の連中は大笑いをしたが、若い人たちはわからないから、ポカンと山村の顔を見ていた。山村もこれに気づき、この言葉の解説をしていたが、旧海軍語ではこれは『後は野となれ、山となれ』のことなのである。海戦ではいくら考えても結論は出ず、その時の運に任せて決断するより仕様の無い場合が多く、これが『アフター・フイールド・マウンテン』の考えかたなのだった。  旧海軍は多くのことを英国から学んでいる。英国人はユーモアを大切にしているが、特に危機的な状況下でユーモアの感覚が大きな価値を発揮するという。英国人はまさか「アフター・フイールド・マウンテン」とはいわないが、危機に決断を下す時にあまり悲壮感を持たない、日本製英語のこの言葉が心理的に大きな貢献をしているように思われるのである。  よく羽田空港の待合室で山村に会った。彼は出張の帰り、私は出張にでかける時である。こんな時いつも漫画本を拡げてニコニコしているのが山村である。専門の雑誌など読んでいたためしがない。空港の待合室などで難しい本を読む奴はロクな科者にならない。こんな時にも旧海軍の教えのユーモアの精神が顔を出しているのが微笑ましく、私は彼の余裕のある態度に感嘆するのだった。  この頃は山村の業績を書くべきなのかも知れない。しかし、それなら今までにたくさん出ている山村の追悼録を読めばよい。ここでは私の見た山村を書いてみたいし、山村の言動をかりて私自身の海軍時代の追憶にも役立てたい。海軍には嫌な面もたくさんあった。しかし、それを覆い隠すほどのよい面もあった。ユーモアのセンスなどは私は軍隊で習ったなどといっても、今の人は本当にしないだろう。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(11) 佐々木隆興 (1878-1966):佐々木政吉東大内科教授の養子、1902年東大医学部卒、医化学教室で隈川教授につき生化学を学ぶ。1905-10年ドイツ留学、E.Fischer に蛋白質化学を学ぶ。京都大学内科教授 (1913-16)、杏雲堂医院院長 (1916-38)、兼佐々木研究所所長 (1953まで)、1940年文化勲章受賞。  1941年の8月、日米交渉が段々切迫してきて、世の中に戦争やむなしという風潮が漂い始めた。私は当時東大医学部の4年生で卒業を控えて何となく慌ただしく夏休みを過ごしていた。そこへ何処からともなく医学部の卒業は3ケ月早くなって12月になる、という情報がはいり、当局に真偽を確かめると実はそうなのだという。急いでクラス会を招集、3ヶ月もかかる卒業試験は止めて、すぐに軍医になっても困らないように卒業前に各医局へ配属して実地訓練をすることになったのである。  そして卒業後の入局先も早く決めるようにと事務室からの指示で、卒業後のことが未定だった私は大いに慌てて、緒方富雄先生に伺いをたてた。緒方先生には学生時代の初めからいろいろお世話になっていたのである。先生は今、急に決めても戦争から帰ってくれば事情も変わってくるから、取りあえず緒方先生の師匠だった佐々木隆興先生の主宰しておられる佐々木研究所に籍を置いたらどうだろう、といわれ数日後に佐々木研究所に伺った。  佐々木先生は私の遠い親戚に当たり、以前から存じ上げていたので、比較的気軽に駿河台の研究所に伺い、先生にお目にかかった。先生は「緒方君から聞いているが、君は将来何を勉強するのか、ここには病理学の専門家もいれば、化学の専門家もいるよ。医学という難攻不落のお城を攻めるにはいろいろな武器が要る。君は武器を使うかね」といわれる。私は逆に先生は武器の専門家ですか、と伺ったら先生は私の武器は生化学だよ、といわれたので、私は先生のお得意の武器を習いたいのです、とお答えした。これで私の専門は生化学に決まった。佐々木先生は剣道の大家で、ドイツ留学中にはフェンシングを習い、どこかの試合に出て優勝されたという噂を聞いていたので、この武器問答は面白かった。  この時先生はご自分の出身教室が医化学教室だったので、正直に自分の武器は生化学といわれたが、1955年の日本生化学会創立30周年の記念総会では「生化学は私の余技」といわれて「本職は内科」と言明されている。これは、先生は一時京都大学の第一内科の教授であった時代もあることから、そういわれたのかもしれないし、また「医学という難攻不落の城を攻略するには」というお言葉から考えると、最終の目的は臨床医学の研究であったから、内科といわれたのもしれない。  私が佐々木研究所に通ったのは1ヶ月位であろうか。1942年の1月には海軍の短期現役の軍医中尉として入隊したので、ほんの僅かな期間に過ぎない。しかし、この短い間で毎日先生が私の部屋に回って来られるのは午後4時頃だが、それから8時頃まで一対一の実験講義をして頂いた。ガラス細工から始まり、天秤の計りかた、キエーダール法による窒素の定量まで教えられた。これはまことに貴重な体験だった。  戦争が終わり、1945年の9月に佐々木研究所に只今帰ってまいりましたと伺うと、先生は「もう財産税で個人の研究所は成り立たない。君は東大に帰れ」とアッサリ引導を渡されてしまった。止むなく東大の生化学教室に入ることになってしまったのである。 先生の初期の研究には細菌のアミノ酸代謝の研究が多いが、後に吉田富三博士と共同でオルトアミド・アゾトルオールをネズミに投与して肝臓癌をつくった実験は純化学物質による発癌実験として画期的業績であり、文化勲章受賞の対象になった。  先生の面白いクセは立ち話である。駿河台の坂を上がりきった街路でよく私はつかまった。「この頃は何を研究している?」というご質問から始まって「ペニシリンの作用機構の研究などは面白いだろうね」などとそれからそれへと実験のアイデアを話される。お疲れになるのでは、とは思うものの話に夢中になって一時間位の立ち話は普通のことだった。あれほど後から後からと面白い実験のアイデアが浮かんでくる方はあまりみたことがない。  先生のお若い時は先にも述べたように剣道にかなり熱をあげておられた。それが嵩じてドイツ留学中のフェンシング大会で優勝ということになったのであろう。何事にも徹底して研究される方だから中年からの魚釣りという趣味もなみ大抵のものではなかったらしい。釣りの道具に凝られて、あまりたくさん釣り道具屋に注文されるものだから、注文した品の宛先は神田駿河台、佐々木釣り道具店となってしまったほどである。郵便局でもそれを心得ていて、小包がちゃんと佐々木研究所に届いて来たという話がある。  お若い時にも佐々木研究所の前身のご自分の研究室はご自宅にあり、そこには大学の医化学教室よりも、研究設備が整っていたという伝説がある。私が生化学の実験の練習をした時の薬品やガラス器具などもおそらく先生の自費で買われた品であったらしい。先生は研究というものは自分のお金でやるものと思っておられたから、戦争が終わって、財産税というものが掛かってきて、自費の研究ができなくなると、私にも大学に帰れと言われたのであろう。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(12)児玉桂三(1891-1973):1918年東京帝大医学部卒、生化学教室助手、助教授、ケンブリッジ大学留学、ホプキンス教授につく (1924-26)、愛知医科大学教授 (1927-28)、九州帝大教授 (1928-43)、東京帝大教授 (1943-51)、徳島大学長 (1953-65)、女子栄養大学教授 (1965-69)。  1944年頃は戦争のため、日本の食糧事情は極度に悪化する一方で、海軍といえども十分な食糧を調達できなくなってきていた。当時私は海軍軍医として航空医学の研究所に勤めていたが、研究対象の航空機もなく、それどころか軍全体の食糧をどれだけ減らせるのかの研究を当時、横須賀の砲術学校長だった高松宮殿下(当時海軍大佐)が委員長となって、大規模の研究班を作った。九大から東大に転勤して来られたばかりの児玉教授も班員にはなられたが、実際の研究はアメリカから交換船で帰られたばかりの助教授の吉川春寿先生に任せられた。私は吉川先生のもとで働くことになったのである。この研究は栄養学のフィールドワークで、被検者は6人の海軍兵で、1人につきアルバイトの東大の学生2人ずつが交代で付き、24時間のタイム・スタディーと呼気の分析も行い、一方で食糧の化学分析も海軍の別の研究所が行う大規模な実験だった。私のように栄養学の経験の無い者にとっては栄養学を学ぶよい機会になった。  この実験の結論は従来の3000キロカロリーに及ぶ兵食を2000キロカロリー程度まで減らし、訓練も無駄を省いて運動量を2000キロカロリー以下にしようということになった。  ところが、この実験が終る頃、ドイツから初めてジェット機の設計図が潜水艦で届いて、日本でもジェット戦闘機を造り始めたのである。この戦闘機は高度一万メートルまで三分位で上昇するので腸内ガスの膨張が激しく、普通の食事では苦しくて操縦が出来ないと設計図附属のガイドラインに書いてあり、操縦士食の研究が緊急問題になったのである。  その頃はもう吉川先生も他の軍籍に入られてご相談できないので、児玉教授にご相談したところ、緊急事態だから先生が自分で実験するといわれて、私は試験食の方を受け持つことになった。児玉先生は試験食を食べた被検者の糞便を発酵させて、それから生じるガスの分析をご自身で測定されるのである。臭い仕事で申訳ないが、教室員もみな軍隊にとられて人手がなくご好意に甘えた次第である。被検者の中には後にある官立大学の学長にもなった人が、まだアルバイトの学生として参加していたが、この人の腸内細菌はメタンガスを大量に作り、児玉先生が大切にしておられたガス分析装置がメタンの爆発で次々と三台も壊れてしまった。先生は「またも爆発しおった」と苦笑しておられたが、結局先生の思いつきで食事に生カルピスの乳酸菌を加えるとガス発生が激減することがわかり、漸くジェット機の乗員の食事の問題が解決したが、既に戦争は終わってしまっていた。  しかし、戦争は終わっても食糧事情は悪くなる一方で、児玉先生は結局栄養問題から逃れられなくなってしまわれた。戦後の国民の栄養基準を決める重要な会議のメンバーとして、GHQとの折衝などで国民の栄養状態の代弁者として大変重要な役割を果たされた。  先生が戦前大きな足跡を残された酵素学者としての仕事に一時的にもせよ戻られたのは1957年に戦後2番目の国際会議として注目を浴びた国際酵素化学シンポジウムの組織委員長としてである。先生がケンブリッジ大学に留学された時の師匠はノーベル賞受賞者のサー・ゴーランド・ホプキンスで、この人はお弟子さんに研究課題を出さずに自由に研究させていた。したがって児玉先生はご自身で酵素の研究を選ばれたのである。1953年に私がケンブリッジ大学を訪問した時は児玉先生とともにキサンチン酸化酵素の研究をして世界的に有名になったディクソン博士が研究室を案内して下さった。その時ディクソン博士は児玉の業績は酵素作用の研究として世界的なものと賞賛された。この時以来児玉先生は酵素学者として世界に知られており、1957年の国際会議に参加した外国の酵素学者も児玉先生には一目おいて接していたようである。  私はこの会議の裏方の事実上の責任者の役目を児玉先生から命じられ、先生のお供で財界のお歴々を尋ねては寄付集めをしたり、学術会議の議長の茅先生に連れられて予算編成中の大蔵省を尋ねて陳情をしたり、学問以外の面の勉強をさせられた。この会議の準備中一番印象に残ったのは児玉先生の人脈の広さである。学界はもとより、財界にも顔がきいておられて、戦後まだ日本の経済は回復していない状況にも係わらず財界からの寄付は予想を上回って集めることが出来た。これは一つに先生の長兄が東洋綿花の創立者であり、次兄は豊田に養子に入られていること、さらに奥様のお里の関係など財界との縁が深いことにもよるが、ふだんからローターリー・クラブなどで広く社会に先生のお顔が売れていることなど、単なる学者とは違う先生の交際範囲の広さに驚いたのである。学問も社会との繋がりがなければ発展していかないことをつくづく感じさせられた。  先生は停年後のお仕事として徳島大学の創設に初代学長として情熱を傾けられた。この大学の特色は栄養学部と酵素研究所があることで、どちらも先生の夢を実現したものである。徳島大学での栄養学部の創設は香川綾先生の女子栄養大学の設立にもよい影響があった。従来日本での栄養学というと農学部系の食品化学を主としたものが主流であったのが、栄養生理学にも理解のある学部が生まれてきたのである。また、酵素研究所は各方面からの人材を集めて創設され、これも日本で最初の特色ある施設となった。  児玉先生は徳島では本当にくつろいでおられた。阿波おどりに「大学連」が参加したり、博多で磨きがかかった正調博多節は徳島でさらに発展して私たちを驚かした。その頃徳島だけにあって東京にないストリップ劇場をぜひ見て行け、私の車を出すからと東京から徳島を訪れた私に勧められたが、そんな場所に公用車で行くわけにも行かず、タクシーで参りますとお断りしたこともあった。  児玉先生には持病として軽い糖尿病があり、甘いものは禁じられていた。ところがお宅の方の目を盗んで時々この禁が破られる。三越の帰りに有名な蕎麦屋にお供したら、私はぜんざい蕎麦を食べる、君もどうだ、といわれて辞退した覚えがある。あんなに甘いお蕎麦は考えただけでも食欲がなくなるのに、先生は実にうまそうに平らげられた。  私は児玉先生のお蔭で若い時に本当に束縛なしに研究をさせて頂いた。当時、私の部屋にゴロゴロしていた人達は先生の許可があって教室に入ってきたわけではなく、お目こほしに与かっていたに過ぎない。当時の仲間は杉村隆君(後の癌センター総長)、松平寛通君(後の放医研所長)、上代淑人君(後の東大教授)、橘正道君(後の千葉大学教授)、野口照久君(後の山ノ内製薬副社長)などで当時はいずれも学生か、または無給の研究員で、児玉教授のお目こぼし組なのに、夜を徹して研究に打ち込んでいたのである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
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