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千葉医学雑誌

 
千葉医学 75 (4) :191-247, 1999

総説
SPECTによる局所脳出血の定量的測定
 難波宏樹
 
原著
小児の気管支喘息症状有症率の動向と環境要因に関する研究
 岩崎明子 仁田善雄 島 正之 安達元明

炎症性サイトカインによる泌尿器科的手術侵襲の定量化と高齢者における特徴
 小林洋二郎

症例
心筋梗塞後顕在化したPanic Disorderを伴う初老期うつの1例
 石出猛史 藤井秀一郎 藤井真理 若新洋子 鎗田 正

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰
 (13) 石館守三
 (14) 吉川春寿
 (11) John Machelin Bucchanan
 (16)  斎藤茂吉

海外だより
アメリカ留学の思い出
 盛永直子

学会
第958回千葉医学会例会・第13回磯野外科例会
第989回千葉医学会例会・第6回泌尿器科学例会
弟18回千葉カルシウム代謝研究会

編集後記

 
   
  小児の気管支喘息症状有症率の動向と環境要因に関する研究
岩崎明子 仁田善雄 島 正之 安達元明 千葉大学医学部公衆衛生学講座


小児における気管支喘息様症状有症率(以下喘息症状)の動向とそれに影響を及ぼす環境要因を検討するため、千葉県内の都市部にある5小学校と田園部にある1小学校の延べ11,342人の学童を対象とし、1986、1989、1992年の3回呼吸器症状質問票調査を施した。3回の調査における、都市部の喘息有症率は男子5.3%、5.4%、7.5%、女子4.8%、4.8%、7.2%、田園部は男子2.6%、2.9%、4.3%、女子1.5%、1.6%、3.3%であり、都市部田園部ともに経年的に増加傾向が見られた。全調査を通じて男子は女子より高く、都市部は田園部より高率であった。多重ロジスティック回帰により、喘息症状有症率に影響を及ぼす要因のうち、3回とも有意であったのは地域、本人のアレルギー性疾患の既往、2歳以前の重篤な呼吸器疾患の既往の3項目であった。都市部と田園部の域差は他の要因を調整しても有意であり、オッズ比は田園部1に対し都市部 '86年2.38、 '89年1.88、 '92年1.63であった。都市部は田園部より自動車交通量が多く、田園部でも年々増加している。また、都市部の主要幹線道路沿道の二酸化窒素、浮遊粒子状物質濃度は極めて高い。喘息症状有症率に地域差をもたらし、年々増加させる要因の一つとして自動車排ガスによる大気の汚染の影響が示唆された。
 
   
  炎症性サイトカインによる泌尿器科的手術侵襲の定量化と高齢者における特徴
小林洋二郎 国立精神神経センター国府台病院泌尿器科


泌尿器科でおこなわれている手術的操作の侵襲を血清インターロイキン-6(IL-6)をパラメーターとして評価することを試みた。また高齢者におけるこの方法の有用性、手術侵襲に対する反応の特徴を検討した。開腹手術、内視鏡手術、体外衝撃波結石破砕術を施行した107例を対象とし、治療前、治療後第1日、2日目の血清IL-6をELISAキットにより測定した。同時に体温、血液中白血球数、好中球数を測定した。術前の血清IL-6値は年齢とともに上昇が見られた。IL-6値は術後上昇し、第1日目にピークを示したが、この値は手術(治療)方法、年齢の影響を受けた。開腹術でもっとも高い上昇が見られ、対外衝撃波結石破砕術、経尿道的尿管砕石術では低い値にとどまったので、IL-6上昇の因子としては組織の損傷と出血量が重要と考えられた。術後IL-6値が50 pg/mlを越える手術操作では75歳以上の症例でIL-6の上昇が鈍かった。以上より、泌尿器科領域の手術侵襲の評価に術後第1日目のIL-6値が有用であった。また高齢者では強い手術侵襲に対する反応性の低下が示され、合併症を併発しやすいことが理解された。高齢者治療に際しては出血、組織障害を最小に抑えることに留意すべきであり、このような症例に対しては内視鏡手術、腹腔鏡下手術の利点が生かされると考えた。
 
   
  心筋梗塞後顕在化したPanic Disorderを伴う初老期うつの1例
石出猛史 藤井秀一郎1) 藤井真理1) 若新洋子1) 鎗田 正1) 千葉大学医学部内科学第三講座 1)鎗田病院内科


心筋梗塞の発症後、うつ症状とpanic障害が顕在化した症例について報告する。症例は70歳の女性で特記すべき既往歴はなし。長男と2人暮しで、配偶者は高血圧の既往歴があり、20年前に50歳で脳卒中により死亡した。平成2年8月体重減少と全身倦怠感を訴えて来院したが、精査の結果異常は認められなかった。同年11月に急性心筋梗塞を発症して入院したが、経過良好で12月に退院した。平成3年に入ってから、安静時の窒息感・胸部圧迫感・動悸・気分不快感・不眠などを頻繁に訴えるようになった。これらの訴えは10月から11月にかけて増加する傾向がみられた。現在までに過換気症候群などにより、2度短期間入院している。Panic障害を伴ったうつ症状と診断し、diazepam・imipramine hydrocholoride・brotizolamなどの内服で経過を観察しているが、大きな変化はみられない。この間自主的に精神科を受診していたが、現在は中止している。これらの症状出現の引き金は死に対する恐怖であり、その原因は過去におこした心筋梗塞であった。10月から11月にかけて訴えが増加することからも、このことは推定された。従って病院受診が最も有効な治療手段となっている。うつ症状およびpanic障害に対する治療として、医療サイドのcareが重要であることが知られているが、今後核家族化・少子化・独居老人の増加は、うつ症状あるいはpanic障害のcareにも影響することが予想された。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


( 13) 石館守三(1901-96):1901年青森市の薬種問屋の三男として生まれ、仙台の第二高等学校を経て1925年東大医学部薬学部卒業、朝比奈泰彦教授の指導を受ける。1936-38年ドイツ留学、1939年東大助教授、1942年東大教授(薬品分析化学)、1943年学士院賞受賞、1958年東大薬学部部長、1961年定年退、1996年逝去。  1945年8月に長かった戦争も噂通り日本の敗戦となって終わった。戦争はもうじきおしまいになるという情報は私が戦地から帰ってきた1944年の春頃から密かに聞こえて来ていたが、だれがどのようにして、という具体的な話ではなかった。私が1944年の6月に結婚したとき、父がお仲人を鈴木貫太郎海軍大尉夫妻にお願いした時も鈴木大尉は予備役で暇だからと引き受けてくださった。この方が翌年終戦処理をなさるとは夢にも考えてもいなかったし、ご本人もそうだったに違いない。因みに、鈴木大将と父とは宮中の御用で親しく、奥様は兄の幼稚園の先生だったご縁があり、頼まれ仲人を気安く引き受けて下さったのである。  戦争が終わって1ケ月後に私の勤めていた海軍の航空医学の研究所は米軍に接収された。驚いたことにはその年の春までの研究内容が既に米軍に漏れていたことである。機密がどこでどう漏れたか、今でも不思議に思っている。私は10月1日から東大医学部の生化学教室に出勤することになった。行ってみて茫然としたのは実験動物も薬品も、それに人もいなくて、廃墟に近い有り様だった。これでは研究どころではないと別の研究室を探し、戦争に行かなかった薬学の友人、柴田承二君と相談、細菌学教室の空き部屋を借りて抗生物質の研究を始めることになった。折からペニシリンが発見されミラクル・ドラックになっていたし、この研究なら実験動物も当分は不要だったので、紅色酵母のもつ抗結核菌物質の研究をやろうということになったのである。まだストレプトマイシンなどの結核の薬は出来ていなかった時代の話である。さて、先立つものは研究費である。柴田君は薬学の石館先生に頼めば何とかなると自信ありげである。そこで当時はまだ若い教授の石館先生に初めてお目にかかった。親分肌で私のやろうとしている鳥型結核菌の培養に私達の研究した抗生物質のほか、石館教室で合成した抗結核薬もついでに試してくれるなら、研究費はいくらでも出そうといわれる。鳥型結核菌の増殖は人型結核菌に比べると格段に早い利点があり、かつ抗酸性菌という人の結核症やハンセン病(らい)の病原菌と共通の性質を持っているので便利である。  こうして戦後の研究は曲がりなりにも始まった。抗生物質の方はその本体が新物質ではなくオレイン酸であることがわかり、実用化は諦めたが、石館教室で合成したプロミン誘導体は毒性が低く、しかも鳥型結核菌にはよく効くとがわかり、これが後のハンセン病治療の試みの土台となったし、私の学位論文にさえなって、一応の成果をおさめた。  やがて、戦争に駆り出されていた人々が次々と復員してきて、薬学の本館にあった石館教室は満杯になったらしく、柴田君や私が医学部の建物に借りていた実験室まで石館門下で満員の盛況になった。その中には山本有三先生の長男有一君もいて、私がまだ無給なのに同情して、有三先生に頼み込み、新潮社から子どもの科学の本を出すことになった。有三先生は私の原稿を目の前で、赤鉛筆で真っ赤になるまで直して下さった。この文章は後に日本書籍の中学一の国語の教科書に採用された。これは全く有三先生のお蔭である。  その頃には医学部の生化学教室もようやく生気を取り戻したので、私は医学部に帰り、1952年からアメリカに留学した。その帰途、ヨーロッパを回ることになり、1953年の9月にパリにしばらく滞在していた。私達夫婦の泊まったパリの大学都市はまだ十分修復されていなくて、冷たいシャワーしか出なかった。ところがパリの町で偶然石館先生にお会いし、シャワーの話をしたら「俺の部屋の風呂にはいりに来い」といわれ、お言葉に甘えて夫婦で出掛けて熱いお風呂に入って人心地がついたことがあった。その夜「俺が知っているレストランへ行こう」と言われるのでついて行くと、だんだん町並みが寂しくなり、レストランなどは見つからず、ついに君の知っている所に行こうということになってタクシーを拾った覚えがある。  石館先生の師匠である朝比奈泰彦先生も奇談の多い方で、私の蝶ネクタイはどこだと朝の出勤前に探されて見つからず、奥様が後ろに回ってみたら、背中についていたという話がある。石館先生も師匠に劣らず奇談の持ち主で何かの講演の時「笈(きゅう)を負って」といわれる所を「本箱を背負って青森から仙台に来た」と言われた。聴衆は重い本箱を想像して、それは大変な労働だと思ったが、実はルックサックのような昔の本をいれて運ぶ「笈」という道貝の言葉を度忘れされたのだろう。また「鰻登り」という所を手付きは鰻登りなのだが「ドジョウ登り」といわれたこともあって聴衆は腹を抱えた。  石館先生は熱心なクリスチャンで、何か牧師の代理も出来る資格をもっておられたらしい。ご自宅で先生の御弟子さんの結婚式を司会され「汝この女と婚姻することを誓うか」と言うような問いに対し、その時の花婿の返事が低い声だったので、司会の先生はもっと大きな声で言えとそれこそ大声で注意され、花婿さんが慌てたこともあった。  石館先生のハンセン病治療に対する熱意と先生の信仰とは切っても切れない縁がある。中学三年生の時、郷里の青森のハンセン病施設に家業の薬を届けに行き、患者の悲惨な有り様を見たのが、後の信仰に入る動機の一つとなっている。  プロミンはハンセン病によく効いた。慰問にいった東村山の施設で患者さん方と野球の試合があり、べ一スの間ではさまれて必死に逃げる薬学教室員の姿もユーモラスだったが、全快した患者が先生に握手を求めて来て、先生も一瞬たじろいでおられたのは滑稽だった。ハンセン病は握手位では伝染しないということは医学教育を受けた私たちはよく知っているが、石館先生は青森で見たハンセン病患者の姿が目に焼きついておられたとみえて、ずいぶん用心深かったのである。しかし、現在の日本ではハンセン病は強制隔離されなくなったことについて,石館先生の功績は大きい。薬学者が薬を作りだし、それがもとで或る難病がなくなるということはめったにないことで、その意味で石館先生は幸福な方であったと思う。  石館先生は1988年、87歳の時に青森市の名誉市民に推薦されている。大学の名誉教授は誰でも大過なく20年教授を勤めれば頂ける称号だが、青森市の名誉市民は棟方志功さんとか、淡谷のり子さんとか、異色ある人で郷土青森のことに尽くした少数の人々に与えられるもので、先生が一生の間に頂かれた名誉の中でも特筆に値するものではないかと思っている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


吉川春寿 (はるひさ)(1909-81):東京日本橋生まれ、府立一中、一高を経て、東大医学部卒業(1931年)、医学部生化学教室に入室、柿内教授の指導を受ける。その後公衆衛生院に転職、米国ロチェスター大学に留学し、放射性鉄を用いての研究を行う。戦争勃発のため、交換船で帰国。東大医学部生化学教室助教授を経て、1952年に東大医学部に新設の栄養学講座の初代教授となる。1965‐7年には東大医学部長に就任、学生紛争の収拾に当たる。1969年東大を定年退職後、女子栄養大学教授に就任、副学長、理事を勤める。1981年急逝。  私は1941年の12月に戦争勃発のため、東大医学部を繰り上げ卒業してから海軍の軍医になり、航空医学の研究所に勤めていた。戦局の悪化に伴い、食料が不足し始めたので、海軍は兵食をどこまで減らせるか検討することになった。この時、東大の生化学教室の先生を陸軍に取られる前に顧問にしようとする動きがあり、私が依頼のため東大に行くことになった。この時は既に柿内教授は退職し、新教授は九大から赴任された児玉桂三先生だったが、赴任早々でお忙しく、この問題を常時指導して下さる方はアメリカから交換船で帰られたばかりの吉川春寿助教授が指名され、私が海軍側の責任者となった。  吉川先生は東大卒業後、しばらく公衆衛生院に勤めておられたので、フィールドワークのやり方をよく御存知だった。それで、実際に海軍の水兵を使って演習時のカロリー消費量を呼気の測定する方法と、24時間の内、何分どんな運動をしているかをタイムスタディから割り出す方法との大規模な計画をたてられた。タイムスタディというのは一人の被検者に3人の観察者が密着して、朝起きてから眠るまでどんな運動を何分したかを記録する方法である。その上、食事と排泄物も全部分析するのだから、大勢の研究者と莫大な費用のかかる実験であった。軍隊だからこんな実験が出来たので、平時には到底出来ない大規模なフィールドワークだった。この大規模実験の結果は、それまで4000キロカロリーを超すような兵食を止めて、2000キロカロリーまでの食事をさせ、演習の方もそれに見合う程度に軽減することになり大いに食糧の節約になった。  この実験が終わって間もなく吉川先生もまた海軍の軍医に殆ど強制的に採用された。これは全くの臨時的措置で、目的は人材を陸軍に徴用されないためであった。こんな経緯で吉川軍医少尉が誕生して間もなく、ある日先生が東京駅のホームで電車を待っている時、同じホームにいた水兵が急病をおこし、一緒にいた士官が吉川少尉の赤い軍医の襟章を見て、あそこに軍医がいるから診てもらえといっているのが吉川先生の耳にはいった。先生は臨床のことはわからないからと後をも見ずに逃げだしたということである。東大にいれば大いに医学研究に役立つ吉川先生を軍は無理に軍医として臨床医にしてしまおうとしていた。  それから間もなく戦争も終わり、しばらくして医学部の生化学教室も整備されてきたので、そこへ戻った。吉川先生はアメリカで鉄のアイソトープを使っての生化学の実験を習って来られたので、戦後いち早く燐の同位元素32を日本で初めて輸入された。私はその頃核酸代謝を研究テーマに選んでいたので、吉川先生から32Pを分けて頂いた。  1940年代の終りから1950年の初め頃の話しである。その頃神戸で学会があり、吉川先生を初めとして数人で出掛けた。何処かの駅で急に吉川先生が行方不明になり、ようやく探し当てたらヤミ米屋と間違えられて警察官の取り調べを受けておられた所だった。当時は学会の出張にも米を持って行く時代だったので、先生の鞄からも米が見つかったのである。しかし何よりも先生の風体が悪かった。破れたソフト帽に蔓のこわれた眼鏡で東大の先生とは見えなかったのである。先生がアメリカから交換船で帰られた当時は、戦時中なのに赤い派手なネクタイをしたダンディな先生だったが、戦争はいつの間にか先生のスタイルを闇屋と間違えられる程に変えてしまったのである。  アメリカ軍が東京に駐留し始めたころ、赤痢と疫痢との異同をめぐっての論争がアメリカ軍の司令部(GHQ)の内部におこり、そのためにアメリカから調査団が来たことがある。その中にドイツ生まれ、アメリカ国籍の生化学者がいて、吉川先生の英語に目をつけ近づいてきた。この人は実は共産主義者で、アメリカの軍部に潜り込んでいたスパイだった。吉川先生は勿論そんなことはご存じなく、親しく付き合われた。  まだベルリンに壁がある頃、ハンブルグで国際生化学会議が開かれた時にこの人は東独の生化学のボスになっていたが自分はドイツの代表ではないので、資格がなくて会議場には入れなかった。そこで会場の外からソ連の代表に指令を出し、その指令通りに発言しているかをチェックするため、会議場のドアに耳をくっつけて盗み聞きしているのをたまたまそこを通りかかった私が見てしまった。吉川先生は人柄がよく疑うことを知らず、個人の思想的傾向には無関心で学識のみを尊重しておられたから、私も敢えてこの人の本当の姿については報告しなかった。先生が急逝後にある本が出版されて、このスパイの正体が暴かれた。今では先生はこの本をご覧にならなくてよかったと思っている。  ひと頃の東大医学部の卒業生には俳句をよくする人が多い。これは婦人科医だった水原秋桜子の影響であろう。吉川先生も俳句をたしなわれていた。俳号は「春藻」で「馬酔木」に寄稿しておられた。先生には俳人としての風格があり、どことなく呑気な所もあって学部長として学生紛争の矢面に立たれるのは似つかわしくない。学部長時代のストレスが先生の急逝につながった可能性もあるようにも思われるのである。  先生が私に見せて下さった句を少し紹介してみよう。

 初夏
   慈悲心鳥(ほととぎす)声駆けめぐり天白む

   小梨咲くその葉洩れ日を顔に受け

   専門書を積みては崩す梅雨の日々

   肉を焼く煙流れて湖涼し

   灯を吊りて鱧(はも)の骨切る腕の冴え

 また、退職に当たっては、

   散る銀杏わが半生を本郷に     春藻

 という色紙を下さったのである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(15) John Machelin Bucchanan1917-):1938年ミシガン大学でM.S.を取得、1939年ハーバード大学でPh.D.を得た。1946-8年ストックホルムのノーベル研究所に留学。1948‐53年ペンシルバニア大学医学部生理化学教室の助教授となる。1953年にはマサチューセッツ工科大学教授となる。研究題目は主としてプリンの生合成機構及びそれに関連する酵素の精製の研究である。  1951年頃私はロックフェラー財団から奨学生採用通知を受け取った。それには一年間何処で何を研究したいか、知らせて欲しいという添え書きがついていた。私はその前年にフランス政府の留学生に選ばれていたが、戦前に選ばれ戦争のために行かれなかった人が優先されて私は何年待つのか分からない状態だった。その上、フランスも戦争による痛手がまだ十分回復していないという情報もあり、アメリカでどこかよい所はないか、とその前年にアメリカを廻って来られた生化学教室の吉川春寿助教授に伺ってみた。吉川先生は言下に「君はいま核酸の研究をしているからペンシルバニア大学のブキャナンの所がいいよ。彼は人柄もよいし、まだ若くて元気一杯だし、それに日本ではまだ使われていない放射性炭素14Cを使っているから、使い方を習ってきたらどうだろう」といわれた。  1952年の8月、未だ占領下の日本を後にして、家内同伴で三井船舶の貨客船で横浜を出航した。十二日後にロサゼルスに到着、ある二世の家に一週間ほど滞在した。アメリカ流の生活を学ぶためである。今考えるとおかしいが、スーパーでの買い物の仕方、電気洗濯機の使い方など当時の私達には全く未知の世界だったのである。大陸横断の航空便も直通はまだなくてシカゴで乗り換え、フィラデルフィアのホテルの冷房のきいた部屋に着いてようやくホッとした。翌朝大学に行って「ブキャナン教授は?」と廊下にいた若い院生らしい人にきくと、廊下の向こうからアイスクリーム・バーをかじりながら歩いて来る若者を指して彼がジャックだと教えてくれた。ブキャナン教授の名はジョンだが、通称はジャックと学生からも呼ばれているのだった。日本では教授が廊下でアイスクリームを食べるだろうかと急に気が楽になった。  この教室のチェアマンはウィルソン老教授で、さすがにアイスクリームをかじってはいなかった。それどころか教室の若い教授の講義を必ず聞きに講堂に来ていて、後に昼食の時などに間違いや言葉使いを注意される。たとえばintestinalは米語ではインテスティナル、英国語ではインテスタイナルと発音するが、ジャックが腸のことをインテスタインと発音したのは誤りでインテスティンだという調子である。また実験室はまだ冷房もなくかなり暑いが、ここは医学校だから実験室でも必ずネクタイをするようにとか、学生が講義を聞きながらガムを噛んでいるのを見とがめ、医師は診察中にガムなどは噛まないなどと注意がある。したがって講義を聞きながらガムを噛むのもいけないことだ言われる。医師の品位について医学校ではやかましく教育するので、医学部出でないジャックなどは、かなり最初はとまどったようである。こういった躾教育はアメリカ東部の伝統ある医学校(いわゆるアイビー・スクール)では特にやかましくいわれていたし、またこの学校には前年に亡くなるまで、生化学の父と呼ばれていたオットー・マイヤーホフ教授(ドイツの医学校出身)がおられたので、特別に医学生の躾けがよかったのかも知れない。  私の実験はジャックの指導で14Cを使ってハトの肝臓の核酸代謝を測定することになった。ハトを実験に使ったことはそれまでなかったので、ハトは首を切られても翔ぶことができることを知らず、手を放したら首のないハトに飛び廻られて実験室中を血だらけにされ悪戦苦闘の連続だった。  実験室を離れて、個人的な付き合いになるとジャックは本当に親切で気のいい人だったし、奥さんのエルサはジャックがストックホルム留学中に知り合って結婚したスウェーデン生まれの親切な女性で、私の家内とも大変仲よくなって万事がうまく進んだ。しかし、実験の方は14Cでラベルしたアデニンもグァニンも核酸には入らず、とうとう留学中は成功しなかった。しかし帰国後、アデニンの代わりにその前駆体AICAをラベルして使ったら旨く核酸にはいることを発見できた。  そのうちジャックがマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授に9月から栄転することになり、私も夏の間はウッズホールの臨海実験所で実験することになったのでペンシルバニア大学を6月末で辞めた。しかしジャックー家との付き合いは今に至るまで続いていて、ボストン郊外の彼の家は何度も訪れている。   1957年に「酵素化学シンポジウム」という国際会議が東京と京都で開かれることになり、東大の児玉教授が会長、私が幹事になった。ジャックも親友のジョンス・ホプキンス大学の生化学の教授、アルバート・レーニンジャーと共にこの会に参加した。二人とも日本を訪れたのは初めてであった。京都での学会も終わりに近づいた頃、児玉先生がジャックとアルと私を瓠亭(ひょうてい)の日本料理に招待して下さった。宴の始まる前、手を洗いたいと外人二人がいうので私が案内したら、間もなく困ったような顔をして二人が帰ってきた。そして小声でどこにしたらよいか分からないのだという。一緒に行ってみたらトイレには放尿の音がしないように、また芳香が漂うように杉の葉が敷きつめてあった。ここがそうだと教えたら、日本人は優雅なことを考えるものだとえらく感心していたのが印象的だった。  この学会で私はなるべく日本特有の実験材料のことを紹介したいと思って、カイコの絹糸腺を使って絹糸の主要な蛋白質のフィブロインが生合成される機構を、14Cでラベルしたアミノ酸のグリシンを使って実験した成績を発表した。これは大成功で翌年訪米した時、アルがジョンス・ホプキンス大学でセミナーを催してくれて、その席に多数の有能な生物学者を招待して私の蚕の研究を紹介してくれた。ジャックもまたMITで同じようなセミナーを開いてカイコの実験を紹介したので、以後アメリカでも実験材料としてカイコがよく使われるようになったのである。  どの社会でもそうだが、人から人への繋がりは大切で、ジャックやアルのようなハーバード大学系統の生化学者たちは私に対して容易に門戸を開いてくれるようになった。また吉川教授が特にアメリカでの私の指導者として同年代の若い人を選んで下さったのも、後になってみると大変有り難かった。老大家は早く亡くなられてしまうので、長い間の交流を考えると同じ年代の人でよかったと思っている。アルは比較的に早く亡くなったがジャックは今も健在で交際が続いている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(16) 斎藤茂吉(1882‐1953):1910年東大医学部卒業、精神科教室に入室,松沢病院副院長などを経て、養父の跡を継ぎ青山脳病院長。この間,歌集17冊を発表、1951年文化勲章受賞。  1938年頃私は叔父三宅鉱一(東大医学部精神科教授)の那須温泉の別荘に夏になると叔父の創設した脳研究所が当時遺伝子研究のため飼養していたショウジョウバエを避暑させに連れていった。このハエは暑さに弱く、その頃は冷房装置もなかったので酷暑の東京を逃れて那須に避暑したのである。ある夏、たまたま斎藤茂吉先生がこの別荘に遊びに来ておられて、数日を一緒に過ごしたことがあった。叔父と斎藤先生は松沢病院の院長と副院長といった関係であった。  ある日、夕飯の支度ができたので、二階におられる斎藤先生に「お食事です」と呼んでもなかなか二階からおりてこられない。行ってみると噴煙も見えないのに那須岳の方向をじっと眺めておられる。叔父に変な人ですねというと「あの人は歌を考えている時は時間を忘れるのだから、お邪魔してはいけない。私たちの科学上の業績は新しい発表があれば姿を消すが、あの人の短歌は世に残って決して消えないよ」といわれた。当時の私はまだ茂吉の短歌の真価を知らなかったから、不思議な小父さんとしか思わなかったが、今でも那須岳の方向をじっと見つめていた茂吉の後ろ姿は不思議と覚えている。
 那須岳をふりさけ見れば
   ふか谷に青葉若葉はもり上がり見ゆ
はそのころの茂吉の作品の一つである。
 それから6〜7年経過して私は医学部を卒業し、海軍軍医となり海南島の海口という町に警備隊付の軍医として勤務していた。この町には海関という中国側の税関があり、そこの税関長官舎には素晴らしいローンテニスコートがあった。海口は暖かな上に雨が多いので芝生の緑がひときわ美しく映えていた。私はテニスがしたくなり、あのコートはどうしたら使えるのだろうかと、この町のことに詳しい人に訊ねてみた。「海関長の原真弓さんはその道ではよく知られている歌人で、短歌のお弟子さんは歓迎しますから、まず短歌を教えて下さいといって近づき、そのうちにテニスがしたいといえば使わしてくれますよ」という返事だった。私は言われた通りにして、まんまとテニスコートを使わせて頂いたのである。そのかわり毎月短歌を十首ほどは書かないといけないので、この種のことの苦手な私にはよい薬になった。  そうこうしているうちにある日、斎藤茂吉と署名のある軍事郵便のハガキが届いた。軍務についている私への慰問のお手紙である。どのようにお返事を差し上げたものか迷ったあげく、原先生に真っ赤に添削された私の歌を臆面もなく「近頃は短歌を習っております」と書いて御返事したのである。そうしたら旬日もたたないうちに御返事があり、しかも次の歌三首をいただいた。

   君の歌よみつつをれば南なる

        洋(うみ)のかなたのみ空おもほゆ

   皇軍(みいくさ)のそのたふとさを思ふとき

        わが眼交(まなかい)の君しおもほゆ

   御手植(おてうえ)の黄柑子(レモン)の木の実

        たわたわになりたりといふことぞかしこき

 この歌は後に少し手直しされて茂吉全集にも「三浦義彰君に贈る」として出ている。このことを教えて下さったのは、私が戦前に串田孫一君などと同人雑誌「冬夏(とうげ)」を出していたときの同人の斎藤友子さんである。この方は茂吉先生の最後のお弟子さんだが、その弟子入りのいきさつが変わっている。     友子さんがまだ若い頃、茂吉先生の東大の同級生の紹介状をもって斎藤家を訪問した時、ベルを押したら先生がいきなり玄関に出て来られて、不審そうな顔でしばらく顔を眺めておられたが「君、ここから二、三間先に別の玄関があるから、そこから入りたまえ」と青山脳病院の入口を教えてくれたそうである。患者さんと間違われたらしく、病院で診察ようやく正気とわかり「今は病院の火事の後で、復興のため私は病院のことに専念するので、歌のお弟子さんはみなお断りしている。しかし、患者さんならかまわないから、診察の時に毎回詠草を持ってくれば診察室でみてあげるよ」といわれたそうである。   さて茂吉先生からお手紙が届いた頃、私の家のある駿河台の女子青年団から慰問袋が来た。お礼状に何を書いてよいか検閲もあって難しいので、茂吉先生が真っ赤に添削された私の歌をお礼の葉書に書いて出した。当時の駿河台女子青年団の事務所は美術学校教授の平田栄二さんの家にあり、平田さんはおりから専門の日本画よりも川田順さんなどと歌会をし、しばしば開いていたのである。私の歌(実は原,斎藤両先生が添削された歌)はたちまち目にとまり、私の縁談にまで発展していったのである。これが縁で結婚して半年程して、平田の義父から「義彰君、近作の歌をみせてご覧」といわれ、実は私はテニスをしたい一心で歌を習ったので、その後はさっぱり作らないと白状した。  原真弓先生とは戦後しばらく音信が絶えていたが、偶然に赤坂見附の地下鉄の駅でお目にかかり、この時も「その後、歌を作っていますか」と訊ねられ赤面した。つけ焼刃の歌づくりはいずれはわかるものだと思い知らされたが、幸い茂吉先生にはこのことがわからずに済んだのでホッとしている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
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