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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 76 (1) :1-59, 2000

総説
小腸移植の現状と展望
 堀 誠司 落合武徳(PDF)

胃癌の肝細胞型表現形獲得の臨床病理学的意義とその機序解明の試み
 石倉 浩(PDF)
 
原著
環境の変化が学童の呼吸器に及ぼす影響についての長期的観察: 環境保健サーベイランスの試み
 丸山 浩 仁田善雄 島 正之 岩崎明子 安達元明(PDF)

脊髄髄膜腫再発に関する研究
 西垣浩光 村上正純 後藤澄雄 守屋秀繁(PDF)

マウス神経芽腫肝転移のMagnetic resonance microscopic imaging:化学療法後の変化と組織像の比較
 黒田浩明(PDF)

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰(PDF)
 (21) 石坂洋次郎
 (22) 桑原武夫
 (23) 尾上梅幸(寺島誠三)
 (24) 戸板康二

話題
自然界の謎:炭素とフッ素の結合
 金久保好男(PDF)

らいぶらい
Vertigo: Its multisensory syndromes
 服部孝道(PDF)
Surgical Anatomy and Technique : A Pocket Manual
 宮崎 勝(PDF)

学会
第982回千葉医学会例会・第16回精神科集談会
第11回千葉小児成長障害研究会

編集後記(PDF)

 
   
  小腸移植の現状と展望
堀 誠司 落合武徳 千葉大学医学部外科学第二講座


小腸移植は小腸の消化、 吸収不全のために、 栄養、 水分、 電解質などを経静脈的に補給しなければ生命を維持することができない小腸不全の患者を対象に行なわれる。 原疾患は臍帯ヘルニア、 腸捻転、 腸閉鎖、 新生児壊死性腸炎、 上腸間膜動静脈血栓症、 クローン病、 外傷などさまざまであるが、 大量小腸切除後の短腸症候群が小腸不全のほとんどを占めている。 小腸不全に対する基本的な治療手段としては中心静脈にカテーテルを挿入して高カロリー輸液が行われているが、 中心静脈カテーテルに起因する感染症や血栓症を頻回に繰り返し、 輸液ルートが確保できなくなる例や、 高カロリー輸液のために胆汁うっ滞型の肝機能障害が発生し高カロリー輸液を続けられない例には小腸移植が唯一の手段となる。 小腸移植はこれまでに世界で約300例行われているが、 拒絶反応のコントロールがむずかしく、 長期の成績はまだ満足のゆくものではない。 わが国では京都大学で 2例の生体小腸移植が行われたが、 欧米で実施された小腸移植のほとんどは脳死体からの移植である
 
   
  環境の変化が学童の呼吸器に及ぼす影響についての長期的観察: 環境保健サーベイランスの試み
丸山 浩 仁田善雄 島 正之 岩崎明子 安達元明 千葉大学医学部公衆衛生学講座


清掃工場の操業により起こりうる環境の変化が、 周辺住民の健康に与える影響を評価するため、 工場近接地区及び対照地区に居住する学童を対象に健康調査 (呼吸器症状と肺機能検査) を1983年から 9 年間継続して実施した。 同時に大気環境測定、 周辺地区の植生等環境調査も行った。呼吸器症状調査は 9 年間で2771名に実施し、 住環境に若干の差が見られたが、 症状には両地区間に大きな差は見られなかった。 肺機能検査は前半と後半に分割し、 両地区のコホートをおのおの 3 年間追跡した。 身長、 呼吸器疾患既往等を調整した肺機能値の地区間の比較では、 努力性肺活量は前期、 後期コホートともに近接地区が対照地区よりも大であったが、 0.75秒量、0.75秒率、 V50、 V25 は両コホートとも地区間に差は見られなかった。 また、 3 年間の肺機能の成長は、 前期では近接地区の増加量が大であるのに対し、 後期では対照地区が大であり、 一定の傾向は見られなかった。大気環境測定では、 浮遊粒子状物質以外はすべて環境基準を達成しており、 植生、 地下水流その他の調査結果からも清掃工場操業にともなう環境変化は見られず、これらによる健康への影響はないものと判断された。 住民の環境に対する意識の変化により、 清掃工場をはじめとする大規模施設に対する住民の不安は増大してきている。 このため、 環境の変化にともなう健康への影響をいち早くとらえ、 健康被害を予防できる環境保健に関するサーベイランスシステムの確立が必要であるが、 その構築に際し、 既知の各種指標を用いて継続的に観察することの有用性が示唆された。
 
   
  脊髄髄膜腫の再発に関する研究
西垣浩光 村上正純 後藤澄雄 守屋秀繁 千葉大学医学部整形外科学講座


脊髄髄膜腫の臨床像および画像所見から再発の原因を明らかにし手術方針を確立することを目的とした。 当科にて手術を行った脊髄髄膜腫53例について腫瘍の発生部位や手術法、 組織型の違いによる再発傾向の差および術前の MRI 所見と摘出した硬膜の組織像との関連につき検討した。 53症例のうち10例 (18.9%) に再発例が認められた。 再発は腫瘍の発生部位が脊髄前方から前側方部のものが 7 例と多かった。 また腫瘍の組織型については、 atypical type の 3 例全例に再発が認められた。 また手術において硬膜の非切除群は切除群と比較して有意に再発が多く認められた。 以上、 脊髄髄膜腫の再発因子として、 腫瘍の脊髄前方発生、 組織型が atypical type、 硬膜の非切除が考えられた。 つぎに硬膜内部に残存した腫瘍の再発への関与を検討するため、 硬膜切除を施行した35例中17例において腫瘍付着部硬膜の組織像と術前 MRI 所見との関連につき検討を行なった。 MRI にて Gd-DTPA による硬膜の造影像が認められたものが13例であり、 この13例中 6 例においては硬膜内部への腫瘍細胞の浸潤が認められた。 さらに摘出した硬膜を電気凝固した後の病理所見では、 5 例中 1 例に硬膜内部において腫瘍組織の残存が認められた。 再発を防ぐためには脊髄前方部の腫瘍の取り残しに注意し、 硬膜を含めた腫瘍の完全摘出が必要である。
 
   
  マウス神経芽腫肝転移のMagnetic resonance microscopic imaging:化学療法後の変化と組織像の比較
黒田浩明 千葉大学医学部小児外科学講座


神経芽腫血行性肝転移の MR microscopic imaging (MRMI) によって得られた画像は、 未治療の肝転移ではT1強調画像で正常肝組織に比べ軽度 high intensity、T2強調画像で high intensity な比較的均一な結節として描出され、 臨床において見られる転移巣と類似した像を示した。 転移巣内に化学療法後に生じた凝固壊死巣は、 T1, T2 強調画像でともに low intensity な病変として、 液状変性はT1強調画像で軽度 high intensity、T2 強調画像で著明に high intensity な病変として描出された。 化学療法による障害の結果生じた腫瘍細胞の変化は、 MRMI によって腫瘍の signal intensity の変化として捕らえることができた。 腫瘍の再増殖と腫瘍内の線維化との鑑別は出来なかったが、 再増殖してきた腫瘍は、 治療前の転移巣と同様の signal intensity を有しており、 臨床においても治療後経時的に転移巣の signal intensity を追って行くことにより、 転移巣の再発を早期に MRI により診断できる可能性があると考えられた。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(21)石坂洋次郎(1900-1986):弘前市生まれ。 1919年慶応大学予科入学。 本科は文学部の仏文科に進み、 中途で国文科に移り、 1925年卒業。 学生時代フェリス女学院の学生、 今井うら子と結婚 (1921)。 卒業後帰郷し、 弘前高女、 秋田の横手高女の教員として14年間の教員生活を送る。 この間三田文学に 「若い人」、 文芸に 「麦死なず」などを発表した。 「若い人」 は軍人についての書き方が悪いと右翼団体に睨まれ、 戦時中は沈黙を守らざるをえなかった。 しかし、 文筆を捨てる決心はつかず、 1939年に教員を辞任して上京、 執筆生活一本に絞ることになった。 戦後、 石坂文学を縛っていた呪縛が融けると、 朝日新聞に発表した 「青い山脈」が戦後の世の中に熱狂的に迎えられて以来、 読売新聞に 「山のかなたに」、 再び朝日新聞に 「丘は花ざかり」、 ついで再び読売新聞に 「陽のあたる坂道」 を発表、 これらの小説は単行本になってもベストセラーを続け映画化も成功している。

 私と石坂先生との結びつきは、 山本有三先生との出会いと同様に接点はご子息を通じてである。 1952年に私達夫婦はフィラデルフィアのペンシルバニア大学に留学した。 日本はまだ占領下だったから、 外国に出国することにはかなり制限があった時代で、 この町にいた戦後の日本人留学生は数名に過ぎなかった。 ほかのフィラデルフィア在住の日系人は戦前に渡米した一世とその家族が西海岸から強制的に東海岸に移され百人近くが主としてニュー・ジャージー州のある農園に集団的に住んでいた。 フィラデルフィアの市内にはごく僅かの一世、 二世がいるだけだった。ある時、 その農園で日系人のパーティがあって、 私達も初めてこの近くにこんなに大勢の日系人がいることを知ったのである。 石坂信一君ともこのパーティで初めて知り合いになった。 聞けば彼は洋次郎先生の長男であり、 ペンシルバニア大学に留学中で電気関係のことを学んでいるという。 私以外の他の留学生は年も若く独身で、 私だけが家内同伴だった。 そのため私の所に来れば日本食が食べられるということで、 自然に週に一回は何人かが集まるようになった。 信一君はこの人達の中で唯一の車持ちだったので、 食料の買い出しには必須の人物になっていた。信一君は父親譲りの温厚な性格で、 留学生仲間の兄貴分だった。 この人達との約一年の交流後、 私達夫婦は帰国したが、 石坂君はもう一、 二年滞在した筈である。 さて、 帰国した信一君の就職に当たっては私達が石坂君を松下電工に紹介し採用された。 そんな事情で父親の洋次郎先生がお礼の意味で、 私の家族を軽井沢に一週間ほど避暑に招待して下さった。 先生は軽井沢では別荘ではなく、 旧道にあるつるや旅館にご夫婦で泊まっておられたので、 私達もその旅館に泊まる手筈になっていた。 先生夫妻は昼間はほとんど一日ゴルフ場に行っておられるので、 ゴルフをしない私たちは勝手に遊び回っていた。石坂先生はそれまでに私がお目にかかった文学者先生と違って、 文学の話はされない。 一つには私の専門が科学で、 文学とはほど遠いと思われていたらしく、 お話は全く文学にも、 先生の作品にも触れなかった。 私も実はそれまでに先生の作品を一つも読んでいなかったので、 このことを話題にしようにも出来なかったのである。

 私もその頃は留学から帰国して、 これから自分流の研究を始めようとしていた矢先に、 突然の左遷で、 東大分院の地下の学生実習室の片隅にようやく自分の机を置くというような状態で、 石坂先生が次々と書かれる新聞小説さえゆっくり見る暇も惜しい毎日だった。 軽井沢の休暇は大変有り難かったし、 何よりも先生一家の温かい歓迎振りが心に染みた。  その後、 私にもいくらか余裕が出来て、 石坂先生の作品を読むようになった。 弘前の文学者といえば、 最近若い人達に大変人気のある太宰 治などを筆頭として、 葛西善蔵など何人かの名前が浮ぶが、 石坂文学にはあの暗さはない。 太宰の場合、 旧家の歴史が重圧となっているような感じもあり、 またその家は斜陽館という旅館になっていたが、 最近廃業したとか、 どこかに破滅的な雰囲気が漂っている。 これに反して、 石坂文学には慶応大学出身という履歴と作品の明るさが何か近代的な感覚を伴っていて、 どこにも破滅的な印象は全く感じられない。

 かつて石坂先生は津軽の小説家について直木賞選考委員会の席上、 こんな発言をされたことがあったそうである。 それは 「津軽には、 ただ小説を書くというだけのために、 妻子を飢えさせ、 親類や友人に迷惑をかけて括 (てん) として平気でいるという風がある」 といわれたとか。 おそらく石坂先生が弘前高女の教論の時代に、 金策に帰郷した葛西喜蔵の連日の酒浸りで、 その後始末をさせられたことがあった。 それが原因で石坂教論が弘前高女の職を失ったのであろうか。 こういう気ままな文学者の生活は石坂先生の生き様とは全く違う世界で、 石坂先生のような常識人には耐えられない生き方だったのであろう。 しかし、 それだけに石坂文学には凄味が不足しているかも知れない。

 石坂先生が教員生活を止めて、 文筆一本の生活をされるために上京されたのは1939年で、 戦争の始まる直前の文筆家にとっては嫌な時代だった。 私が串田孫一君と一緒に1940年に始めた 「冬夏 (とうげ)」 という雑誌も時々は警視庁からのお呼び出しがあった。 私たちの場合は幸い発行所の十字屋書店の親父さんが代わって出頭してくれたのだが、 時には殴られて帰ってきたこともあったような時代である。  津軽には 「立った者のソン」 という言葉があって、 その場に居合わせない人は噂話の狼の餌食になるという。 そういう津軽を捨てて上京された石坂先生には後門の狼のほかに前門の軍部とか右翼とかの狼も居たはずである。 先生の作品には倫理から逸脱した描写はないが、 封建性の打破という思想は至る所に見いだされるから、 やはりあの暗い時代には書き辛かったことであろう。  それが戦後になって軍部や右翼の目は光らなくなったが、 敗戦後の混乱した社会に明るい人間性に則した民主的な社会を描いた小説を新聞に発表して、 多くの読者に生きる喜びを与えた石坂先生はいわば 「国民栄誉賞」 ものだと私は考えている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(22)桑原武夫 (1904-1988):1928年京都大学文学部 (仏文) 卒業。 大阪高校、 東北大学などの学校でフランス語を教える。 1948年京都大学文学部教授、 1959年京都大学人文科学研究所所長、 1979年文化勲章を受賞、 芸術院会員になる。 1983年世界平和アピール七人委員会のメンバーに選ばれる。 1904年福井県生まれ。 父、 桑原隲蔵 (京都大学教授) は東洋史の大家であった。 令息の彼が1948年に京都大学教授になるまでの履歴はあまり明らかではない。 大阪高校の理科の学生にフランス語の初歩を教えていたことなどは自分の履歴として恥ずべき部分と考えられていたのか、 どの本の履歴にも載せられていない。 また大阪高校の卒業生に対してはあまりよい顔をされなかったことからの推測である。

 私は旧制中学がフランス語を第一外国語と定めていたので、 理科系の旧制高校といえば全国の数ある高校のうち、 大阪高校の理科丙類しか受験できなかった。 私がこの学校でフランス語の入学試験を受けた時に初めて桑原教授にお目にかかったのである。 仏文和訳の問題はアナトール・フランスの 「わが友の書」 から出題されていた。 これは一度読んだことがある文章なので、 すぐに翻訳にかかった。 しかし、 その一部がどうも原文と違うので、 試験官の若い人 (実は後から桑原教授とわかった) に質間したら、 ちょっと待て、 調べてくるといって教室を出ていかれ、 やがて帰って来て、 「君の言うとおり、 問題がまちごうていた」 とくやしそうな顔をされた。 今だったら国立学校の入学試験間題が間違っていると新聞種になるが、 その頃はただ 「まちごうていた」 の一言で片づけられてしまったのである。

 私の入学した年の 9 月に 「室戸台風」 が来た。 大阪は強い風害を受け、 天王寺の塔が倒れるなどの被害があった。 新婚の桑原教授の住んでおられた家もみごとにつぶれて、 身一つで逃げだされた桑原教授夫妻は財布が倒れた家の中にあるので昼飯代もなく、 駆けつけた高校生からお金を借りる始末だった。桑原教授のフランス語の授業のテキストは京大の落合教授著の 「フランス文法」 ばかりで、 それに日本的なフランス語の発音をされていたので、 私はその時からすっかり桑原教授のフランス語の講義に対する興味を失ってしまったのである。 後年、 京大教授時代の業績、 「ルソー研究」、 「フランス百科全書の研究」、 「フランス革命の研究」、 「ブルジョア革命の比較研究」、 「中江兆民の研究」 といった文学の理論的研究の影は大阪時代にはほとんど感じられなかった。 この種の大研究は京大人文科学研究所の大勢の所員の共同研究で桑原教授が旨く統率されたものなのだろうか。 確かに桑原教授には統率の才がある。 1958年に行われた京大学士山岳会のヒマラヤのチョコリザ (7654m) の登頂の成功は桑原遠征隊長のすぐれた統率力のおかげだもといわれている。

桑原教授が頻繁にジャーナリズムに登場したのは戦後間もなくの1946年に発表された 「第二芸術論 − 現代俳句について」 の反響である。 俳人たちはいったい桑原という人は俳句を知っているのだろうかと疑問に思った。 桑原教授には 「芭蕉について」 という論文もあるので古典的な俳句を知らないわけではない。 しかし、 桑原教授は当時の現代俳句に対しては何かなじまない感情があって 「現代俳句は第二芸術に過ぎない」 という主張をされたのだと思える。 確かに勇気のいる発言で、 当時の文壇にはそれに対してエ一ルを送った人も多かった。 桑原教授の著書にはいわゆる翻訳ものは少ない。 僅かにスタンダールの 「赤と黒」、 アランの 「芸術論」 くらいのものかも知れない。 それに比べると文明論的なものが多い。 文部省の 「歴史と文明の探究」 の委員会の座長を勤めておられたので、 フランス文学というよりフランスの文化を通じてみた東西文明の比較などが専門という感じがある。 1979年に文化功労者として表彰され、 また芸術院会員に選ばれたのもこういった方面の功績によるものであろう。

 かつての旧制高校には第一外国語をフランス語とする文科丙類と理科丙類とがあった。 文科丙類を卒業したもので、 後にフランス語を駆使して世の中の役にたった人は多い。 しかし、 理科丙類を卒業しその後もフランス語を役立てている人は甚だ少ない。 大阪高校の理科丙類の卒業生の集まりもあるが、 その席で 「フランス語はお役に立ちましたか」 という質問に対し、 卒業後に高校時代に習ったフランス語が大変役立ったと述懐した人は本当に数える位しかいなかった。 しかもその人達は高校で初めてフランス語に親しんだわけではなく、 小・中学からフランス語を習っていた人ばかりであった。こんなことを見通して桑原教授は大阪高校でフランス語の教授をしていたことを履歴から削り、 口にされなくなったのかも知れない。 しかし、 今から考えると桑原教授はフランスの科学についてご自身あまりご存じではなかったので、 科学方面に進む学生にフランスの科学の優れた点について教えられる所が少なかったのではなかろうか、 と惜しまれのである。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(23)尾上梅幸 (寺島誠三、 1915-1995):赤坂生まれ、 幼時、 六代目尾上菊五郎の養子となる。 暁星小学を経て慶応商工部入学。 1921年尾上丑之助を名乗り市村座で初舞台を踏む。 1935年三代目尾上菊之助を襲名、 福助 (後の歌右衛門) と組み若手女形として二人道成寺などを上演、 好評を博す。 1948年東劇で七世尾上梅幸の襲名披露。 忠臣蔵の力弥を演じ、 文部大臣賞受賞。 六代目菊五郎没後尾上松緑と二人で菊五郎劇団を率い、 船橋聖一の 「源氏物語」、 「なよたけ」 などの新作にも取り組む。 1968年、 無形文化財指定。

 私が小学、 中学時代を過ごしたフランス系カトリックの暁星学園の卒業生には奇妙に歌舞伎俳優が多い。 その理由はフランスではオペラを初めとして有名な劇場の俳優さんはみな国家公務員で社会的地位も高いから、 学校側はそのような人の子弟は優遇している。 その考え方をフランス人の校長さんが日本でも適用したために、 日本の代表的な歌舞伎俳優の子弟が暁星学園に人学すると、 欠席や遅刻は不問に付し、 劇場出演のためなら大目にみて、 決して落第などさせなかった。寺島が暁星小学に入って来たのは関東大震災の後である。 それまで芝の方の小学校に入っていたが焼け出され、 同じ運命で芝で焼け出された戸板康二と一緒に転校してきた。 後年、 戸板が劇評家になり、 梅幸の芸風を批評していたのはこんな因縁から始まっている。

 暁星小学に入ってきた寺島は教室でよく居眠りをしていた。 無理もない、 尾上丑之助として遅くまで舞台を勤め、 その後六代目の厳しい稽古が夜中まで続くのだから、 教室しか眠る所はなかったのだろう。 ある時、 彼の居眠りを同級生がからかったら、 音楽の先生がこわい顔をして 「君たちと違って寺島は夜遅くまで働いているんだ。 君たちは親のお陰で、 夜、 働きもせず眠っているが、 寺島は夜も働いているんだよ」 とたしなめたことがあった。 居眠りのせいで成績優秀とまではいかなかったが、 早引けはしても欠席はせずに小学校を頑張り通したのである。寺島は授業中は居眠りをしていても休み時間になると急に元気になり、 野球に熱心だった。 考えてみれば六代目も野球は好きだったから、 彼はその影響もあったのだろう。 狭い校庭のせいで白墨で丸を描いた中でしかバットは振れなかったが、 その丸の中で小柄の彼がバットを振り回していたのが目に浮かぶ。 寺島がクラス会などに出席するようになったのは戦後の混乱期が終わって、 世の中が穏やかになった頃からである。 戸板とか須田とか芝居通の人たちが気をきかして芝居が比較的暇な時期を見計らってはクラス会を開くようにしていたから、 寺島の出席率はかなり高かった。 そんな時に会うといろいろ様々な医学的な質問をする。 たとえば 「持病の癩」 というのは何処が痛むのかというような話である。 癩 (しゃく) は胆石症のことで、 昔の女性は帯をきつく巻いていたのでどうしても、 胆汁の出口が圧迫され、 胆汁の流れが悪く、 胆石が出来やすい。 胆石はふだんは痛くなくても、 ストレスがあると痛み出し、 肋骨の下あたりが痛み、 背骨の一定の場所の脊椎骨の脇をおさえるとやや痛みが和らぐと教える。 彼はそれはどの辺かと実に熱心に訊ねてくる。 背中のツボは女性では丁度ブラジャーの紐の当たる場所だと教えた。 その後、 舞台での彼の所作を眺めていたら、 ちゃんと教えた場所を抑えていた。 あるいは昔から伝わっている場所が解剖学的に的確な場所なのかも知れないが、 ちゃんとツボを抑えていたのを覚えている。 そこを押していると痛みが不思議と和らぐのである。

 ある時は彼の方から面白い話を聞かされた。 ある俳優が切腹はどれくらい痛いものか体験してみようと思い、 虫様突起炎 (盲腸炎) にかかった時、 無麻酔で手術して下さいと医者に頼んだそうである。 ところが、 最初のメスが入った途端、 痛くて痛くて、 思わず 「麻酔、 麻酔」 と叫んでいたという。 そこで、 予て用意してあった麻酔を始めたが、 効いて来るまでの間唸り続けていたそうである。 この経験で、 切腹の時、 間髪を入れずに介錯の人が首を落とすのは立派な侍が痛みで我を忘れて醜態を晒さないように慈悲のためだと思うようになったそうである。クラス会の余興に同級生の須田孝二が必ず梅幸の声色を彼の目の前でやる。 劇評家の戸板康二にいわせると、 須田の声色は梅幸自身よりも梅幸の台詞の特徴を強調しているので、 梅幸以上だというのである。 ついで戸板康二が亡くなった後、 須田孝二が戸板康二の声色を試みたがこれも逸品だった。梅幸は強い洋酒を行きつけのバーで一人で楽しむのが好きだった。 コニャックやブランディーなどの香りと味を楽しむために、 初め生 (き) で飲んで、 後から胃を傷めないよう水を飲むという飲みかただったが、 これが彼の命を奪ってしまった。 強いアルコールは口と食道の粘膜をおかし、 後から水を飲んでも胃にはよいが、 食道の上部、 喉頭に近い所には役に立たず癌が出来てしまった。 手術をすると声が出なくなるという、 役者にとっては最悪の場所の癌だったので、 とうとう手術はしなかった。 晩年、 傷めた膝を庇っての踊りだったがまだまだ大丈夫と思っていたのに、 惜しい人を亡くしてしまった。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(24)戸板康二 (1915-1993):1933年暁星中学卒業、 1938年慶応義塾大学文学部国文科卒業、 明治製菓宣伝部勤務。 1944年久保田万太郎に勧められ 「日本演劇」 の編集長になる。 また江戸川乱歩に勧められ、 推理小説を書く。 「団十郎切腹事件」 で第42回直木賞受賞、 近作の 「ちょっといい話」 はベストセラーになった。

 戸板は関東大震災の時、 芝の学校が焼け、 暁星小学に転校してきた。 この時同時に転校して来たのが寺島誠三、 後の七世尾上梅幸である。 戸板が劇評の道に進んだのは慶応大学の時代に、 折口信夫の日本芸能史の講義を聞いたのがきっかけであると成書には書いてある。 なるほど戸板は折口に傾倒していたことは事実ではあるにしても、 幼い時から歌舞伎を見、 同級生には尾上丑之助がいて、 歌舞伎は戸板にとっては甚だ近しい存在であって、 折口の講義を聞かないでも、 おそらく自然に劇評の道に進んだろうと思われる。

  戸板の評論が従来の歌舞伎の劇評の殻を破って、 古くから伝わる芝居通の能書にとらわれず、 論理的に視点を捕らえた新しい評論であることに世間は喝采をおくっている。 しかし戸板自身は古典的な劇評の手法は十分に心得た上で、 それを敢えてかなぐり捨てて、 近代的な評論を試みてみたのであろう。 戸板には歌舞伎についての講演などを依頼されと、 与えられた時間などを無視して、 ながながとしゃべる癖がある。その長い講演の内容を分析してみると、 かなり昔からの歌舞伎の見方が多く盛られている。 新聞などの狭い紙面を限られての劇評では、 おそらくやむを得ず古典を削ったのが、 かえって世間には新鮮に見えたものであろう。 また、 一方で戸板は俳句をよくする。 俳句の省略の手法がうまく新聞の狭い劇評欄にマッチしたと考えられるのである。

 戸板は家族が東京に住んでいたが、 小学か中学の初年級の頃、 寄宿舎に入れられていたことがあった。 寄宿舎生活が嫌で、 ある時逃亡を企てたことがある。 うまく学校を逃げ出して九段坂の上まできて、 ふと後ろを振り返ると、 背の高いグッチャンと呼ばれていたフランス人の先生が追っ掛けてくる。 そこで彼は一瞬の内に決意してどんどん坂を下って逃げた。 これは彼の論理によると、 足の長い人は坂を下るのが苦手だからというのである。 計画はうまくいってグッチャンとの距離は見る見る離れ、 旨く逃げられたそうである。 こういった話をする時、 彼はかなり芝居がかったジェスチャーを交えて話をする。 もう一つ私が覚えている彼のジェスチャーは久保田万太郎さんが食物を喉につかえさせて亡くなられた時のことを話す所作である。 この話を聞いたのはもう彼が喉頭癌のために声帯を失い、 喉に外から密着させる機械を手にもっていた時代であった。 彼は両手をジェスチャ一のために使いたいのだが、 この発声の機械が邪魔で、 とうとうその機械を手放して、 両手を振り回しながら、 眼を白黒させて見せた。 みごとな所作だった.声が嗄れたので喉頭癌は運よく早くからみつかり、 声帯を取ってしまってなおったが、 彼の命を奪った血栓の方は第一回の軽い発作の後の食養生が十分でなかったのか、 ある朝、 外出するといって玄関まで出た時に致死的な血管の梗塞がおこってそのまま倒れてしまった。BR>
 戸板には短い文章の中で的確に情景を語る才がある。 これは少年時代に始めた俳句の修行のお蔭かも知れないが、 晩年にベストセラーになった 「ちょっとよい話」 のシリーズに如実に現れている。 初めは得意とする歌舞伎役者の逸話などが多かったが、 材料に苦しんだとみえて、 その領域は見る見るひろがり、 世間一般まで及んだ。 ただ残念なことに、 彼の没後出版された続 「ちょっとよい話」 はちょっとよくない。 彼が書いてはみたものの、 机の引き出しか何かに突っ込んでお蔵にしていたのを誰かが引っ張りだしたのではないかとさえ勘繰りたくなるような作品だった。 こんな作品まで入れると著書は150は優に超え、 200に達するのではないだろうか。

 昭和16年の頃、 暁星の同級生、 串田孫一が主になって 「冬夏 (とうげ)」 という同人雑誌があった。 この雑誌に戸板も次のような文章を寄稿している。

  「演劇雑記帳」 (昭和16年1月)   「森鴎外と三木竹二と」 (昭和16年3月)   「菊五郎に関する私見」 (昭和16年8月)
 このうち 「菊五郎に対する私見」 はなかなか読みごたえのある論評である。 「まず、 永い間私が抱いている疑問を書いてみたい。 それは、 重っ苦しく心におおいかぶさる、 憂鬱な疑問なのだ。 疑問とは、 果たして今日の名優菊五郎が、 歌舞伎を正しく演じて見せる人であるかどうかということなのである。」 と始まって、 菊五郎の演技は、 菊五郎らしさが舞台に躍如として来れば来るほど歌舞伎とは、 その感じが遠いものになって行くのである、 とあって昔の役者とその頃の六代目の演技を比較して、 歯に衣を着せない論評が続いている。 結局、 次のような言葉が続く堂々たる劇評である。

 「菊五郎はまさしく名優であるが、 歌舞伎のためには、 決してあり難い存在ではない。」 という言葉で終わっている。 この時代の戸板は昔の歌舞伎の通の能書き通りでないといって、 菊五郎の芝居を批評していて、 決して現在定評になっている新しい劇評家ではなかったのである。

 戸板には1992年に出版した句集 「良夜」 がる。 その中の一首、
   ゆく年や むかしの友の幼顔
は一体誰の顔なのだろう。 生きているうちに聞いて置くのだったと悔やまれる。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
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