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千葉医学雑誌一覧 |
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千葉医学 76
(2) :61-99, 2000
■総説
シスチン尿症
江越賢一 赤倉功一郎 伊藤晴夫(PDF)
■原著
心理教育が精神分裂病の予後と家族の感情表出に及ぼす影響
塚田和美 伊藤順一郎 大島 巌 鈴木 丈(PDF)
悪性症候群におけるRYR1, SCN4A遺伝子点突然変異の検索
安野 勇 児玉和宏 熊切 力 清水栄司 佐藤甫夫(PDF)
■エッセイ
20世紀わが同時代人(PDF)
三浦義彰
(25) 久村 高
(26) 谷宗 裕
(27) 串田孫一
(28) 西園寺公望
■らいぶらりい
Neuroimaging : Clinical and Physical Principles
久保田基夫(PDF)
■学会
第1000回千葉医学会例会・第20回歯科口腔外科例会
■編集後記(PDF)
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●心理教育が精神分裂病の予後と家族の感情表出に及ぼす影響
塚田和美 伊藤順一郎1) 大島 巌2) 鈴木 丈3) 国立精神・神経センター国府台病院 精神科
1)国立精神・神経センター精神研究所 21)東京大学精神保健学分野 3)全家連保険福祉研究所
心理教育が精神分裂病者の家族の感情表出 (EE) を低下させ、再発を予防することが、欧米各国で報告されている。 我が国の現状に即した心理教育が、同様の効果を持つかどうかを検証することは有意義だと思われる。 そこで国府台病院に入院した85例の精神分裂病者とその家族を無作為に介入群と対照群に振り分け、心理教育の効果を検定した。 すべての重要な家族員は入院直後、退院直後及び退院 9 ヶ月後に EE を測定され、介入群の家族は毎月 1 回、計10回の心理教育を受けた。 その結果、介入群の退院後 9 ヶ月までの再発率は、対照群に比して有意に低下した。 また、再発しやすいハイリスクグループである高 EE のみの検定でも、同様の結果となった。一方、EE の下位尺度である批判的言辞 (CCs) と情緒的巻き込まれすぎ (EOI) については、高 CCsが両群とも時間の経過とともに有意に低下したにも関わらず、高EOIは介入を受けなければ低下しないことが明らかになった。 これにより、 国府台モデルの心理教育は EE の低下と再発予防に有効であることが証明された。
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●悪性症候群におけるRYR1, SCN4A遺伝子点突然変異の検索
安野 勇1,2) 児玉和宏2) 熊切 力2) 清水栄司2) 佐藤甫夫
1)秋本病院 2)千葉大学医学部精神医学講座
悪性高熱症 (MH) に発見されたヒト骨格筋リアノジンレセプター (RYR1) 遺伝子とヒト骨格筋ナトリウムチャンネルα-サブユニット (SCN4A) の点突然変異が類似した症状を持つ悪性症候群 (NMS) に見られるかどうかを調べた。患者全血より調整した染色体 DNA を鋳型にして PCR 法により RYR1遺伝子と SCN4A 遺伝子の一部を増幅した。 得られた PCR 産物を蛍光シークエンサーを用いて direct sequencing をして、塩基配列をデータベースと比較した。MH における点突然変異は NMS 患者に認められなかった。 MH に発見された点突然変異は、NMS には発見されなかった。 これは、我々の症例が家族性でなく孤発例であったためか、もしくは、NMS の病因が骨格筋にはなく、中枢における神経伝達物質の異常によるものであると考えられた。
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●20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授
(25)久宗 高(1915-1990):1928年暁星中学入学、 1933年第一高等学校入学、 1940年東京帝国大学法学部卒業、 農林省入省、 1941年農林事務官、蚕糸局勤務、 1944年招集を受け中支派遣軍二等兵として勤務、 1946年水産局勤務。 1955〜1958年広島県農地経済部長、 1966〜1968年水産庁長官。 1970〜1975年農業大学校長。
父兄が海外勤務者の多かった私達の小学校には寄宿制度があって、久宗も確か小学生の時から寄宿生だった。この寄宿舎はカトリック系のフランスの学校の制度をそのまま踏襲しているので、不思議な習慣が多い。寄宿生と一緒に会食するフランス人の修道士さんのテーブルにはワインが出る。これを盗み飲みして顔が赤くなり、すぐにバレた生徒もいたようだ。 金曜のお昼は肉のないカレーライスでその臭いだけで、今日は金曜日とわかるほどだった。一番傑作な習慣はパンツをはいたままお風呂にはいることである。関東大震災の時、寄宿舎のお風呂がこわれて寄宿生が大挙、町の銭湯に出掛け、パンツのまま入浴してお風呂屋を驚かせた。この習慣はカトリック系の学校寄宿舎では当たり前らしく、白百合の女生徒は浴衣を着たまま入浴するという噂があった。 もう一つ、 余計なおしゃべりをすると、藤原義江が寄宿舎で入浴中、悪友がそのパンツを脱いで監督の先生 (これは音楽を教える、人のよいタコボンというあだ名の外人修道士だった) に投げつけられるか、という賭をして、彼の投げた濡れパンツが見事タコボンの顔に当たり退学になったそうである。
久宗は小さい時からこの寄宿舎にいたので小学生でもいっぱしのボスだったという。 その手下には彼より上級生もいて、彼がすべて牛耳っていたそうである。彼は寄宿舎だけではなく、学業の方でも常に一・二番を争っていた。この学校には二週間ごとに小試験があって、その結果を 「点読み」 と称してフランス人の校長さんがクラスに来て、たどたどしい日本語で発表する。「ムッシュウ・イサムネ (フランス語では H は発音しない)、この度はよく出来た。 トレビアン、プルミエ、おトッツァンに報せましょ。」 という調子である。彼はいつものことだから、アッケラカンとして、小声で「どうせ報せはしないよ」という。小学から中学に進む時、われわれはフランス語を専修する A 組に入れられた。 同じく A 組にはいって、後には東大哲学科に進んだ串田孫一の回想によると中学二年頃クラスに謄写版刷の 「流星」 という雑誌が出たそうである。この雑誌はもともとやや思想的の背景があったのか、ノンポリの私の目には触れなかったものだが、この雑誌に久宗は 「闘争」 という記事を書いていたそうである。小学校の頃から 「アンチ」 という、やや反体制的なという意味のあだ名があった久宗だから、当然といえば当然なのだが、随分早熟な思想家だったと思われる。もっとも彼は小学六年の時に「都市と農村」という農村問題を取り上げた作文を書いて、後に農林省に入って農村改良を試みようとするほどだったから、不思議ではない事なのだろう。久宗は当初カトリックにかなり熱心だった。ところが中学のころ「全知全能の神はこれから自分がすることはお見通しの筈なのだから、自分が祈っても無駄かも知れない」という迷いが生まれて、信者にはならなかったという話もある。一説によると久宗は農林省に最初入省した時は高等文官試験を受けていなかったという。東大法学部の卒業生が高文を受けずに官僚になろうとする話など、嘘に決まっていると私は主張したが、実際は入省してから高文を受けたというのが事実かも知れない。不思議な人である。実際東大卒業後一年目に農林事務官に任官している。この頃は戦争勃発の直前で、一度は確かに彼の所にも赤紙がきた。入営の前の壮行会というので、奥さんのお父さんの粋人で有名な菅原通斉さんからの招待で、串田と一緒に湯島の 「鳥栄」 に行った覚えがある。この時は間もなく帰されてきたから、既に農林事務官に任官していたのかも知れない。その時、串田はもう卒業していたが、私はまだ東大医学部の学生だった。
戦争が終わっても久宗は広島県に出向したりして、目まぐるしく任地が変わってなかなか逢う機会もなかった。一度だけ水産庁長官室という所へ訪ねて行ったことがある。確か用件はその頃開かれる予定の国際生化学会議のことだったと思う。お互いに一番多忙な時期だったので、用件が済めばまた暫くは逢う機会もなかった。ゆっくり逢うことの出来たのは二人とも定年退職後である。暁星小学の坂を下りたところにアルザス料理の店が出来て、私達が中学でフランス語を習ったへグリ先生が時々行かれた店である。九十歳を超えたヘグリ先生は一度故郷のアルザスに帰られたが友達もみな亡くなって、それなら教え子のいる日本の方がよいと日本に帰って来られたのである。久宗は先生に頼まれて、この店の経済顧問のようなことをしていた。 ここが私達の会合場所になったのはごく自然の成り行きである。もともと久宗はフランス語がうまく、1970年にアルザスに滞在していた時、たまたま牛の品評会に出席して、日本の農林省のお役人だというので、一席しゃべらせられたのだそうだ。その、彼のフランス語がアルザス弁だったので、大いに村人たちの共感を呼んだというのである。無理もない、彼のフランス語は寄宿舎の舎監のへグリ先生直伝だから、当然といえば当然なのだが、私もアルザスの大学での学会でフランス語をしゃべった経験があるが、誰もアルザス弁だとはいってくれなかった。久宗のフランス語はお国訛りの出るほどうまいのである。この店で逢っているうちに、ある時どうも動悸がして困るというので、何人かのお医者さんを紹介し、結局東京女子医大で診断がつき入院したのである。診断は難病で退院は難しいということだった。しかし、われわれの予想よりも病気は早く進んでしまい、ご家族も間に合わないほどの突然の逝去だった。
最近では官僚に対する批判が多いが、久宗のような官僚らしからぬ自由人の官僚が大勢いたら、今の世の中にはもっとよくなっていたろうと思う。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
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●20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授
(26)谷村 裕(1916-1996):1928年暁星小学卒業、 1932年 4 年終了で第一高等学校入学、 1938年東京帝国大学法学部政治学科卒業、 大蔵省入省、 海軍主計中尉1941年予備役編入、 鹿児島税務署署長、 1948年胸部疾患のため療養、 195 0年大蔵省復帰、 1963年自動車事故で右眼球破裂、 1967年大蔵事務次官、 1969年公正取引委員会委員長、 1974年東京証券取引所理事長、 1994年左腕骨折、 1996年心筋梗塞で死去。
谷村は強運の不死身の人である。 1923年まだ小学2年生のころ、トラックと衝突、崖下に転落したが、カスリ傷ですんだという。1931年、鼻の手術 (おそらく蓄膿症) をして以来、急に学業成績が向上してクラスのトッブに躍り出た。一般にその頃の蓄膿症の手術は成功例が少なく、手術後に急に成績が向上するようなのは稀にみる成功例である。次が1948年の肺結核に対する肋骨切除術である。これも成功例の少ない治療法なのに本当によくなおっている。私達の中学の同級生には高校 (特に浦和高校) や大学時代に肺結核で死んだ人が多く、谷村はどこで感染した結核か知らないがよく治ったと思う。交通事故による眼球破裂も殆ど跡形なく治って官僚の最高峰といわれる大蔵次官になっている。ただ晩年の骨折は或いは血栓の原因となって心筋梗塞の遠因になったのかも知れない。運がよいという点では海軍にはいったことにも運がついていた。 二年現役の主計科士官という制度は優秀な人材を戦争後に残す目的でつくられたが、本当に二年で予備役に編入されたのは谷村が任官した初めの頃だけで、後には戦争終結まで拘束され、戦死した人も多い。谷村は幸いによき時代によき雰囲気の海軍にいたから後に海軍歴史保存会の会長にもなっている。海軍礼讃家の作家、阿川弘之は谷村の追悼記の冒頭に 「昭和十三年、助っ人の主計科士官として法学士谷村裕を採用した海軍は、五十七年後、本職の軍人でないこの人に頼って、創設から滅亡までの七十七年間の歴史を、後世に伝え残してもらうことになるのである。」 と書いている。
さて、話を中学時代に戻そう。谷村は剣道に熱心だった。暁星中学の剣道は有り難いことに必須科目ではなかった。 いわば任意のクラブ活動で後に私が在籍した大阪高校や海軍軍医学校のように武道が正課ではなかったのである。私は剣道などやる気もなかったが、柔道の好きな父が柔道部がなければ剣道部に入れと無理やり押し込んだのである。暁星の剣道部は当時の最高峰の中山博道範士とそのお弟子さんで藪睨みの先生が教えていたが、谷村はよほど好きだったとみえて、いつ行っても道場にいることが多かった。 立ち会ってみると、面の中の眼は笑っているのに鋭い一撃が降ってくるから、竹刀の襲ってくる場所は表情からは読み取れない、ポーカーフェースの嫌な相手だった記憶がある。これは後年、学術予算の増額などの話を持ち出すと、谷村は決まって話をそらし、茶化してしまう癖があって、私たちのような大学人には相手にしにくい官僚だった。その点では久宗のようなタイプの官僚の方がずっと親切に話は聞いてくれるが、水産庁長官と大蔵次官とでは権限が違うから、谷村は敢えて話を聞かなかったのだろう。このような経験をする度に私は剣道の面の中の谷村の笑っている眼を思い出すのである。
私達の中学時代の国語の先生にアンパンというあだ名の名物教諭がおられた。よく作文の宿題を出され、丁寧な評をつけて返されてきた。クラスには串田孫一や戸板康二のような後にプロの文筆家になった人もいるが、世間では山の随筆家としてすでに名の通っている串田が出版した近作の著書をアンパンに贈ると、アンパンは昔と変わらず丁寧に字を訂正したり、評をつけて返送されてくるという。その他同級の農林官僚になった久宗の文章も主張があって骨のある文章だが、これもアンパンは遠慮なく筆を加える。谷村の文章は気取らずにどこかユーモアがあって面白い。たしか、東証理事長の頃の随筆集があるはずである。アンパンは彼の文章にも少年時代と同じく評を書いたものと思われる。 晩年のアンパンは百才に近い年齢になり、いろいろ不自由な生活であったらしいが、谷村はアンパンの家族の就職やら、万事に気を使ってお世話をしていたらしい。これは彼自身の口からは何も聞こえて来なかったが、アンパンの家族に親しい他の人の口から洩れてきた。よく気のつく男である。
彼が希代のイタズラ好きであるということが大蔵省の後輩で次の東証理事長になられた方が谷村の追悼集に書いておられる。たとえばある新任の課長補佐の椅子の足にカンシャク玉をしかけたのは谷村の発案だとかいう話だった。これは中学時代に教卓に体重をかける癖のある先生がいて、その時間に教卓の足の下に割れると硫化水素の臭いガスが洩れだす玉を仕掛ける。 先生が体重をかけた瞬間、臭いガスガ出て、生徒たちが鼻をつまむというイタズラであった。これを大蔵省で再現したのは谷村以外の人ではないと思う。 中学時代の学校では昼飯の前に校長以下太ったお腹を抱えたフランス人の修道士たちが狭い登り坂を通って聖堂から食堂に行く習慣があった。ある大雪の日、巨大な雪の玉を、この行列目掛けて坂の上から落としたことがあった。先生たちは道が狭くて逃げられず、ドミノ倒しのように転がってしまったが結局犯人は分からず、事件は不問に付されてしまった。 こういったイタズラは谷村が首謀者ではないかも知れないが、大蔵省でのイタズラは彼が示唆したという嫌疑は濃いのである。なんといってもヤンチャ坊主がそのまま大人になったような人だったからである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
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●20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授
(27)串田孫一 (1915-):東京、芝に生まれる。暁星小学、中学を経て、 1932年に東京高校の文科丙類に入学する。さらに東京大学文学部哲学科に進み、1938年に卒業。上智大学、国学院大学、東京外語で教職につく。これらの教職は1965年に全部辞任し、以後は哲学、思想、文学、芸術、自然を中心に広い分野で執筆活動を続ける。特に自身登山を好み、山の随筆が多く、この方面の読者が特に多い。著書は300冊に及ぶが1 998年に自身の著作の全集、全 8 巻を筑摩書房から発行している。
私が串田に初めて会ったのははっきりとは記憶にないが、彼がお茶の水の女高師 (現お茶の水大学) の幼椎園に入る前、駿河台に引っ越して来た頃だろうと思う。彼の記憶によると、その頃私の家に遊びに来て、私にいじめられたという。真偽の程は分からない。
彼の駿河台の家は現在の山の上ホテルがある場所で、ジョサイア・コンダー (J. Conder、当時の日本ではコンドルと呼んだ) の設計による瀟洒 (しょうしゃ) な洋館だった。靖国神社の花火も両国の花火もこの家からは居ながらにしてよく見えたので、後年 「花火の見えた家」 という随筆を書いている。私たち二人は暁星小学に通っていたが、組が違ったのと彼の家が関東大震災後駿河台から引っ越してしまったので、中学に進んで同じクラスになるまでは遊び仲間ではなかった。しかも私は高校は大阪に行ったので、彼の自宅などによく遊びに行くようになったのは私が帰京して東大医学部に入る前の浪人時代である。
この時代 (1937年)、彼は最初の著書 「乖離 (かいり)」 を出版し、翌年 「白椿」 を、さらに翌々年に 「泙 (うきくさ)」 を十字屋書店から出している。「乖離」 は自費出版の山の本である。しかし、そのスタイルは今に続く彼の随筆のスタイルで、山のことばかり書いているわけではなく、それに関連する哲学的思索も交えたものであった。彼の叔父さんに当たる今村信吉 (のぶきち) さんという文芸好きの実業家がいて、この方が串田のお父さんのお通夜の晩に皆が集まった席上、同人雑誌を出さないかと言い出した。最初は白羊宮 (1939) という名の季刊誌だったが、これは一号限りで終わってしまった。次に出たのが 「冬夏 (とうげ)」 (1940-1941) で、隔月刊の同人雑誌である。冬夏の同人というのは今村、串田、それに串田の従妹の斉藤友子と串田一家までははっきりしているが、後にこの雑誌にしばしば投稿した颯田鉄男 (渡辺秀)、矢内原伊作、戸板康二、諏訪沙吉 (嵯峨信之)、秋永芳郎、今井幸彦、尾崎喜八、山崎正一などの諸氏はどれくらい同人意識があったか不明である。なにしろ費用なども今村さんにオンブしていたし、会合もたった一回永田町の料亭で開いただけで、時世も悪く二年で吸収合併される薄命の雑誌だった。しかし 「冬夏」 の鴎外特揖号などはよく売れたものである。
そうこうするうちに世の中は戦争に突入し、翌年、串田自身も一度は赤紙 (招集令状 ) をもらったが、身体検査の結果即日帰郷となる。戦時中はたとえ応召をまぬがれても執筆はままならないし、これという定職のない彼の生活も楽ではなかったはずである。その上、戦争の終わる 4 月前に巣鴨の大和 (やまと) 村の自宅を戦火で焼かれ、敗戦は疎開先の山形県新庄の荒小屋 (地名) で迎えた。ここで彼は大工に頼らず自分で家を建てたと、戦後にここを訪れた戸板康二はその著書に書いている。彼が東大の哲学科に在学している時もその卒業後も、一番強く影響を与えたのはフランス文学科の渡辺一夫教授であろう。フランス・モラリストの伝統を伝えたその思想は彼の精神に一番強い印象を刻みつけているようであり、戦時中のあの抑圧された時代に常に精神の自由を彼が保っていられたのも、渡辺先生の常に変わらない精神上のバックアップがあったからだと思う。こんな時代にあっても、敗戦の年 (1945年) の11月にはもう出版界は串田に注目していた。後にみすず書房をつくった小尾 (おび) 俊人さんは復員してきた兵隊服のまま 、あの混雑した列車で新庄まで出向き、フランス哲学について書かないか、という打診もしている。1945年の11月といえば、外地にいた兵士たちはまだ帰遺できず、内地の生活もさつま芋を求めて買い出しに走る世の中なのに、一方ではフランス哲学の本の出版を考える人もいたのである。それを考えると、人は食糧だけあればよいわけではなく、あの窮乏の時代にもフランス・モラリストの著作を読もうという人も一方には存在していることに不思議に安堵の気持ちがおこってくる。
串田の 「山」 はいつごろから始まったのだろうか。私の怪しげな記憶によると五色温泉の六華倶楽部の山小屋で中学の一年の頃一緒にスキーをしたことがあるような気がするが、これはあるいは他の友達と間違っているのかも知れない。岩登りは東京高校の頃、谷川岳の一ノ倉沢がまだあまり有名でなかった頃からだと思われる。戦後の山登りは戦時の空白な時代があった後、東京外語大の先生になったころ (1952年) 外語大の山岳部が創設され、彼が部長になった時に再び山行きが始まったのである。こういった大勢の仲間との山行きのほか、ひっそりと一人で登る場合も多かった。50歳を過ぎた頃から串田は腰痛に悩まされるようになった。最初は痛みをかばいながら登っていたようであるが、一度遭難しかけてから、さっぱりと登山を止めてしまい 、一方では 「もう登らない山」 という美しい写真入りの本を1990年に出版している。串田は近頃は登山はおろか、東京の都心に出てくることも稀になってしまった。私は電話でしばしば話してはいるが、時には顔も見たくなる。一計を案じ、彼の著書にサインをしてもらいたい人を集めてサイン会兼昼食会を開くからといって、「花火の見えた家」 のあとのホテルまで何度か来てもらっている。今年も暑くなる前にこの会を開き 、数冊の本にサインをしてもらった。このサイン会は彼にしきりとサイン会をねだる本屋さんには秘密であるが、たまには吉祥寺からお茶の水まで遠征するのも串田にはよい刺激にはなるのではなかろうかと勝手に考えている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
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●20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授
(28)西園寺公望 (1849-1940):徳大寺家に生まれ、西園寺家の養子となる。幕府征討軍とともに東上。維新後約10年フランス留学、ソルボンヌ大学に学ぶ。帰国後、中江兆民とともに 「東洋自由新聞」 を発行。伊藤博文の憲法調査に同行し欧州を視察したのが縁で伊藤内閣の文相、1906年政友会総裁として内閤総理大臣、昭和時代は元老として首相を推薦する役をつとめた。
1923年の関東大震災で駿河台にあった父の家は当日の午後 3 時には焼けてしまった。それから l年半、父は大分無理をして、今度は鉄筋コンクリート建ての自宅をもとの駿河台に新築した。父はよほど嬉しかったのか、時々お客様を新築の家にお招きして晩餐会を催した。西園寺公をご招待したのも、新築の家の披露の意味だったので、震災の翌々年頃だったと思っている。私が暁星小学の4年生の頃である。こういうお客様の時、父は高橋さんという東大正門前で学生相手のレストランを経営している人を呼んで、メニューとワインリストを決めていた。高橋さんはもと宮中の大膳寮のボーイ長をしていたとかで、フランス料理に詳しく、またそれに合うワインの知識も豊かだった。父はフランス語で書かれた料理の本に所々印をつけたものを持ち出し高橋さんと相談する。そして料理のメニューが決まると地下室のワインセラーヘ降りて行き、料理に合うワインを取り出す。このワインのコレクションは父がフランスに直接に注文して取り寄せたものである。当日になると高橋さんは腕のよいコックさんを引き連れて現れ、朝から台所を占領して調理を始める。私などは子供だから晩餐の席には出られないし、お客様にご挨拶に客間に伺うだけで、どんなお料理が出来て、どんな味なのかもわからない。
西園寺公は震災の数年前の1918年にパリで開かれた第一次世界大戦の講和会議に日本の全権として赴かれた。これは公が若くしてソルボンヌ大学に留学した折、たまたま講和会議の議長のジョルジュ・クレマンソーと学友だったので、日本政府は公をおいて適任者なしと決め、ぜびにと願ったのである。ところが西園寺公は主治医として父が同行してくれなければ行かないと断られたとか。西園寺公は当時軽い糖尿病はあっても 、ほかにこれという健康上の問題はなかったので、初めは東大の別の先生がお供をすることに決まっていた。父は丁度東大病院長であり長期にわたっての海外出張は出来ないとこれもお断りしたのだが、政府筋からのたっての依頼で西園寺公のお供をすることになったのである。幸い、パリ滞在中はこれという病気もされなかったので、手持ち無沙汰の父は講和会議に平行して初めて開かれた航空医学の会議に出席したり、シャルコー教授門下の友人と会って旧交を温めたりして久し振りのパリの空気を一杯吸って元気に帰国した。父が初めて公にお目にかかったのは小泉三申全集によると、公がドイツ公使、父がベルリン大学に留学していた1890年頃であるという。
西園寺公については当時の私はただシンガポールで写した写真に父と並んで写っている人という程度の認識しかなかった。晩餐会の始まる前のひととき、父に呼ばれて客間にいってみると、品のよいお年寄りがニコニコして、何処の学校に行っていますかなどと質問をされた。「暁星小学です」 と答えると、「フランス語は素晴らしい言葉ですから、しっかり勉強なさい」 といわれたのを覚えている。 西園寺公は大変なフランス贔屓の方だった。お若い時のフランス留学は随分長く、ゴンクール兄弟など文学方面の人達とも付き合いがあり、詩人テオフィール・ゴーチェの娘ジュディエットは 「蜻蛉集」 の和歌88首を、公が仏訳したものを五行詩に直して1884年に刊行している。日本人との交際も文芸、美術関係の人たちとの交流が多かったようである。たとえば、公使館員だが芸術に詳しい光妙寺三郎、美術に造詣の深い林忠正 、日本画家の山本芳翠、ジャーナリストの中江兆民などがそれであろう。この時代、マダム・サイオンジと呼ばれるフランス婦人の存在も知られている。元来、西園寺家の守神は弁天様で嫉妬深く、西園寺家は代々正妻はもてないことになっていた。しかし、弁天様の威力もパリまでは及ばず西園寺夫人と名乗る人がいたといわれている。後年、私が日仏会館の仕事の関係で会館理事の橋本実斐さんと度々お会いするうちに、私が幼い時に西園寺公にお目にかかったことのある話が出たら、橋本さんは自分は西園寺家で育ちましたといわれた。橋本さんはもと宮内省の式部官をしておられたので、宮中のしきたりに詳しい人であった。昭和天皇がフランスの生物学者とお会いになる時の通訳として私が初めて宮中にあがった時も、橋本さんにいろいろ教えて頂いた。たとえば 「通訳が終わったら、お上 (おかみ) はそのままお立ちになっておられますからあなたがたから先にお部屋を退出するのです」 などと詳しく教えて頂き、お蔭で大過なく任務を終わることが出来た。
晩年、西園寺公は興津の坐漁荘におられることが多く、父も月に一回は泊まり掛けで興津に出掛けて行った。時々父はお前も行くかと興津行きに誘ってくれた。まだ私は医者になってはいなかった頃だから、勿論坐漁荘には伺わなかったが、旅館で波の音を聞きながら父の帰りを待っていたことを覚えている。今は坐漁荘は明治村に移されて保存されている。京都の立命館大学は西園寺公が創立された学校で、近年西園寺公の伝記を出版されている。ある日、この執筆陣から私は呼ばれて伺ったところ 「あなたは現存しておられる唯一の老公の肉声をお聞きになった方なので、どんなお話しぶりなのか聞かせていただきたい」 といわれた。私も子供だった、僅かな時間だからはっきりとは覚えていないが 、橋本実斐伯は西園寺家に育ち、かつお話ぶりが大変老公に似ておられたという評判だったから、私は橋本さんの口真似をして大体こんな調子で話される方でしたとご披露をした。長生きをしていると妙なことでお役にたつこともあるものである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
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