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千葉医学 76 (5) :203-257, 2000

総説
受動喫煙による健康障害と禁煙教育
 田辺政裕
 
内分泌攪乱物質とその健康影響
 森 千里

原著
陳旧性環椎間回旋位固定に対する前方アプローチと側方アプローチの手技・適応・意義
 後藤澄雄 三井公彦 村上正純 望月真人 守屋秀繁

症例
皮疹を契機に発見された膵グルカゴノーマの 1 例
 中尾圭太郎 関 秀一 岡 裕之 星本相浩 窪田賢輔 工藤卓也 国吉 孝 大久保裕司 庄古知久 尾崎正彦 

ウイルソン病肝不全症例に対する生体部分肝移植の 1 例: 千葉県第 1 例目となる生体部分肝移植手術例
 小林 進 落合武徳他

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰
(36) 三宅 秀

研究報告書
平成11年度長谷川加齢医学奨学生研究報告書

学会
第19回千葉県胆膵研究会

雑報
共通研修セミナー(主題:救急疾患のプライマリーケア)のご案内
 
編集後記

 
   
  受動喫煙による健康障害と禁煙教育
田辺政裕 千葉大学医学部附属病院 卒後・生涯教育臨床研究部


本稿では受動喫煙による健康障害に関する最近の臨床、疫学的研究を紹介し、医学生への禁煙教育について考察を加えた。米国で初めて受動喫煙による健康障害が指摘されて以来、多くの臨床、疫学的研究が行われてきた。最も精力的に行われた研究は、肺癌との関連であり、evidence-based なメタ分析の結果から受動喫煙と肺癌リスクの間には弱いながらも因果関係が見出され、今年アメリカの国立衛生研究所が発表した最新の 「発がん要因報告書」 第 9 版にも、明確な発がん要因として受動喫煙が新たに加えられた。医学生に対する禁煙教育は 2 種類に大別される。一つは医学生自身の禁煙を促す態度教育であり、もう一つは臨床医学教育としての患者への禁煙教育・指導法の教育である。本邦の医学生の喫煙行動に関する研究で喫煙の有害性の認識が禁煙に結びつかないことが指摘され、医学生に対する禁煙教育は、各科別の講義でなく系統だった禁煙教育と禁煙のための環境作りが必要である。米国で大学医学部12 6校を対象とした禁煙教育に関する調査では、禁煙教育が67.2%の大学で必修科目として行われており、禁煙に対する医師の役割の重要性が強調されている。 喫煙によって周囲の人たちがどのような迷惑を被っているのかを慮る気配りは、医学教育における態度教育と同等である。 今後本邦においても医学教育カリキュラムへの禁煙教育の導入が検討されるべきである。
 
   
  内分泌攪乱物質とその健康影響
森 千里1,2) 1) 科学技術振興事業団 CREST


近年、 環境中に放出された化学物質の多くにホルモン様あるいは抗ホルモン様作用があることが見出され、 化学物質の内分泌撹乱作用による生態系への悪影響が、 社会問題となっている。 その理由は、 内分泌撹乱物質の曝露が野生動物の生殖腺や生殖腺付属器官の発生や機能分化に異常をきたし、 ホルモン代謝に悪影響を及ぼしていることが判明してきたためである。 諸外国より発表された論文では、 ヒトにおける 「精子数の減少」 や 「男性生殖器の発生異常の増加」 などの生殖異変の原因として、 内分泌撹乱物質をあげている。 さらに、 ヒトの疫学調査から内分泌撹乱物質の悪影響として 、 精巣ガン、 乳ガン、 子宮内膜症、 女性の思春期の早期化、 免疫系・神経系への影響 、 さらに次世代への影響が懸念されている。 ただし、 内分泌撹乱物質のヒトに対する影響は、 現時点では明白でない。 よって、 本稿では、 「内分泌撹乱物質とその健康影響」 と題し、 内分泌撹乱物質の定義や種類および生体作用の特徴、 作用メカニズム、 検出法等について概説し、 内分泌撹乱物質のヒトへの影響の可能性について整理する。 特に、 ヒトへの影響に関しては不明な点も多いため、 当方が行っている調査研究結果の一部も紹介しながら 「男性生殖能の異変」 に関する報告を中心に概説する。
 
   
  陳旧性環椎間回旋位固定に対する前方アプローチと側方アプローチの手技・適応・意義
後藤澄雄、 三井公彦1) 村上正純2) 望月真人3) 守屋秀繁4)  国立精神神経センター国府台病院整形外科 1) 国立相模原病院脳神経外科 2) 千葉大学医学部整形外科学講座 3) 沼津市立病院整形外科


【緒言・目的】小児環軸椎間回旋位固定は早期に適切に対処されれば殆ど変形等を残さず対処しうるにもかかわらず、 数カ月以上放置あるいは不完全な治療で経過した場合には、 極めて難治な問題を残すこととなる。 環軸椎間の側塊は骨性強直となり、 高度の斜頚を残す。 手術治療の危険性に鑑み放置せざるを得ないとの議論も生じるが、 全成長期間を高度斜頚状態で過ごさせることには疑問もある。 まして高度の脊髄症状をきたした場合には、 大変苦慮せざるを得ない問題を残す。 ここでは 2 例の異なるアプローチでの手術例に付き治療経験を述べ、 文献的考察を含め比較検討したい。 【症例 1 】 9 歳、 女児、 四肢麻痺合併。 経口法にて前方に落ち込んだ右側 Facet 環椎側塊の骨性癒合を解離したが、 左側の完全癒合の解離は困難であった。 体位変換の後、 後方固定を実施した。 【症例 2 】 5 歳、 男児。 Extreme lateral approach にて椎骨動脈を移動ののち、 右 Facet 関節を解離し、 後方固定した。 【考察と結語】患者の悲惨さに鑑み手術的治療を選択する場合、 両側 (Facet) 関節完全解離は困難である。 手術の目標は何より骨性癒合の解離にあり、 また矯正の保持にも工夫を要し、 椎骨動脈と脊髄に対するリスクとのはざまで術前の綿密な検討を要す。 手術は難しいが成功すれば患者の得るところ大である。
 
   
  皮疹を契機に発見された膵グルカゴノーマの 1 例
中尾圭太郎 関 秀一 岡 裕之 星本相浩 窪田賢輔 工藤卓也 国吉 孝 大久保裕司 庄古知久1) 尾崎正彦
横浜労災病院 消化器科 1) 同・外科
 

壊死性遊走性紅斑の出現からグルカゴノーマが疑われ、 確定診断・外科的治療に至った膵グルカゴノーマ及び肝転移の 1 例を経験した。 腫瘍の切除により血中 IRG は速やかに正常化し、 臨床症状も徐々に軽快した。  グルカゴノーマの特徴的症状は皮膚病変、 耐糖能異常、 体重減少であるが、 皮膚病変の出現率は本邦では40%と比較的少なく、 その他の症状及び臨床・画像検査で早期診断に努める必要があると思われた。
 
   
  ウイルソン病肝不全症例に対する生体部分肝移植の 1 例: 千葉県第 1 例目となる生体部分肝移植手術例
小林 進 落合武徳他  千葉大学医学部外科学第二講座


今回、千葉大学医学部附属病院において、本県第 1 例目となるウイルソン病肝不全症例に対する生体部分肝移植の 1 例を実施したので報告する。 症例 (レシピエント) は13歳、男児であり、術前、凝固異常 (HPT<35%) とともに、傾眠傾向を示していた。 血液型は AB 型、入院時の身長は176.0cm、体重は67.0Kgであり、標準肝容積 (SLV) =1273.6cm3であった。 ドナーは姉 (異父) であり、血液型は A 型 (適合)、身長は148.0cm、体重は50.0Kgと比較的小柄であり、肝右葉の移植となった。 術後は極めて良好な経過をたどり、肝機能は正常化 (HPT>100%) し、術後 72病日で退院となった。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(36)三宅 秀 (みやけ・ひいず、1848−1938) :蘭方医三宅艮斎 (ごんさい) の長男として江戸本所で生まれる。 1858年蘭学を川島元成について習い始める。 1860年、英語の習得のため、高嶋秋帆の兵学塾に移る。 さらに英会話修得のため、立石斧次郎の塾に入学。 1864年、幕府の第2回遣欧使節随員の使用人の資格でパリに赴き2ケ月余りを過ごし、帰国。 物騒な江戸を避け、加賀藩の英語教師の職を得て、金沢に移る。 維新後 、1870年、医科大学の中助教 (今でいえば助手にあたるか?) に任ぜられ、御雇外国人教師の講義では通訳を勤めた。 1881年、医科大学の初代の医学部長に任ぜられ、1890年まで東大医学部の基礎を固めた。  三宅秀は筆者は母方の祖父に当たる。 このシリーズには近親者は取り上げない方針であった。 しかし祖父は鎖国下に西欧文明を目の当たりに見て帰国、維新の動乱を避けて加賀藩に出仕、その後東大医学部の揺籃期から一応の形が整うまで勤めたこと、そして、その思い出を昭和の初年、高校生だった著者に度々聞かせたことなど、祖父にしてみればその時代の事を後世のなるべく多数の人に伝えたかったのではあるまいか。 そこで私はあえてこの祖父の生き様を収録することにした。 復一 (またいち) は幼名で東大医学部に出仕し始めた頃、秀 (ひいず) と改名したので、明治維新後は本文でも秀に統一した。

1 ) 復一の外国語修行
 復一の少年時代の塾通いのリストをみると、外国語の修得に特別に熱心である。 これは復一自身の考えに基づくわけではなく、復一の父、艮斎の教育方針であった。 おそらく艮斎が自身外国人との折衝の際に会話力の不足に悩んだからであろう。 幕命を受けてコレラの治療法を訊ねに品川沖のフランス軍艦に軍医を訪ねた時 (1858年) も 、江戸に出府してきたフィリップ・フランツ・シーボルトに質問をしに訪ねた時 (18 61年) も、艮斎は自分の習ったオランダ語がさっぱり通じないことの経験から、息子の復一には生きた、世界に通用する外国語を習わせたかったのである。 それにはオランダ語でなく、当時は医学修得のためにはフランス語が第一といわれていたが、教える人の得やすい英語会話に焦点をしぼった結果と思われる。

これだけ外国教育に熱心だった艮斎も復一に最初から外国語だけを教えたわけではない。 復一が 6 歳になった時、近所のお師匠さんについて、先ず習字を習わせ、10歳になると漢籍を習わせているが、同時に川島塾でオランダ語の初歩も始めている。 教科書は 「ヘンチー、ヤンチーの究理問答」 などで、先生の発音は極めて奇妙なものであったという。 しかし、この時代は外国のことは何でも悪いという攘夷一辺倒の時代だから、子供でも蘭学塾に通う者には容赦なく危害が及ぶ恐れがあった。 艮斎は一番安全な英語塾として高嶋秋帆の兵学塾を選んで、復一をこの塾に住み込ませ、秋帆の孫、太郎から英語を習わせることにした。 けれども復一はまだ12、3 歳の子供だったので、英語より鼓笛隊のついたオランダ流の戦闘訓練の方が面白く、毎日太鼓の練習に励んでいたという。

 この時代に鼓笛隊が使っていた 「ジーンストマルス」 や 「ヘウオーネマルス」 の楽譜が最近発見され、フランキー堺がテレビで再現している。 これは復一が太郎先生の英語のレッスンより鼓笛隊に興味を持ったのも、無理からぬほど勇壮なマーチであった。 復一の高嶋塾にいた期間は短かった。 太郎先生は江戸にコレラが流行した時に罹患して亡くなり、塾も1862年の冬、失火で全焼してしまった。 艮斎はやむなく復一を引き取って今度は立石斧次郎 (別名は米田為八、長野桂二郎ともいう) の塾に預けた。 立石は下田のアメリカ領事館で、ハリスやヒュースケンのボーイをしながら、米語を耳から覚えたのである。 したがって住み込みの塾生には一切日本語を使わせない主義であった。

 この立石塾の隣家に艮斎の患家である外国方組頭の田辺太一が住んでいた。 田辺は 1862年の幕府派遣第 1 回の遣欧使節にも加わった外交の実務家である。 1864年に幕府が横浜の鎖港についてフランスと交渉するため第 2 回の遣欧使節を派遣することになり、田辺は今回も使節団に加わることになった。 艮斎はうまく頼み込んで復一を田辺のボーイとして使節に加えてもらった。 艮斎には今でいえば 「お受験ママ」 のような所もあって復一のためには塾選びや機会を捉えて留学の機会を逃がさないように計らっていた。

2 ) 第 2 回遣欧使節
 今日の海外旅行と違って、鎖国下の当時は海外の情報はないに等しい。 それゆえ、第 1 回の遣欧使節にはかなり珍談、奇談が多い。 旅行の支度だけ取り上げても、大名の江戸への参勤交代にのっとって万事準備したのだからから、食料も米、味噌、醤油を用意、履物は日程に合わせて多数の草鞋を用意し、旅宿の廊下を照らす金行灯 (かなあんどん、赤穂義士が討ち入りの時、吉良邸の鴨居にかけた蝋燭たてのような物) まで揃えて、パリのホテルに乗り込んだのである。 ところが、パリのホテルには鴨居はなく、また廊下までガス灯で照明されていたので、捨てて帰国したという話である。

 今回は 2 回目なので、それほどの失敗もなかったが、復一のように外国事情を本で勉強していた人でも、実際に鉄道を見るまでは広い鉄板のうえで舵を取りながら運転する乗物と考えていたし、トンネルに入ると、当時の汽車は素早く対応する照明設備はないから、突然の暗闇になり、「日中夜中の如き所」 と日誌に書き記している。

 この初めての海外旅行の体験は復一に取って大変強烈な印象を与えている。 私たちが20世紀に味わった新世界への旅行で一番インパクトの強かったのは1969年 7 月の月面着陸の成功であろう。 当日私は NHK から当夜の番組に招かれ、もし月からの帰還が不成功の場合は月に生物が居る可能性について延々は話す材料を用意して欲しいと依頼された。 それほど危険性の高い冒険旅行と考えられていたのである。 それに比べれば鎖国下の欧州旅行は危険性は少ないが、帰国後の安全の保障はなかったのである。

3 ) パリの 4 ケ月
 使節の交渉は結局不調に終わったが、復一等はパリの見物も少しは出来て、ナポレオン 3 世と皇后ユージェニーが馬車で通るのを見たり、サーカスを見物したりしている。 しかし、チョンマゲに二刀差しでは自分自身が見物の対象になる始末だったようである (写真 1 )。  パリはもともと英語の通じにくい都市である。 しかも復一の立石塾仕込みの英語はパリでは殆ど役立たない。 将来医学志望の復一は出来れば医学関係の施設も見学したく、また艮斎の医療器具の買い付けも命じられ費用も持たされていた。 しかしフランス語の出来ない15歳の子供では相手にしてくれない。 困っているところへ折良く現れたのがジラルド・ケンという日本青年である。

 ジラルド・ケンは本名斎藤健二郎という。 フランス政界の政治ジゴロで、薩摩藩のロビイストでもあったコント・モンブラン (白山伯) が文久二年に来日した際、帰途健二郎を連れ帰ったといわれている。 ケンはこの時代かなりフランス語が話せていたし 、若い復一に親近感をもち親切に方々へ案内してくれた。 そのお陰で復一は医学博物館や医療器具類を買うことができた。 復一の持ち帰った物は止血鉗子、検眼用レンズ 、静電気応用医療器具、携帯用顕微鏡など今でも残されている。

 復一は帰国後もケンと連絡を取りたいと思っていたが、消息は不明であった。 ずっと後になって、ケンは維新前に鹿児島で暗殺されたという事が分かり復一はケンの非業の死を悼んでいる。

4 ) ヘボンとウェッダー
 佐藤泰然は佐倉に順天堂を開いた時、艮斎を協力者としたが、艮斎は数年で佐倉を去り江戸で開業をしている。 しかし両者の関係はその後も依然として親密なものであった。 泰然は順天堂に後継者が出来て横浜に引退した後もしきりと艮斎に手紙を書き 、復一を今度横浜に出来たアメリカの宣教医ヘップバーン (当時はヘボンという) の学校へ入学させないかと誘っている。 艮斎も復一を遊ばせて置くわけにはゆかず、復一を横浜の学校にいれることに同意したのである。

 復一はこの学校に入ってはみたが、英語学校の程度は低いし、医学のコースもないので、ヘボンに頼んで医療の手伝いもしてみた。 しかし、ヘボンは眼科医であり、洗眼の患者だけであまり勉強にならない。 そこでヘボンのもとを去り、横浜で当時開業していた、もとアメリカ海軍の軍医、ウェッダー (Alexander M.Vedder) の助手にしてもらった。 この人はドイツ留学の経験もあり、復一とウマがあったのか、足かけ 3年、化学、動物学、解剖学、薬物学、内科、外科とみっちり教えてくれ、復一が腸チフスにかかった時など自宅に引き取って献身的な看護をしてくれたという。

 1867年に長州戦争が始まると、桂小五郎 (木戸孝允)、伊藤博文がジョセフ彦 (アメリカに漂流し英語を学んだ人) の紹介とでウェッダーを長州軍の軍医総監にしたいと申し出たのである。 ウェッダーはこの申し出を承諾し、復一に一緒に来ないかと誘った。 しかし、これには艮斎が強く反対し、復一はウェッダーと分かれて江戸に戻ることになった。 復一の話によると、ウェッダーは医師としてはヘボンより力量は上であったが、ヘボンはローマ字を発明したり、長く在日し教育に従事しているので日本人には評判がよく、一方のウェッダーは当時の日本人からは訛ってペダルなどとも呼ばれ、横浜で名医の名の高かったというウェッダーとは別人と信じられたり、長州の敗戦後、日本を去ったこともあり、早く忘れられてしまったのである。 この点は、英国人医師ウイリスが東大医学部の基礎を築きながら、ドイツ医学の採用に負けて鹿児島に去ってしまったのと似ている。

5 ) 加賀藩での英語教師
 幕末になると江戸では治安が悪化し、艮斎宅にも何回か盗賊が入っている。 さらに攘夷を唱える浪士は洋楽を学んでいる者には理由の如何を問わず、危害を加えるようになってきた。

 艮斎は復一の安全を考えると江戸に置くのは危険であると考え、懇意の材木問屋の福田兵四郎に頼んで、復一を加賀藩が求めている、藩校、壮猶 (そうゆう) 館の翻訳係に就職させた。 1867年8月のことである。 日本海にも当時既に米英仏の軍艦が入り込んではいたが、金沢市内はさすがに大藩のお膝元だけに江戸とは比べものにならないくらい治安が好かった。

 この年の冬、江戸から艮斎が病臥しているとの手紙が来て、復一は藩の許可を得て江戸に戻った。 艮斎の病気は食道癌で、結局復一は金沢に戻れず看病を続けたが、翌 1868年 7 月、上野の彰義隊を本郷の加賀屋敷 (今の東大) から砲撃するアームストロング砲 (長距離砲) の腹に響く砲声を聞きながら艮斎は亡くなった。 享年52歳である。 復一が再び金沢に帰ったのは維新後の明治 2 年 (1869年) のことである。 今回は七尾の壮猶館分館に勤務した。 ここには金沢県 (旧加賀藩) の優秀な子弟のみが集められ、語学所と名付けられた学校が開かれていたのである。 この時の学生から後の工学博士平井晴二郎、海軍大将瓜生外吉、理学博士桜井錠二、工学博士石黒五十二、薬学博士高峰譲吉等が育っている。 ようやくこの語学所が軌道に乗ったと思われる頃、今度は母遊亀 (ゆき) の病気の知らせが来て、復一は東京に帰り、結局そのまま東京に留まることになった。

6 ) 大学出仕
 三宅の家には次のような辞令が残されている。
  三宅復一
   大学出仕申付候事
         三月      大学別当

 ここに三月というのは明治 3 年 (1870年) のことで、復一は22歳であった。 これ以後復一は秀 (ひいず) と改名しているので、この稿でも秀に統一する。

 さて秀の任務は当時創設された医学部で外人御雇教師ウィリスの講義の通訳である。 ウィリスは戊辰戦争で官軍の軍医として活躍したイギリス人で、秀にとっては初めての英国英語であった。 しかし、秀はウェッダーから医学の初歩から中級くらいまでみっちりと叩き込まれているので少々言葉が分からなくても、事柄は分かっているから講義の通訳には差し支えなかった。 これは、後に教師がドイツ人になっても同じことで、同僚の通訳で語学の天才といわれた司馬凌海よりも医学講義の通訳としては秀が優れていたという。

 ウィリスの講義は長く続かなかった。 政府の方針が急転換して、医学部の教師としてドイツから医師を招聘することになったからである。 ウィリスには戊辰戦争の時、多くの官軍兵士の命を助けて貰っている。 その人を別に何のとがもないのに失職させるわけにはいかない。 この難題を解決したのは西郷隆盛である。 西郷は鹿児島に立派な病院を作り、ウィリスを院長として礼を尽くして招聘したのである。

7 ) ドイツ医学移入の経緯
 ウィリスには義理を欠き、ようやく西郷に救ってもらった新政府は何故国の教育の重要な部門をプロシア一国に委ねたのだろうか。 それには次のような事情がある。 当時、医学取調御用掛であった相良知安が開成学校教頭のオランダ生まれの米人宣教師フルベッキの提言をいれて、医学はドイツ医学がよいと政府に答申したのである。 相良は出島のオランダ軍医が教えていた医学校出身で、オランダ医学の背景に見え隠れしているドイツ医学のことはかねて知っていた。 このような火種のあるところへフルベッキが油を注いだので、急に火勢が強まったらしい。 フルベッキはもと錠前屋で、医者ではないが、オランダ在住中にオランダ医学の源はドイツ医学にあることを察していたのであろう。 相良のドイツ医学推薦文には次のような字句がある。 「仏方の奢侈は未だ国富に適せず。」 と先ずフランス医学は日本のような貧乏国向きではないとし、「英は国人を侮り、米は新国にして医余りなし。」 といい、英国人は日本人を馬鹿にするし、アメリカにはまだ医師が少ないから不適格だとしている。 この程度の提言に迷わされた政府は早速プロシア政府に医学部の教官の派遣方を依頼してしまった。

 選考の結果、内科は海軍軍医大尉ホフマン、外科は陸軍軍医少佐ミュレルに決定したが、普仏戦争が終わらず、着任は1871年 (明治 4 年) であった。 初登学の日はプロシア公使館から一個小隊が軍楽隊付きで出動した。 大学内に軍隊を入れ、馬上の 2 教官は医学部の学生と職員を前に今後の方針として、「学内では日本語の講義は禁じ、教養課程から専門課程に至るまで日本人教官といえどもドイツ語のみで講義すること」 とを言い渡した。 占領国並の扱いである。 日本語も日本文化も知らないドイツ人がドイツの小説などを教材として教養課程の講義をするのだから、卒業生は日本のことは何も分からない。 森鴎外など希有の例外を除いて、日本のことを知らない医者だけが生まれて来ることになってしまった。 学生はドイツ語が分からないので、分かるようになるまで、ホフマンの講義は語学の天才といわれた司馬凌海が、ミュレルの講義は秀が通訳することになったのである。 医学部のドイツ語独占は長く尾をひき、筆者が 1938年に入学した頃でも、学生が患者の様子を教授に説明するのにテニオハだけ日本語で、「クランケはシュメルツをクラーゲンしている」 などと言わないと叱られた。 筆者はドイツ語は不得手なので、講義の中のドイツ語らしい言葉は一度仮名で書いて、後は字引を引いていた。 ある福島出身の教授の講義に 「ジーニーを飲むとジアレーします」 という言葉があって、辞書にもない。 同じく福島生まれの父に訊いたら牛乳をのむと下痢すると言うことだよ、と笑われた。 「ジーニー」 は東北弁で牛乳のことだったのである。

 ミュレルもホフマンも1874年の夏には契約期間が終わり帰国し、その後はベルツ ( 内科) とスクリバ (外科) が引き継いだ。 二人とも文官であり、後には両名とも日本婦人を娶ったほど親日家であったが、医学部の講義は日本人教授もドイツ語で講義をするという鉄則はドイツ軍医時代のまま守られて、1905年のベルツの帰国まで続いた。 さらに医者の会話にドイツ語を使えば患者に分からなくて便利だということもあり 、結局は第二次大戦の終わりまで続いた。

8 ) 医学部部長としての三宅秀
 医学部本科の学生はドイツ語のみの講義を聴かされていた甲斐あって、二人のドイツ軍医が帰国するまでには通訳なしで講義を理解するようになり、秀の通訳としての任務は終わった。 しかし本科生はドイツ語学習に時間をとられるので、修業年限が長く、途中脱落する学生も多い。 西洋医学を学んだ多数の医師を早期に欲しい政府はベルツやスクリバの反対を押し切って、1875年に日本語で 4 年間に医学を学ぶ課程を東大に発足させ、秀を東京医学校校長心得に任じた。 さらに1880年にはこの学校を母体として東京大学医学部別課という修業年限 4 年の学校を作った。 (医学部予科、本科というのに対して医学部別課という決めである) この学校は後に1889年に第一高等学校医学部 (千葉医専の前身) として、千葉に移るまでに1111名の卒業生を輩出して、それなりの使命を果たしている。 別課は千葉に移ってから、現在の千葉大学医学部になるまで、これも長い歴史があるが、創学の精神として役に立つ医師を養成するという別課の意気込みは脈々として千葉大学医学部に伝えられて来ている。

 秀自身は別課のほか、本科でも病理学と診断学の講義を受け持ち、1881年には東大医学部の初代学部長に任ぜられた。 時に33歳であった。 学部長になってみると、秀は本科のドイツ語ばかりの講義に改めて深刻な疑問を抱くようになった。 その萌芽は秀が1876年にフィラデルフィアで開かれた万国医学会に出席した際、副会長に選ばれ、主として英米系の医師と知り合う機会を持った時から生まれたのであろう。 ドイツ医学のみが医学ではなく、世界にはもっと多様性に富んだ医学があり、各国の実状に応じて国民のためになる医師を育てる必要のあることこそ肝要であると考え始めた。

 秀はこのことをさらに目でみて確かめたく、1885年には私費で 1 年間現職のままヨーロッパの医学を視察に出かけた。 この時は日本人留学生の多いドイツ、オーストリアも回り留学の実状を見て回っている。 日本でのドイツ語教育はどういう訳か留学生活にはあまり役立って居なかったというのである。 秀のこのような経験も医学部のドイツ語偏重の廃止には至らず、1890年には医科大学長を辞職、以後の公職は貴族院議員のみになった。

9 ) 晩年の三宅秀
 秀が医科大学長を辞任したのはまだ42歳の壮年時代で、90歳で亡くなるまで48年間も暇な時間があったのである。 議会での演説はこの長い間に 3 、4 回だから、議会のない時は魚釣りと一般向きの健康書の執筆、衛生ボーロやウェハースの作り方の翻訳などをしていたようである。 私たち孫どもは祖父の家へのご機嫌伺いは少年時代は苦手だったが、旧制高校の学生になると祖父が大人扱いをしてくれて、時々面白い昔話を持ち出す。 ある時、昔の美人の話で、明治時代ブロマイド売り上げのトップスターだった 「ぽんた」 という芸妓の話になり、「これがぽんただよ」 と傍らの手文庫の中からやや黄ばんだ写真が出てきた。 私がそれを手にとってみていると、祖母が御菓子を持って入ってきて、「これはお目の毒」 と写真を取り上げられてしまった。 祖父の没後 、祖父の残した文書や写真の整理を命じられた私は手文庫にも何処にもついに 「ぽんた」 はみつからなかった。 写真は祖父の愛蔵した写真ではなく、「ぽんた」 を落籍した富豪、鹿島清兵衛の写したもので、鹿島の没落後、「ぽんた」 も長屋住まいだったと祖父が話していた。 祖父もなかなか隅に置けない粋人だったらしい。

10) 20世紀になってからの三宅秀の生き様
 復一の少年時代は大変輝かしいものであった。 高嶋秋帆老師にかわいがられ、ペレトン (小隊) ボーイという愛称で、鼓笛隊のリズムメーカーだった。 15歳の春には、鎖国下の人として、希有のチャンスに恵まれて、花のパリを訪れて、西欧文明の一端にも触れている。 明治維新以後はそれ以前ほどの華やかさは無いにしても、東大医学部の草創期に若くして要職に就いている。 政治的には非力なため、ドイツ医学一辺倒は覆せなかったが医学博士第一号受領者として、当時の医学会の有力者ではあった。

 しかし、1890年に42歳で医科大学長を辞職してからは、単に前世紀の語り部にのみ徹して、90歳になるまで、余りにも長かった余生の過ごし方は、私にとって、未だに解けぬ謎である。


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