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千葉医学 78 (3) :99-145, 2002

総説
青の電気生理
 山本修一
 
原著
食道癌手術患者における侵襲反応, エンドトキシントランスロケーションおよび術後合併感染症の周術期経腸栄養管理による抑制
 豊田康義 高木一也 山森秀夫 田代亜彦 宮崎 勝

エッセイ
私の20世紀
 三浦義彰
はじめに
 第1章 最初の記憶
 第2章 暁星時代(1922年-1933年)
 第3章 大高時代(1934年-1937年)

らいぶらりい
Cancer Gene Therapy
 崎山 樹
腎移植の最前線
 柏原英彦

海外だより
海外留学記 Johns Hopkins University
 辛 太廣

学会
第1043回千葉医学会例会・第 9 回千葉泌尿器科同門会学術集会
第1044回千葉医学会例会・第 2 回環境生命医学研究会

編集後記

 
   
  青の電気生理
山本修一  東邦大学医学部付属佐倉病院眼科


網膜の光受容体の一つである青錐体 (S-cone) は, 赤・緑錐体 (L, M-cone) と分子遺伝学的, 生化学的, 生理学的に大きく異なる特性を有している。 また臨床的にも多くの網膜疾患において青錐体系の機能が他の錐体に比べて脆弱であることが, 網膜電図 (ERG) を用いた研究により明らかになっている。 完全型先天停止性夜盲症では, L, M-cone ERG は正常に記録されるのに対し, S-cone ERG と杆体系 ERG は消失しており, ON 型双極細胞を介する経路の選択的障害を示している。 しかし小口病では S-cone ERG は正常であり, 同じ先天停止性夜盲でも S-cone 系の障害動態が大きく異なっている。 Enhanced S-cone syndrome においては, 驚くほど大きく異常な ERG が短波長刺激に対して記録される。 錐体系 ERG と視覚誘発電位 (VEP) の波長感度曲線からも, 短波長刺激に対する感度亢進が明らかである。 高度近視では, S-cone ERG と L, M-cone ERG はいずれも近視の程度の増強とともに減弱しており, 心理物理で報告されている高度近視における S-cone 系の選択的障害の原因は, 網膜外層より中枢側にあると考えられる。 糖尿病網膜症では, 単純型だけでなく, 網膜症のない糖尿病患者でもS-cone ERG は選択的に減弱しており, 網膜内層のみならず網膜外層にも異常を来していると考えられる。 裂孔原性網膜剥離では, 術前には S-cone ERG, L, M-cone ERG ともに同程度に減弱しているが, 強膜内陥術後, L, M-cone ERG は順調に回復するのに対し, S-cone ERG には全く改善がみられない。 S-cone 系は網膜剥離によって不可逆的障害を受けると考えられる。 先天性, 後天性を問わず多くの網膜疾患において, S-cone ERG の選択的障害が観察され, 初期の微細な網膜障害の検出に有用であると考えられる。    
 
   
  食道癌手術患者における侵襲反応, エンドトキシントランスロケーションおよび術後合併感染症の周術期経腸栄養管理による抑制
豊田康義 高木一也 山森秀夫1) 田代亜彦2) 宮崎 勝   千葉大学大学院医学研究院臓器制御外科学 1)済生会習志野病院外科 2)上都賀総合病院外科


【目的】高度侵襲手術である食道癌手術では, 術後の炎症反応が強く, 免疫能低下や感染性合併症が引き起こされる。 今回, 我々は, 食道癌手術患者の周術期栄養管理法の違いによる術後反応を比較し, 有用な栄養管理法について検討した。  【方法】右開胸開腹食道亜全摘術, 三領域郭清を施行した37例を対象とし, 周術期を中心静脈栄養 (TPN) で管理したTPN群 (n=19) と経腸栄養 (EN) で管理したEN群 (n=18) とに分類した。 栄養管理は一日熱量35kcal/kg, アミノ酸量1.5g/kgを, TPN 群では術前 7 日より術後14日まで TPN のみで投与し, EN 群では術前は EN のみで投与, 術後早期は TPN と併用し漸次 EN へと移行した。 それぞれの群で, 動脈血の Interleukin-6 (IL-6), IL-10, Endotoxin (Et), Glucagon (IRG) を測定した。 また, 術後感染性合併症の発生率を比較した。 【結果】炎症性サイトカインである IL-6 は, 術後 3 日, 7 日で EN 群で有意に低値となり, 抗炎症性サイトカインであるIL-10は, 術中, 術後 2 時間で EN 群で有意に低値となった。 ストレスホルモンである IRG も EN 群で術前後を通して有意に低値で推移した。 Etは, TPN 群では術後 2 時間を peak に上昇するのに対して, EN 群では正常値で推移し, 術後 2 時間値で有意差を認めた。 感染性合併症の発生率は, EN 群で有意に低かった。  【結論】高度侵襲手術下における周術期 EN 管理法は, 術後の侵襲反応を抑え, 高サイトカイン血症を軽減した。 また, 本法は, TPN 群でみられた Endotoxin Translocation の発生を抑制し, 臨床的にも, 術後の感染性合併症の発生を抑制した。
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


はじめに: 「千葉医学」 は千葉大学医学部の重要な研究を発表する公の機関誌で, 私のような者の生涯を記録する雑誌ではない。 しかし, 87年の生涯を省みてみると, そこには二つの医学研究を妨げた時代があって, 医学の進歩が止まってしまっている。 一つは戦争で, 終わって見ると何と愚劣な争いであったか, こんな事のために二つとない命を失った方はさぞ悔しかった事だろうと思う。 もう一つは学園紛争で, 何の進歩も伴わない, 時間の浪費を強いられた時代である。  これらの時代に再びこのような愚をくり返さないために, 私が経険した20世紀の出来事を記録して置くことは決して無駄ではないと, うまく煽てられて, 「千葉医学」 の貴重な紙面をお借りする事となった。 恕して頂ければ幸甚である。       2002年 4 月
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第1章 最初の記憶
 20世紀はこの間終わったばかりである。 私はこの世紀の初め頃, 1915年の 4 月 9 日に生まれた。 午前4時頃だったらしい。 外祖父, 三宅秀は丹念に日記をつける習慣があって, 没後それを調べたところ1915年 4 月 9 日の日記に、「今朝 4 時に教、男児出産の電話あり。」 の記事を見付けた。 教 (おしえ) は母の名で, もうこの頃には電話が手紙に代わって急ぎの通知にも使われていた。 名付け親は佐藤進順天堂院長だと父から聞いた。 三浦の家には義の字のつく名が多かったが, 義彰はその頃新鮮な印象を与えたという。 佐藤進先生は親戚一統の長老格だったので, 父がお願いしたらしい。 兄の名は紀彦 (としひこ) で1900年の生まれゆえ, 20世紀の初の男の子というので, 父が命名したが, 実は20世紀はもう 1 年待たなければ始まらないのであった。  最初の記憶はあやふやである。 9 月の30日に猛烈な台風が来て, 父が 3 階の窓から烈風が吹き荒れているのを, 私に見せた記憶がある。 しかし調べてみると, 9 月の30日に東京を襲った台風は私がまだ 3 歳位で, 本当の私の記憶ではないのではと言われている。  医者だった父がパリの講和会議に, 日本の全権だった西園寺公爵のお供で出かけた時のお土産は子供服だった。 時の駐仏大使松井慶四郎さんの夫人に頼んで買って頂いた最新流行のもので, 男児服なのにズボンではなく, スカートだった。 この服を幼稚園に着て行ったら, 女の子の洋服だといじめられた記憶がある。 これは1920年頃の話だから, 本当に私自身の記憶だろう。 同じ頃, お手伝さんの間に流行った歌も覚えている。 「イッツ ア ロングウェイ ツ チペラーリー, イッツ ア ロングウェイ ツ ゴウ」 という第一次大戦の時に英国の兵士の愛唱した軍歌だった。 ラジオもない時代だから, お手伝さんは耳から耳へ歌詞を伝えて歌っていたのだろう。 いつもはお手伝さんの歌を真似すると, 母に叱られるのに, この歌の時は母は何も言わなかった。 多分意味が分からなかったからだろう。 私も本物を聞いたのは 「戦場にかける橋」 という映画で, アレック・ギネスの指揮する英国の捕虜部隊が歌いながら行進するのを見てからである。 幼いときに聴いた歌は不思議に記憶に残るものである。 (チペラーリーはTipperary でアイルランドの町の名であった) その歌詞は次のようなものだと, 最近教えられた。  "It's a long way to Tipperary; It's a long way to go; It's a long way to Tipperary; To the sweetest heart I know, Good-bye, Piccadilly! Farewell, Leicester Square! It's a long, long way to Tipperary; But my heart is right there." もしこの歌詞が母にわかっていたら, 他の流行歌同様 「歌ってはいけません」 の運命になったはずである。  幼稚園は当時三崎町にあった仏英和幼稚園にいれられた。 受け持ちは白い大きなボンネットの中から覗く顔には, 猫のひげのような毛の生えている尼さん (マ・スール・ジェルトリュート) で, 毎朝フランス語で挨拶をさせられた。  後年, この引退していた修道女をパリ近郊の修道院に訪ねたら, 日本語を忘れず, 「ミウラさん, よくお漏らしした」 というので, 同道したフランス語のわからない家内にも昔の失策がばれて恥をかいた。  この頃, 父はよくヨーロッパに出かけ, 留守になると決まって私が病気になる。 母は困って東大の小児科に入院させるので, 幼稚園在園 2 年のうち, 各半年ずつ位しか通っていなかったようである。 不思議と父が帰国すると, 私の病気はケロリと治り, 幼稚園に通えるようになる。 父はその頃フランスを訪れることが多く, この国の言葉は子供の時から習わないと, 発音が出来ないと言い, 私を仏英和幼稚園から暁星小学校に進ませた。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 2 章 暁星時代 (1922−1933年)
(1)暁星という学校:この学園の母体となっているマリア会 (フランスのカトリック教の一会派) は, 明治維新後10年ほどの時点で早くも日本で初等, 中等教育に手を染めようと計画したらしい。 しかし, 実際に教育者を日本に送ったのは1888年のことである。 先ず外人の多い築地明石町に小さな塾を設立, 6 名の生徒を収容して, 授業を始めた。 主に居留外人の子弟である。 同年 7 月, 麹町に移り, 校名を Ecole de l'Etoile du Matin (暁星) と決めている。 1890年には飯田町 3 丁目に土地を購入, この年 8 月に小学校設立の許可がおりている。 1901年には横浜の居留外人子弟の学校, 聖ジョゼフ学院も横浜の山手に開設した。  創立に関わった人々の中でヘンリック校長には特異な才能があって, 明治政府の要人のうち, 特にフランスに親近感を持つ人物に近づき, フランス式の初等, 中等教育が日本に適して居ることを説いて回った。 少し後にはフランス帰りの西園寺公望侯 (後に公爵) には暁星学園の大拡張に要する募金の発起人になって頂いている。  西園寺公はパリ・コンミューン (1871年) の最中にバリケードに囲まれたパリに到着, 当時22歳の青年だった公は間もなく治安が回復すると, ソルボンヌ大学に入学した。 フランス人との交友関係も広く, 政治家の学友のみならず, 文芸, 芸術の方面にも親友が多かった。 このような人物をヘンリック師が見逃す筈もなく, 西園寺公は暁星学園の大パトロンになったのである。  私もまだ暁星小学校の生徒の時, 一度だけ公にお目通りをした。 その折, 「学校はどこ?」 とのお訊ねに 「暁星です」 と申し上げたら, 「フランス語は良い言葉です。 よく勉強しなさい。」 と言われたことは未だによく覚えている。

(2)暁星のムッシューたち:1922年の 4 月, 私は飯田町の暁星小学校 (写真) に入学した。  校門にブッフ校長が白い長い髭 (写真) を 4 月の風に靡かして立ち, 一人一人の新入生の名前を訊ねている。 外人に慣れない子はそれだけで泣き出す始末である。 新入生は A 組と B 組に分かれ, 6 年卒業まで組み替えはない。 担任の先生は学年に貼り付いているので, 厭な先生に当たっても 1 年で変わる。  日本人の先生の中には随分奇人もいた。 私も 4 年の受け持ちの先生には悩まされた。 四六時中白墨で汚れ手垢で光ったフロックコートを着て, 「反省」 という言葉を好み, 事あるごとに反省させられる。 反省は日光のお猿, 次郎だけでたくさんで, 育ち盛りの子供が始終レトロスペクテイヴな反省ばかりしていたら陰気臭い人間になってしまう。 私はこの 4 年生の 1 年間ほど学校が嫌いになったことはない。 それは一つには母が胃癌になり, 家の中は 2 人の日赤の看護婦がいて病院のようになってしまったこともあるが, やはり毎日 「反省」 の種を嘘でもよいから見付けて置くような生活は私の性に合わないのである。  日本人の担任のほかに, フランス人の修道士 (この人達はすべてムッシューと呼ばれる) がフランス語とか, 唱歌とかを教えるだけでなく, 休憩時間に目を光らせ, 遊んでいない子供がいると強制的にも運動させる。 このムッシューたちには時に乱暴な人もいたが, 大抵は人のいい先生たちだった。 中でもフランス人の唱歌の先生はタコボンというあだ名でバイオリンを提げて各教室を回り, 日本語の小学唱歌やフランスの子供の歌を教えて回った。 私たちは 1 年生の時から 「白地に赤く, イノマル染めて」 と教えられ, そのように歌った。 (フランス語では H の発音は無声のことが多い。 ローマ字で書いた日の丸をフランス語読みすればイノマルになる) しかしフランス語の歌詞の意味は教えて貰えなかった。 国歌でさえ, 残忍な表現のあるフランスの歌は訳すことなく, 丸暗記で覚え, 卒業後フランス語は忘れても, フランス語の歌詞はすらすらと何十年の空白を乗り越えて想い出す卒業生が多い。  やがて音楽教室の完成とともに日本人の音楽の先生が着任, タコボン・ムッシューの授業はなくなった。 タコボンは唱歌を独唱した生徒にはフランスの古郵便切手をご褒美にくれていたようだが, 音痴の私は独唱などもってのほかだから, 切手をもらったことはない。

(3)寄宿舎のお風呂:暁星の寄宿舎のお風呂はパンツを穿いたまま入るのだそうだ。 カトリックでは裸を見せるのを嫌うからだろう。 隣の女学校の寄宿舎も浴衣のまま入浴するのだという。  ある時タコボン・ムッシューが入浴の監督をしていた時, 小学の寄宿生だった後のテナー歌手, 藤原義江が悪友に唆されて, パンツを脱いでタコボンに投げつけ, 命中したら, ご褒美をやるといわれ, ピシャッと投げつけてしまった。 お陰で後の大歌手は暁星の唱歌の先生から睨まれてついに退学させられたそうである。  関東大震災 (1923年) の時, 寄宿舎の風呂は壊れて入れず, 町のお風呂屋さんに寄宿生が大挙してでかけ, アレヨアレヨと言う間もなくパンツを穿いたままお風呂に入ってしまい, 後でお風呂屋さんはお湯を入れ変えたとかいわれている。

(4)即題と点読:暁星には保護者会がなかった。 けれどもいつの世にも参観好きの出しゃばりな父兄がいるもので, 頻繁に参観好きのお母さんが現れていた。 しかしそういうお母さんの子弟は不思議とあまり成績がよくなかった。 参観のお母さんの本当の目的は何だったのだろうか? 暁星には即題という小試験が 2 週間に一度行われて, その点数は総計されて, 2 週間に一度, 校長から各自に言い渡される。 これは点読 (Lecture des notes) といい, これによってクラス内の席次がめまぐるしく変わる。 点読は校長が各教室を回り, 各自の成績のほか, 一般的な注意を伝達する機会でもある。 小学校校長のブッフさんの点読はひどく事務的だったが, 中学の校長エミール・エックさん (写真) の点読は個性的だった。 たとえば ABC 順の名前を読み上げてその生徒を起立させ, 私の場合なら次のような調子で成績を告げる。   「ムッシュー・ミウラ, 380点, Bien この度は代数できなかった。 そのため 5 番に落ちた。 勉強しなさい。」 という調子の片言である。 400点満点で, 上から Tres bien, Bien, Assez bien, Passable, Faible, Mal の 6 階級に分けられる。 なにしろ 2 週間にいっぺん席次が変わるから誰も余り気にしない。  各自の点が知らされた後, その半月の間に起きた生徒の非行についてのお小言がある。  たとえば, 「ある生徒は仏英和 (女学校) の生徒とカンケイした。」 とエック校長は古い仏和辞典で調べて, 恋文を出したことを 「カンケイ」 という日本語に訳してしまったのだろうが, 聞いているマセタ生徒の方はあれこれと想像を逞しくして, カンケイした生徒はエライナーと英雄視してしまったのである。

(5)関東大震災:1923年の 9 月 1 日の正午近く, 東京は大地震に見舞われた。 この日はまだ夏休み中で, 私は日本間で、積み木で遊んでいた。 突然の上下動, 水平動が襲い, 壁土は落ち, 天地は暗く, 立って歩けない。 そのうちに母が私を呼ぶ声が隣のコンクリート建ての蔵から聞こえたので, 私は這って余震の中を安全な蔵にたどりついた。 やがて家中の人がここに集まり, 無事を喜んでいる間もなく, 父が大学から帰ってきて, もう火事が駿河台にも迫って来ているから, 大切なものだけ, 蔵に入れ, 早く逃げよう, ということになった。  女, 子供は先に逃げて, お茶の水の女子高等師範の校庭で落ち合う約束をして, 裏の塀の壊れた所から逃げ出した。 もう表の門は火に包まれていて出られない状態だった。 やがて父や兄と落ち合ってみると, かつて私の使っていた乳母車に西瓜とオウムと幾らかの飲料水が積まれていた。 みながコンクリート建ての蔵を信用して大切なものを入れたが, 結局この蔵には火が入り金庫までも焼けてしまったのである。  女高師も安全ではなくなったので, 次の避難の目標は湯島の岩崎邸に決めた。 ここは現存しているが, 四方が森に囲まれ, 東大の建築科の外人教師ジョシュア・コンドル (コンダー) が設計した瀟洒な作りの二階建ての洋館である。 父はここに私たちを預け, 東大病院に取って返した。 私たち家族は震災第 1 夜を豪華な岩崎邸で過ごし, 第 2 夜は東大病院の空いている病室に入り, 第 3 夜から焼け残った小石川竹早町の母の里, 三宅の家に落ち着いた。 ここには焼け出された親戚が集まり, 芝生の上に茣蓙をひいてごろ寝である。 従兄弟, 従姉妹だけでも30名位も集まったから, 急に賑やかになり, 子供たちは大喜びだった。 しかし世の中が少し落ち着いてみると, 一体学校はどうなったかが初めて気になりだしたのである。  暁星小学は全焼, 中学は無事だったので11月から中学の教室を借りて 2 部授業と決まったのはかなり後の話である。 学校が始まってみると, 随分新顔がみえる。 通っていた学校が焼けて転校して来た子たちである。 寺島誠三 (後の尾上梅幸) 戸板康二 (後の劇評家) などがその仲間である。  その頃の駐日フランス大使は作家ポール・クローデル (1868−1955) さんだった。 駐日大使の時代 (1921−1927) は関東大震災もあり, 東京は一面焼け野原ではあったが, 焼けなかった皇居周辺を散歩道として, 美しい詩を作っている。 元来この人は Brangues の城主でもあり, キャリアーの外交官でもあったから, その挙措は大変洗練されたものであった。 父の患者さんだったので, 自宅にも度々診察にみえた。 それ故お見かけする機会は多く, その印象は暁星の修道士さんとは違ったしゃれたフランスの雰囲気を漂わしていた。 東京在任中の作品は 「女とその影」 「繻子の靴」 くらいだが, 大使としてたびたび暁星を訪問して (写真) 職員との交流にも努めた。  しかし暁星側から大使に匹敵する人材が少なく, 同窓生総代として山本信次郎海軍少将などが出席しているのはさびしい。 山本少将は昭和天皇のフランス語の先生で, 語学の点ではよいがやはり軍人で文化人とは言い難い。

(6) 小学生の遊び:Chasseurs という遊びが暁星の小学生の間で流行っていた。 一種の鬼ごっこで, 狩人 (chasseurs) はゴムマリを獲物にぶつけ, 相手が手で受け損ねると, 狩人の獲物 (pris プリ) になる。 Pris は Chasseur の手下として働く。 Chasseur や Pris の見分けは帽子を後ろ前に被る。 暁星の小学の帽子は金筋が 1 本入っていてよく目立つ。 (写真) 子供たちはシャッセリなどと訛って呼んでいたが, プリの方は訛らずプリであった。  暑くなると雨天体操場 (Preauプレオー) (写真) の中でビー玉遊び (les billes) が始まる。 暁星のビー玉はガラスでなく, ガラスより小型で, 土に染料を混ぜて焼き, 瑪瑙に似せた物を会計 (売店) でムッシューが売っていた。 靴の踵を使って掘った浅い穴に敵味方のビー玉を入れ, 自分のビー玉を使って, 敵のビー玉を穴の外に描いてある円から外に弾き飛ばせば所有権が移って敵のビー玉は自分のものになる。 はじき出すのがうまい子は10分の休憩時間でも結構ビー玉を増やすことの出来る小ばくちである。  暁星小学では運動場は狭いので, 小学 1 〜 2 年生, 3 〜 4 年生, 5 〜 6 年生と分けていた。 5 , 6 年になると Chasseur とかビー玉遊びでは飽きたらず, どうしても野球とかサッカーなどがしたくなる。 狭い運動場を三角ベースで遊ぶ時, ホームベースの位置が具合のよい場所は限られて居るので, 取り合いが激しい。 その数カ所のホームベースの所に丸が描いてあって, バットはそこしか振ってはいけなかった。 元来フランスのムッシューたちは、野球はアメリカの遊びといって, 嫌っていたから, ある時バットに当たって怪我人が出た時は暫く, 野球は禁止されてしまった。 フランス人はアメリカのものを毛嫌いする癖があることを初めて知った。 しかし, ムッシュー達の中にはアメリカの人達も居て, 密かに野球好きの子供達に応援していた。  これに対してサッカー (本式のボールは使えずゴムの大型ボールで ballon バロンと呼んでいた。 これでもフィリップ・トルシエ監督が子供の時に蹴っていた自家製ボールよりはましなものだった。) はフランス人の好きなスポーツなので, 積極的に奨励され, ムッシューたちがチームのメンバーとして加わる事さえあったのである。 ヘグリ (平群) ムッシューなどはよくいっしょになってバロンを蹴っていたように思う。 平群先生 (写真) は1920年来日, 一度引退してフランスに帰られたが, もう誰も知った人が残っていず, 浦島になってしまったので, これなら日本の方が、友達が多いと再び来日され, あと数日で100歳という所まで長生きされた。 卒業生の顔と名前の記憶はすばらしく, 日本語のしゃれもうまかった。

(7)暁星のフランス語教育:肝心の暁星のフランス語教育について語るのが後になってしまった。 小学 1 年生からフランス語の時間があって, さぞや卒業生は、フランス語はペラペラと思う人は多いが, 現存する私の同級生でもそんな人はいない。 もとはフランス人のムッシューが大勢居られた, 私たちより前に卒業したクラスではフランス語の時間は一切日本語なしだったので, 達者なフランス語をしゃべる方が多かった。 後年, 私が日仏会館の評議会に出席するようになると, 暁星の先輩の山路鎮夫さん (もと大蔵省) がよどみないフランス語で数字を読み上げたり, 同じく先輩の橋本実斐さん (もと宮内省式部官) のフランス語の敬語 (丁寧な言い回し) に敬服した。 私たちのクラス ( 1933年卒業) ではもうこのような語学の達人はいなくなっていた。 その代わりフランス語で旧制高校の入学試験を突破した人, つまり受験仏語の大家はクラスの半数くらいはいたのではなかろうか。 受験英語の大家は必ずしも英会話が旨いとは限らないように, フランス語の動詞の変化がすらすらと口をついて出て来ても, 会話は無理である。  これはフランス文法ばかり教えて, フランス語の会話の時間もなく, また会話が多い教科書などは選ばれていなかったせいもある。 私なども中学 5 年生になって, パリ生まれのガヴァルタ・ムッシューから Anatole France の Livre de Mon Ami (アナトール・フランス著 「我が友の書」) を習って初めて美しいフランス語に接した思いがあった。 (それまではアルザスの訛りのあるフランス語を標準語と思っていたのである。)  それではあれだけ大勢のムッシューたちがいても, 私たちは何も得る所はなかったのかというとそうではない。 外人の, 或いはフランス人の挙措動作を知ったことも大きな収穫である。 たとえば 「おなら」 や 「大きな音をたてて鼻をかむ」 ことはそれほど失礼ではない。 ムッシューたちはズボンのお尻のポケットからムショワール (大型のハンケチ) を出して, 片手で驚くほど大きな音をたてて鼻をかむ。 これに対して 「クシャミ, ゲップ」 などは相手に対し失礼なことなのである。 後に浪人時代にカンドー神父からフランス人の物の考え方を習ったのも勿論大きな収穫だったが, こういった語学以外の外人と日本人との違いを知る機会は日本の学校では先ず皆無なのである。



(8)生徒のいたずら:・いたずらその 1  大雪の降った日だった。 お昼頃ムッシューたちはお御堂でのお祈りをすませて, 狭い坂道を本館の方へ登ってくる。 それをめがけて大きな雪の玉をゴロゴロと転がす。 狭い道で避けようもなく, 大きなお腹を抱えて転倒するのでなかなか起きあがれない。  ・いたずらその 2  ムッシューたちの昼食には赤葡萄酒の瓶が並んでいる。 これをある時盗み飲みをした。 瓶が空なので, すぐに気づかれ, 頬を染めている犯人はすべて捕まってしまった。  ・いたずらその 3  ムッシューが入ってくるドアの上に水の入った金物の湯飲みコップが仕掛けられた。 ムッシューは入って来たが, 水はかからなかった。 犯人探しは難しく結局うやむやに終わった。  ・いたずらその 4  教卓の脚と床との間の僅かな隙間に硫化水素が入っているカプセルを入れる。 教卓に体重をかける癖のあるムッシューが教卓に手をつき体重が教卓の脚にかかると, カプセルが潰れて臭い匂いが漂い始める。 生徒は余り口を開かずに誰が言っているかわからないように 「おならした, おならした」 とはやす。 しかし 「おなら」 は、フランス人は生理現象と考えているので, 一向に困らない。 このいたずらは失敗に終わった。

(9) 卒業生の行方:暁星の卒業生には歌舞伎俳優が多い。 これはパリのオペラ座などの俳優は国家公務員で尊敬すべき地位にあるから, 歌舞伎俳優にも同様の尊敬が払われたのである。 稽古などの関係で, 早引け, 遅刻も大目にみられ, 私のクラスの梅幸なども低空飛行はしても落第は免れていた。 海外公演が多くなった歌舞伎界で暁星の卒業生は国際感覚が優れているといわれているのはよいことだ。  外交官にも卒業生はかなり多い。 この人達の父兄もまた外交官だった人が多いので, 妙に威張らない点が買われている。 亡くなった国連大使の松井明さんなどは外交官 2 世で幼い時からフランスの学校で学んでいた。 ヘグリ先生が渡日前初めて日本人に会ったのは松井さんだったので, これなら日本に行ってもフランス語が通じるから何の心配もないと思ったところが, 実際来日してみると, フランス語のわかる日本人などはほんとうに 「暁の星」 のように少ないので驚いたそうである。  卒業生に案外少ないのはフランス文学者である。 先に述べた暁星のフランス語教育の方針で, 優れたフランス文学を教科書に取りいれなかった事が祟って, フランス文学など少しも知らずに卒業してしまう始末である。 東大仏文の教授だった渡辺一夫先生 (1926年卒) などそれこそ暁の星のような希有の存在である。  もう一つ私が合点のいかないのは国際的にも重要な人物をどういうわけか同窓会名簿から削ってしまうことである。 廖承志さん (1926年卒) は日中友好協会の会長さんとして近年の日中関係に欠くことの出来ない人物である。 この人の父君は孫文の四天王の一人, 廖仲トで, その長男として日本で生まれ, 暁星小学・中学に学び, 早稲田大学に進学している, れっきとした暁星の卒業生である。 後, 毛沢東に従って延安からの長征にも加わっている。 もしそれが同窓会名簿に載せられていない原因とすれば, あまりに国際感覚に欠けた処置である。 暁星の先輩にはこういう豪傑もいたことは後輩にも知っていて欲しいと思う。 数年前, 私のクラスの串田孫一君が銀座で開かれていたある絵の展覧会に行った。 勧められるままにお茶を飲んでいると, 相客の一人が座に加わった。 名刺には廖承志とあったが, あまりにもきれいな江戸弁だったので, 「中国の方ですか」 とも聞かずに, 終始絵の話しをしていたという。 私があの人は暁星で串田君には従兄に当たる松井明さんの同級生だというと大変驚いていた。  暁星の卒業生に少ないのは科学者である。 これは文部省がフランスの科学の独創性に富む事を知らず, フランス語を第一語学とする高校理科を軽視したからであろう。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 3 章 大 高 時 代 (1934−1937年)
(1)大阪へ行った理由:  1934年からの 3 年間, 大阪高校在学の時代は私の一生のうちでも特異な時期である。 東京で生まれ東京で育った人間が初めて一人で関西へ行き, それまで全く知らなかった, 東京人とは気質の異なる関西人の間で暮らし, 生まれてから20年間持ち続けて来た私の性格のバックボーンになっている 「東京ッ子」 が関西では何の役にも立たず, むしろ邪魔にさえ感じられる 3 年間であった。  何故高校は大阪を選んだのかそれは簡単な理由である。 前章にも触れたが, 当時フランス語を第一外国語として入学試験を受けられる高校の理科は東京高校 (定員 5 名) と大阪高校 (定員30名) の 2 クラスの理科丙類だけであった。 しかも東京高校は 7 年制の高校で, もしその年に尋常科から理科丙類に進学したい学生がいると, 定員はその人数だけ減るので不安定である。 大阪高校には尋常科がないから毎年30名の定員を入学させているので, 安定した定員を採用する高校を選んだに過ぎない。  勿論, 東京高校を選んだ方がよいという兄の意見などもあった。 兄は医学部入学を勧める父の意見に逆らって, 父の外遊している留守に山形高校の文科に入ってしまった。 しかし, 兄は当時の山形高校の全寮制度に耐えられず, 寮を 1 年で逃げ出して 2 学年からは父のお弟子さんのお医者さんの家に寄宿し, 1 月100円の豪勢な生活を送った前歴があるので, 私も寮から逃げ出すものと考えていたが, 私は結局 3 年間寮にいて牢名主ならぬ寮名主になった。

(2)関西弁はわからない:私は寄宿舎中央の西中寮に入れられ, 岸和田出身の穏和な巨人村田君と同室になった。 この寮だけの歓迎コンパをするので, 4 月のある日先輩から 「かんてきをかってこい」 といわれた。 あいにく村田君は留守で訊ねる相手が居らず, 何のことかサッパリわからない。 「かんてきって何や?」 と覚えたての関西弁で隣室の 2 年生に聞いたら, 側にあった七輪を指して 「かんてき」 も知らんのか, という。 それは七輪だと思ったが, 争っても仕方ないので, どこで売ってる?と訊いたら, 近所の店を教えてくれた。 買ってきた真っさらの七輪を寮の先輩のところへ持って行ったら, 「なんや, こうてきたのか?」 と困った奴だという顔をされた。 借りてはかって, 買ってはこうてということを知らなかったばかりにとんだ散財をさせられた。 こうてきた新しい七輪はその後 3 年間の私の寮生活の重要な料理道具になった。  それから数月後, 軍事教練の後で教官から 「銃をなおしておけ」 といわれ, 「どこもこわれていません」 といったら, 「あほやなー」 と叱られた。 「なおす」 は 「片づける」 ことだと余程後になってわかったことである。   5 月ごろ, ようやく親しくなった 2 , 3 の同級生に誘われ, 「関東だき」 を食べに出かけた。 私が関東生まれだから, そろそろ関西風の寮の食事に飽きたろうという親切からでた話しなのである。 心斎橋のとある店に入って出された 「関東だき」 はまさに 「おでん」 なのだが, 鮹の足だけがいやに威張っている。 関東の料理だから遠慮せず, 「おかわり」 をといわれたが, 鮹の足だけは遠慮した。 明石の鮹がいつの間に関東の特産物になったのだろうか。 この時代にはまだお好み焼きは関西でも流行っていなかったので, コンパの時も, あるいは寮生の外食パーティの時にも出て来なかった。

(3)高校生の風俗:弊衣破帽は昔の高校生のシンボルと考え勝ちだが, 大阪高校の帽子は白線が 2 本巻いて高校スタイルである。 大阪のそのころの中学生も同じような帽子を被っていたから, 白線 2 本でも優越感に乏しく, 大阪人は物持ちがよいからわざわざ帽子を破る者もいなかった。 その点制服も同じでそんなに 「むさぐるしい」 というほどの人もいなかった。 大都会, 大阪の高校生らしく, 一応サッパリした格好をしていた。 朴歯の下駄は, 俺は高校生だとデモる時はわざと履いたが, 東京から来てホテルに泊まっている父を訪ねる時などは靴だった。 足駄ではホテルの入り口で脱がされるからである。 その点マントと腰の手ぬぐいだけは他の高校生同様, 防寒具やハンカチとしては重宝に使った。 朴歯の下駄で槍ヶ岳に登れるか賭けをして, 私が証人となり, 同級の一人がとうとう登りおおせたこともあった。 その時同行した私は登山靴だった。 下駄では自信がない。  要するに大阪は大都会だけに極端な異装は嫌って中庸をえていたが, 大阪人は学生より丁稚小僧の方に親しみをもつだけに高校生らしい服装はもてなかったのである。 幕末の大阪にはすぐにはお金儲けに役立たない緒方洪庵の蘭学塾があり, そこには入り切れないほど大勢の塾生が集まったことは時代の要求だったのであろうが, しかし塾長には実学を尊ぶ福沢諭吉がなっていて, 合点がいくような気がする。

  (4)その頃の写真:写真はクラスのコンパの風景である。 中央はクラスの担当教官であるフランス語の桑原武夫教授で, 教授は理丙の学生は将来フランス語を専攻する者はいなかったから, 役不足を嘆いて始終機嫌が悪かった。 コンパはいつもすき焼きで味は関西風のあっさりした味付けで, 東京のように甘すぎず, よい味だった。 一次会が終わると, 心斎橋筋に押し出すが, 別にストームというほどの乱暴もせず, 二次会を開く金もなく, 歩き疲れて住吉区の寮に帰り着く頃には門限が過ぎて閉じられた門を乗り越えることになる。  時に運悪く門の下で待ち伏せている生徒主事に掴まる学生もいるが, 寮は自治寮なので点呼もないから, 証拠不十分でお咎めもない。  全寮生の遠足ではどういう訳かこういう場合に大太鼓が持ち出され, 寮歌高唱の伴奏に使われる。 この太鼓がないと全寮の催しは気勢があがらないのである。  弓道部は和服を着る人が多かったが, 私はあまり着なかった。 大体弓を射ることのようなジッと耐えるスポーツに私は向いていないので, 弓は上手にはならなかった。 2 年生の春, 姫路高校に遠征した帰りに高熱を発して入院して以来ほとんど弓を引いたことがない。 病気は校医に腸チフスと誤診されて, 重体になり, 阪大病院に入り, ようやくウイルス性の肺炎とわかった。 退院後しばらく芦屋の従兄の仁田勇の家で静養したので, 1 学期の試験は受けられず, 3 年にあがれるかどうかで苦戦するはめになった。  この従兄は当時は阪大理学部の結晶学の教授だった。 私の学費と生活費は私が浪費しないよう, 兄の入れ智恵で, 父がこの従兄に送金したので, 私は毎月 1 回中之島の阪大理学部に取りに行くことになった。 この日は大抵昼食を鰻屋でご馳走してくれるので, 私は大変楽しみにしていた。 しかし, この大病の後, 私の学費も生活費も祖父から分けて貰った私名義の預金から出ることになり, 鰻の楽しみも無くなってしまった。 私は大学を卒業するまでこの預金を使うことになり, 父から小遣いを貰うことも無くなり, 自分でへそくりを作っては旅行の費用などに充てていた。 例の槍ヶ岳登山などはこのお金で冒険をしたわけである。  仁田の従兄もその同僚の教授たちもその頃は皆若く新進気鋭の方々で, 冬の寒い日に六甲山中の池にスケートに行ってみると, 当時の先端科学の錚々たるメンバーの阪大の先生方, たとえば菊池正士, 呉祐吉先生など大勢が滑っておられた。  私は同じ寮に 2 年以後も入っている同級生で神戸一中卒業の中村君と親しくなり, 彼の案内で芦屋のロックガーデンから寒天小屋を経て仁川に出るハイキングコースに行ったり, 中村君は宝塚歌劇が好きなので, 期末試験の終わった日など, まず阪急デパートの食堂で 1 円のライスカレーと無料のご飯のお代わりを食べてから, 宝塚を見に行くのが例だった。 中村君の家は宝塚から近いので, 彼は歌劇団の通だった。 彼から阪神間の関西弁を習ったので私の関西弁もややローカルな趣を呈するようになってきた。

(5)台風と水害:近年の大阪を襲った大災害といえば阪神大地震であるが, 大阪の被害は少なく, 神戸と芦屋, 西宮あたりが大きな被害を受け, 中村君の家などにも被害が及んでいる。 しかしここで述べようとするのは, 高校 1 年の夏 (1934年) の室戸台風と, 高校卒業後ではあるが, 丁度阪神間の岡本にいた時に遭遇した六甲の鉄砲水の水害 (1938年) である。  室戸台風は朝方に大阪を襲い, 学生はまだ登校していなかった。 風が強く寮の建物は木造だから危険なので, 鉄筋で安全な校舎に避難した。 ここは頑丈な建物だから, 高みの見物が出来た。 高校の周囲には瓦葺きの 2 階建てが多かったが, 屋根という屋根から面白いように瓦が剥がれて, 飛んでいく。 そのうちに今まで見えていた四天王寺の五重塔が見えなくなった。 見事に崩壊したのである。  吹き荒れた風が収まった時, 誰いうとなく, 桑原教授の家が潰れたという。 寮生が何人か行ってみると, 幸い教授夫妻は無事だが, 家はペシャンコに潰れていた。 教授は財布が潰れた家の中にあるので, 金を貸してくれ, といわれた。 先生にお金を貸すのはこんな時しかないというので, 寮生がカンパして, 取りあえず餡パンか何かを買ってあげたのを覚えている。 幸い学校の被害は弓道場がペシャンコになったほかはなかった。  阪神間の水害は一番ひどく鉄砲水に洗われた阪急岡本の駅近くの従弟のアパートにいたが, 家は無事だが芦屋の仁田の従兄の家の安否を気遣って, 国鉄の線路沿いに歩き出した。 (写真)  ところが, まだ至る所に人の手や足が泥の中からニュッと突き出ている有様で, 芦屋まで到底行けず, スコップもないから救出作業も出来ず, 呆然としたままだった。 この時の鉄砲水の描写は谷崎潤一郎の 「細雪」 にも出ているが, もの凄いものだった。

(6)スキー:白馬の八方尾根は長野オリンピック以来滑降やジャンプの名所になっている。 麓の細野から八方尾根にとりついた所に大阪高校の山小屋があった。 八方尾根がまだ有名にならない時だから, ここまで来ると, スキーヤーも少なく, すばらしい処女雪のゲレンデである。 今のように固く雪を踏み固めたゲレンデではなく, 粉雪の中に自分のシュプールを描くことを念願としていた私たち向きの場所であった。 この小屋に泊まって翌朝, 第三ケルンまで新雪をラッセルしてのぼり, そこから滑り降りるのがほんとうに楽しみだった。  天候に恵まれないと, 麓の細野の民宿で待機することになる。 ここの民宿はただの農家でトイレには大きな桶が幾つか並びその上に 2 枚の板が渡してあり, 所々に天井から荒縄が下がっている。 昼でも薄暗く, 足元がおぼつかないので, ついこの縄に掴まりたくなる。 実はこの縄は用が済んだとき, 紙の代わりにお尻を拭くためのものである。 初めての学生が失敗するまで, 先輩はそのことを教えてくれないので, 大抵の初心者が縄に懸命に掴まりながら用を足すことになる。 このトイレはこんな失敗の場所だけでなく, 思わぬ光景にぶつかる場所でもあった。 それは年によって宝塚の生徒と同宿になり, 薄くらい中で, 丸いお尻を拝見する機会に恵まれてスキーが病みつきになった人もいる。

(7)2. 26事変:学期試験の最中の1936年の 2 月末, ラジオ放送は東京で陸軍の一部が Coup d'Etat を起こしたと伝えた。 大阪は平穏だが東京の様子はラジオのニュースでしか知るすべはないので, さっぱり試験勉強に身がいらない。 私達は試験が延期にでもなるかと期待していたが, 一向にその気配もなく, すんでしまった。 試験はどうやら合格し進級はしたが, 翌年春の東大医学部の入試には見事失敗して, 再び浪人する羽目になった。

(8) 13回理科丙類の卒業生その後:この年の理科丙類31名の卒業生のうち, はっきり戦死と分かっている者は 6 名 (1/5) である。 21世紀まで生き残ったものは 5 名 (1/6) に過ぎない。 卒業後の進路は工業方面と医師になった人が多く, フランス語を卒業後も役立てた人は私 1 人だけである。 だから, 理科丙類はいらないというわけでもあるまいが, 現在は存在しない学科である。  理科丙類は存在価値が少なかったが, 他の高校にあった文科丙類の卒業生は結構フランス語を役立てて, 各方面に活躍している。 これはフランスの科学が弱くて, 文化方面に強いからではなく, 日本の科学者がフランスの科学の長所を知らないからであろう。 私の父, 三浦謹之助は医学部卒業後 3 年で1889年に有栖川宮のお供でパリに行く機会に恵まれた。  御用の合間に出来立ての研究所にパストウルを訪ねたり, 当時世界一の神経病学者といわれたシャルコーを訪ねたりしているが, どこでも日本の若い医者を同輩のように扱うフランスの学者に憧れ, ついにフランス医学の虜になってしまったのである。  大阪高校の理科丙類に学んだ人達もフランスの科学のわが国に於ける啓蒙の一助に "La Science" という雑誌を1931年から1940年にかけて毎年 2 冊ずつ発行していたが, 太平洋戦争が始まって中止するに至った。
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