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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 78 (4) :141-191, 2002

原著
コメディカル教育機関に対して実施する解剖実習見学方法改訂の 1 例
 川端由香 松野義晴 門田朋子 小宮山政敏 豊田直二 森 千里
 
千葉県こども病院における小児外科救急医療の現状と展望
 佐藤嘉治 江東孝夫 岩井 潤 東本恭幸

下顎智歯抜歯後における簡易冷罨法の効果
 高橋喜久雄 坂口輝子 池谷幸子 中村春美 湊真理子

エッセイ
 私の20世紀
  三浦義彰
第 4 章 東大医学部時代 (1938−1941年)
第 5 章 軍務に服して (1942−1945年)
第 6 章 敗戦で軍務を離れる
 
らいぶらりい
消化器癌の Stage と術式選択 : 食道癌ならびに肝門部胆管癌
 宮崎 勝

学会
第1038回千葉医学会例会・平成13年度千葉大学大学院医学研究院胸部外科学・基礎病理学例会
第1039回千葉医学会例会・第24回千葉大学大学院循環病態医科学・第三内科懇話会

編集後記

 
   
  コメディカル教育機関に対して実施する解剖実習見学方法改訂の 1 例
川端由香 松野義晴 門田朋子 小宮山政敏 豊田直二 森 千里
千葉大学大学院医学研究院環境生命医学


コメディカル教育機関では 「解剖学」 は重要な基礎教科であり, 多くの機関で解剖実習見学を行っている。 本学でも見学を許可してきたが, 平成12年 「死体解剖資格認定要領」 改正に伴う指導講師の解剖資格の有無, 医学部の実習時間外の見学による負担増, 見学の目的を確認していないといった問題があった。 これについて平成12年 5 月に, 11年度の見学実施団体および12年度の見学希望団体に対し, 解剖学の必要性, 見学希望時間などについてアンケート調査を行い, その回答をもとに新しい見学方法を試み, 結果を評価した。  新しい実習見学方法は平成12年 6 月に来学した25団体に対して実施した。 見学時間を含めて90分間とし, 事前説明を行った後, 見学を実施した。 見学では, 本学教官の指導に加え, スタッフ, 見学団体講師, 医学部生が補佐を行った。 後日, 自由記入形式で調査した結果, 18団体より回答 (回収率68.0%) が得られた。  事前説明については 「動機付けになった」 「献体への理解が深まった」 という感想が11団体からあった。 事前説明によって見学がより効果的になったと思われる。 適当な見学の時間数について質問したところ, 「90分」 と回答したのが10団体, 「 2 時間」 が 5 団体, 他 「時間が短い」 が 2 団体であった。 従って, 時間数はほぼ適当と思われる。 内容については 「医学生による指導に感謝」 と回答したのが 8 団体, 「講師紹介が必要」 が 3 団体であった。 諸問題に対する解決策として今回の改訂を実施したが, これに関してはほぼ改善することが出来たと思われる。 さらに内容を充実させるためには指摘された点についても配慮していきたいと考えている。
 
   
  千葉県こども病院における小児外科救急医療の現状と展望
佐藤嘉治 江東孝夫 岩井 潤 東本恭幸  千葉県こども病院 外科


当院は小児の高度専門医療施設として1988年に開院し, 近年, 小児救急医療の充実が望まれている。 そこで, 小児 3 次医療施設としての当院の今後の方向性を示すため小児外科救急医療の現状を分析した。 1988年10月から2000年12月における外科の全入院患者数は4,649例で, そのうち緊急入院は1,304例 (28%) を占めた。 小児人口の減少にも関わらず, 患者数は増加傾向を示した。 搬送元の医療圏は, 当院の位置する千葉医療圏が29%, 近接 4 医療圏 (東葛南部, 印旛・山武, 市原・長生・夷隅, 香取・海匝) が59%, 茨城県南東部 (鹿島・行方) が 4 %, それ以外は 3 %以下であった。 紹介元は, 当院から半径50km以内の医療圏からは開業医と基幹病院からの紹介の割合がほぼ同じであったが, それより遠方では90%以上が基幹病院から紹介されていた。 緊急入院患者の742例 (57%) に手術を要し, 年齢別にみると新生児・乳児での手術施行率が75%前後と最も高かった。 また, 24時間以内に手術を要したのは1,304例中279例 (21%) で, 特に新生児では331例中106名 (32%) と最も多かった。 以上の結果より, 当院は千葉県から茨城南東部など広範囲の 2 次及び 3 次救急の役割を担っており, 今後ますますその重要性が高まると思われ, 病診・病病連携の強化が望まれる。 特に新生児・乳児では緊急の対応を要する症例が多く, 十分な対応のためにもマンパワーや PICU・NICU 病床の充実が必要と思われた。
 
   
  下顎智歯抜歯後における簡易冷罨法の効果
高橋喜久雄 坂口輝子 池谷幸子 中村春美 湊真理子 社会保険船橋中央病院 歯科口腔外科


埋伏した下顎智歯を抜歯した後は, 浮腫, 疼痛, 開口障害が通常みられる。 われわれは下顎智歯抜歯患者111名に対して簡易冷罨法の効果を対照群 (n=118) と比較して検討した。 冷罨法の材料はパックし冷凍したポリジクロロナトリウムで, 抜歯直後に顔面皮膚に適応した。 主な結果は以下の如くである。 1 ) 冷罨法実施群と非実施群では, 術後の体温, 腫張度, 開口度, 鎮痛剤の服薬回数に統計的な有意差は見られなかった。 2 ) 術後の疼痛と開口障害感は患者の自覚的な評価として Visual Analog Scale を用いておこなったが, このような主観的評価では, いずれも冷罨法群が良好な結果を示した。 3 ) 冷罨法の適応に対して心地よさを感じた割合は74.8%であった。 4 ) 2 群において, 冷罨法による治癒促進効果や合併症の発現頻度に差は認められなかった。
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 4 章 東大医学部時代 (1938−1941年)一浪して1938年 4 月に入学, 1941年12月に日米間の戦争勃発のため 3 ヶ月繰り上げ12月卒業の 3 年 9 ヶ月間である。 この間, 私は今考えて見るとまともに医学を勉強していない。 いつでも医学以外の読書に気をとられ, 余暇はテニス, 映画, 音楽会, スキー, 山登りというような遊びを友人と楽しんでいた。 何故こんなに落ち着きなく遊んでいたかといえばその時代の風潮として, 卒業すれば軍務に付かざるをえないことがいつでも意識下にあって, 学問も恋愛も戦死で跡形もなく消滅してしまうと考えていたからである。  ジレッタント的な生き方だから 「冬夏」 という同人雑誌に熱を入れたり, この 4 年の間に 「パストウル傳」 だの, 「文久航海記」 など単行本の完成に多くの時間を費やしている。 それをあほっていたのは, 暁星時代の同級生の串田孫一君, あるいは, 皮膚科の太田正雄教授 (筆名木下杢太郎先生) などである。 それでは医学生時代にあまり医学を勉強しなかったことを, 今は悔やんでいるかというと, そうではなくて, あの大戦前夜の嵐のような時代によい夢を見させて貰ったことを感謝している。 軍務に服してから, 私も人並みに弾雨の下を潜ったが幸い戦死も戦傷も受けずに, 無事帰還してみると, この 4 年間には医学以外の貴重な勉強をしたことが後の生涯のバックボーン形成に貢献していると私は確信している。

(1) 学業について
 医学部の最初の 1 年は何と言っても解剖実習が 「目玉」 である。 フォルマリン漬けになっている死体を最初は素手で触るのも気味が悪く, ゴム手袋などをはめて先生から怒られたりしていたのが, 半年の実習の終わる頃には, 平気で素手で臓物を掴んでいる。 こうして素人がだんだん医者臭く育て上げられて行くのだった。  最初に外来患者を診察するのも医学生にとっては大きな体験である。 殊に東大病院は全国から診断が難しい患者さんが最後の診断を求めて集まってくる。 あの頃, ハンセン病〈らい病〉は伝染する不治の病と考えられ, 診断が決定すれば患者は強制的に隔離された。 それゆえ, 東大病院の診断は患者のみならず, 一家の運命を左右するものだった。 付き添いに村長さん, 村の駐在さんなどがゾロゾロ付いて来るので, 察しのよい医者はゴム手袋をはめて診察するが, 駆け出しの学生は疑いもせず, 素手で診察をすませ, 後で手を消毒液の中でいつまでも洗うことになる。 私も暗い予診室で斑紋を見落し, 明るい教授診察室で明らかなハンセン病特有の斑紋を見付けて慌てたこともあった。  患者さんを学生に振り分けるのは, 父の時代から勤めていた古参の小使さんで, 習わぬ経を読む能力があり, 私などは子供扱いで, 「坊ちゃん, あの患者さんは診断が楽だよ, 黄疸がある。」 などと診断の易しい患者さんを割り当ててくれていた。  ばかばかしい講義もあった。 「寒暖計は温度を測る器具で…」 と分かり切ったことをドイツ語まじりで講義する教授もいた。 私は高校でドイツ語を習わなかったので, 分からない言葉はカナでノートして, 帰宅してから独和辞典を見るのだった。 ある時, 郡山出身の教授が, 「ジーニー」 という言葉を使った。 ドイツ語辞典には無くて, 同じ福島出身の父に尋ねたら, 「牛乳のことだよ。」 と笑われた。 患者さんの前ではドイツ語で病状を述べる習慣だったが, 私は時々日本語で言って外科の教授から大変叱られた。  1941年の 8 月には戦争必至というので, 卒業が 3 月早くなり, 戦地で直ぐに役立つことばかり教えられた。 例えば, ピンセット一本で痛む虫歯を抜く方法などである。 戦闘の最中は, 軍医は瀕死の患者の手当は後回しにして, 手当をすれば再び戦力になる戦傷者をまず手当することだ, と教えられた。 しかし, 教授が全部このような先生たちばかりではなかった。 太田教授は私が南方の戦地に行くことになったとご挨拶に行くと, 医学書の代わりに 「南方日本人町の研究」 と言う本を持って行けと言われた。 行ってみると現地には倭寇の遺跡が多く, この本は本当によい参考になった。

(2) ものを書くこと
 医学部に入学した頃から暁星の先輩だった桶谷繁雄さんが訳していたパストウル傳の医学関係の部分を訳し, 緒方富雄助教授の校閲を経ることを頼まれた。 緒方先生の校閲がかなり厳しく, 勉強にはなった。 戦後, 緒方先生が 「医学のあゆみ」 という雑誌を創刊された時に編集委員の一人として参加させて頂いたのも, この縁からである。  私の外祖父, 三宅秀は1938年の 3 月16日に急性肺炎のため90歳で亡くなっている。 もう10日生きていてくれれば医学部入学の知らせを伝えられたのに残念である。 しかし, このことが 4 年後に私の書いた最初の単行本の 「文久航海記」 という祖父の青年時代のことを書いた本の発行に繋がっている。  それは叔父, 三宅鉱一が祖父の遺品の片づけを医学の知識があり, かつ暇もある私に命じたからで, 医学部の学生時代にポツポツ片づけ, その中から面白そうな材料を 「冬夏」 という同人雑誌に発表していたものを纏めたのがこの本である。 それゆえ 「冬夏」 こそ本の発行に重要なきっかけを作った媒体であった。  それでは 「冬夏」 はどうして生まれてきたのか。 これは串田孫一君の父君, 串田萬蔵氏のお通夜が発端だった。 この方は三菱銀行の頭取を永年勤められた方だったが, 晩年まだ医学生に過ぎない私を大変信用して, 他の医者のいうことはあまり聞かれなかった。 1939年の 9 月に亡くなられ, お宅でお通夜があった。 大邸宅だったから, 金融関係の方々の集まった部屋もあれば, 孫一君やその叔父さんの実業家で文筆家の今村信吉さん, あるいは女優の森律子さんなど集まった部屋もあり, この部屋で今村さんを中心に獣帯叢書という本の発刊が企画された。 私も誘われたが, この時は断った覚えがある。 けれども翌年の 5 月, 今度は 「冬夏, とうげ」 と言う同人雑誌を出すからといって, 同人になることを勧められ, この時は断り切れなかった。  間もなく 7 月に赤坂山王の山の茶屋で 「冬夏」 の同人の会があった。 今村さんを始め, 串田君の従妹の斎藤友子さん, 暁星同級の中川幸永 (画家), 戸板康二, 初対面の矢内原伊作 (後に同人に加わった同級の都河敏郎の友人) などの人々が集まり気勢をあげた。 集まりで気勢を上げたまではいいが, 私には毎月10枚の原稿がなかなか書けず, 文久航海記の原稿を取りあえず 「冬夏」 に回したところ, 案外に好評であった。 そのような訳で, 冬夏の原稿を書けば, 自然に文久航海記が出来て来るので具合が好かったのである。 文久航海記は全く 「冬夏」 のお陰で出来たと言ってもよいのである。 執筆者は他に諏訪沙吉, 秋永芳郎, 尾崎喜八, 山崎正一, 大草実 (颯田鉄男) などの名が見られる。   「冬夏」 は 2 年続き, 鴎外特集号などは大変評判がよかったが, やがて紙の統制が始まり, 「科学人」 と言う大草実の持っていた雑誌に500円で権利を売ってしまった。  太田正雄先生は仏文の後藤末雄先生, 法学部の福井勇二郎助教授, 医学部の颯田琴次教授など数人で本郷 3 丁目にあった 「やぶ蕎麦」 の 2 階に毎週木曜の昼休みに何となく集まる会を開いておられた。 私も1939年の春頃から許されて末席に座っていた。 ただ一人の学生で, 諸先生の気炎を拝聴するだけだったが, 1940年の秋頃から, 太田先生と日仏会館でお目にかかる機会が増え, この年の暮れには, 杢太郎先生の原稿を冬夏に掲載したり, 或いは夜 (午後 8 時以前は太田正雄, 以後は木下杢太郎と区別されていた), 西片のお宅に上がって, 科学以外のお話を伺うことが出来るようになった。  この時間はこの Grand Maitre を私が独り占めにして, 火鉢を囲んでとっくりとお話を聞くことの出来る至福の時間で, ここまでは戦争の足音も全く聞こえて来ないすばらしい夜であった。  この時代の太田先生の興味がジェズイット派の宣教師が書いた日本からの手紙類にあったせいか, しきりと私にポルトガル語を習って, これらの手紙の解読を勧められた。  このお言葉は結局先生の遺言になってしまった。 後に戦争が終わり, 私も海軍から解放され, 東大に戻ってみると杢太郎先生は胃癌の末期の病床に居られ, 面会謝絶だった。  颯田先生が特別に面会の許可を取ってあげると言われたが, 私は遠慮してお目にはかからずに病室の外でお別れしたのであった。

(3) 読書, 映画, 音楽会など
 この時代の私は医学の勉強にも身が入らず, 前述のように物を書くことに追われていたわけだが, その頃一体どんな本を読んでいたのだろうか ? この問題は今から考えれば興味がある。 その頃出版され評判になった本には火野葦平の 「麦と兵隊」, 「キュリー夫人傳」 などがあって, 乱読家の私はこんな本まで読んでいる。 しかし, 当時の私にとって最も興味があったのは, ルネ・マルタン・デユガールの 「チボー家の人々」 (最初は山の内氏訳, 後に原本) であった。 この本の時代設定は第一次世界大戦の前夜でヨーロッパの戦雲は日増しに濃くなりつつあるのに主人公のジャックは女友達と毎日のようにテニスを楽しんでいたのである。 テニスクラブはパリ郊外のサンジェルマン・アン, レである。 (私は後にこのコートで 2 , 3 回テニスをしたことがあるが, 森に囲まれ静かな田園風景の真っただ中にある。) 私達がお茶の水のテニスコートで迫り来る戦争の気配を忘れようとテニスに集中したのとよく似た情景であった。 この小説は開戦後も伏せ字は増えたが次々と発行されて, 主人公が反戦組織に加わって行くのを息を呑んで見守ったのであった。  現実から逃避しようと, むやみと文学書を読んでいた私は, 自分がいつの間にか医学部 4 年生になり, 不勉強のゆえにこのままでは到底卒業試験は受けられないことに気づいた。 戦争でも始まれば試験は無くなると, 戦争開始を祈っていたら現実はなんと私の望んだ通り時局逼迫のため12月卒業, 卒業試験なしと決まり私は自然に送り出されたのである。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 5 章 軍務に服して (1942−1945年)
(1)短現の軍中
1941年12月 8 日には徴兵検査があり, 第一乙種合格だった。 従ってこのままでは, この日から始まった太平洋戦争の真っ直中に, 陸軍に一兵卒で徴兵されること必定である。 それを避けるため, クラスの友人達も身体障害者を除き, 半数は陸軍に, 半数は海軍に軍医としての志願書を提出している。 私も海軍に出した志願書に対し内定の通知が12月の初めには到着していたので, 徴兵官にその旨申告して帰宅した。  私たちの志願した 2 年現役の軍医という制度は, 放置すれば陸軍が医学部卒業生を全部徴兵してしまうので, 海軍が苦し紛れに作った優遇制度である。 軍医だけでなく, 主計, 技術などの人材も確保するため, 大学卒は最初から中尉 (専門学校卒は少尉) に任官させ, 訓練中の理不尽な暴力から守るというのが, 勧誘の目玉になっている。 それでも海軍兵学校出のいわゆるデッキの士官の目からみれば, 新任の軍医はろくに訓練も受けていない, たるんだ連中だから, ガンルーム (軍艦の中で少, 中尉の居室) では 「軍中」 (短期現役の軍医中尉) と呼ばれていた。  海軍軍医志願者の集合日は1942年の 1 月10日であった。 私は軍服を着ていても, まだ敬礼の仕方もよくわからないから, 途中なるべく軍人に会わないよう念じつつ東京駅に到着した。 新米士官が辺りを見回すと, さすがに戦時の東京駅は陸海軍の軍人だらけである。 いちいち敬礼していたら歩けない。 ようやく日比谷公園あたりまでたどり着くと, 全国から数百名も採用した赤い襟章の新米の軍中が集まっていて安心した。 点呼後, そこから千葉県館山の砲術学校に送られ, 軍人としてのマナーやハンモックをうまく畳む方法や敵前上陸の戦闘訓練などを 3 月ほど受けることになった。 教官の下士官達も上官を教えるのは苦手で, 「命によりこれからの訓練中は上官扱いはいたしません」 と前口上を述べてから, 教練を始めるのだった。  ここでの訓練は海軍特有の号令を覚えさせるのも目的の一つかもしれない。 朝は起床ラッパの15分前に 「総員おこし15分前, 吊り床掛, 配置につけ」 の号令が何かくぐもった声で放送される。 就寝前には 「点検終わり, たばこ盆出せ」 の号令があって, それからはようやく自分の時間になる。 軍中たちは改めて号令に追われぬ娑婆の生活を懐かしむのだった。 号令だけでなく, 実施部隊 (戦闘部隊) へ行くと, 兵までが海軍特有の英語紛いの言葉を使う。 元来明治政府は英国海軍を見習って, 日本海軍の制度を作った。 従って士官と下士官, 兵との間には厳重な差別があり, 外出して遊びに行く場所も士官の行く場所と下士官の行く場所は全く違う。 士官は兵にわからないように遊びの場所も小松というレス (レストランのこと) はパインなどという隠語を使っていた。 隠語のほか, 日常語にも海軍には英語が残り, 「軍医長, バスよろし」 (軍医長, 入浴準備が出来て居りますの意。 海軍では軍医長殿とはいわず職名だけを使う。) というし, マッチは火をつける燐寸ではなく, 靴拭きのマットのことである。  館山砲術学校というと大砲の撃ち方でも教える学校かと思うが, 大砲はなく, 専ら陸戦 (陸軍と同じような陸上の戦闘) を教える学校である。 今ではその跡に石碑が立ち, かつてここに学んだ人名が刻まれていて, 私の名も出ている。 週末の外出 (これを海軍では上陸という) は東京は遠すぎてダメなので, 外房の鴨川くらいまでであった。 外房は魚も美味しいが, 東京ではもう買えない甘い菓子もまだ買う事が出来た。   4 月になると築地の海軍軍医学校に移った。 のどかな館山から銀座にも近い築地に移ると, 夜などは周りの料亭から三弦の音も聞こえてくるので, 勉強には身が入らない。 築地での, のんびり気分を一挙に覚ましたのは 4 月18日の東京への最初の空襲だった。 朝一度警戒警報が出たが, 間もなく解除になり, 土曜なので上陸が許され, 帰宅。 翌19日午後日比谷公会堂で新響を聞いている最中に空襲警報発令, 軍服に着替えるために一度帰宅 (海軍では軍務以外の時は平服着用が勧められていた) タクシーで軍医学校に駆けつけた。 この時の米機は航空母艦から発進, 中国に向かったものだったが, これが東京への初空襲であった。   5 月, 6 月は東大医学部の頃と変わらず, つまらない講義の時は密かに他の本を広げていた。 6 月20日, 横鎮長官承命服務という変な辞令を貰い, 田浦の航空技術廠の航空医学の研究所に勤務することに決まった。

(2) 第一次航空技術廠勤務 (1942−1943年)
 ここでの勤務は午前は工員の診察, 午後は航空医学の実験などであったが, だんだん午後の実験が主になってきた。 その頃の単発 (発動機 1 個) の飛行機は操縦席の真ん前に発動機があり, 一酸化炭素を多量に含む排気が操縦席にも入り込む。 そのためパイロットは頭痛に悩まされることが多い。 それゆえ機内のガス濃度を測定して, カタパルト発射の時や宙返りの時は増える等のデータを出さなければならない。 この測定役が私で, 月末にはカタパルト (飛行機を軍艦から発射する装置) の実験を増して, 危険手当を貰い, パイロットと山分けしたこともあった。  実験航空隊は危険な飛行も多いので, 事故も多い。 ある時私が搭乗している飛行機が墜落したという誤報が流れ, 研究所の職員が大勢着陸地点で安否を気遣っていた。 そんな情報は知らず, いつものように私はパイロットの後の席に立ち上がって, 飛行機の taxiing (着陸した飛行機を滑走させて出発点に戻すこと) の指図をして, 職員達の前で航空眼鏡を外したら, 「生きている, 生きている」 と歓声が上がった。 誤報だった祝いにまたカタパルト実験の危険手当が必要になった。  実験航空隊の雰囲気は明るく, 松阪肉を食べに飛行機で出かけたこともあった。 1942年12月24日のことである。 これは一式陸攻という葉巻型の大型機で, 航続距離が長いので中国奥地の爆撃に参加していたが, 着弾すると直ぐ発火するので, 葉巻という別名があった。 この飛行機の消火に炭酸ガスを使用する計画だが, 人体に安全かどうかを調べるのが私の任務だった。 爆撃時は 1 万メートル近い高々度飛行だから乗員は全員酸素マスクを着用しているので安全の筈だが, 念のため実験することになった。  高々度飛行には電熱器のついた航空服が必要になる。 私の借りた航空服は中佐のマークがついているので, 実験が終わって着陸した鈴鹿航空隊では私の乗った自動車に黄色の佐官旗がはためいていた。 いまさら中尉であるとも言えず中佐扱いのまま松阪の牛肉屋に連れていかれ, 床の間の前に座らせられた。 何処かの航空隊の隊長が横須賀から飛行機でわざわざ松阪肉を食べに来たというので, 店では大歓迎である。 翌日また実験をくり返し 3 時鈴鹿に再び着陸, 航空服を脱いでもとの軍中に戻り, 京都大学へ出張した。 中佐から軍中への早変わりは旨くいって見つからなかった。  翌1943年 1 月末, 山梨県に出張中, 海南島へ転勤命令を受け, 1 月31日離京, 任地に向かった。

(3) 海南島での戦地勤務 (1943−1944年)
 海南島は香港やヴェトナムに近い広東省の島で, 台湾とほぼ同じ広さである。 今でこそ中国の南方の観光地として, 道路やホテルなども整備されているが, 当時は小規模の紛争の絶えない戦地である。 戦争が終わってみると東大医学部の同級生も 1 人, ここで戦死している。 軍医にとっては狙われやすい激戦地である。 私の到着した海口は空からみると 5, 6 階建てのビル (もとデパート) が一つだけある, 「都会」 だった。  そのほかの大きな町は南方の司令部の所在地三亜で, 近くに鉄を産出する鉱山がある。 住民は海岸地帯の漢民族のほか, 中央山岳地帯の苗族, 黎族, さらに水上生活を営む蛋民など, 必ずしも広東語の通じる漢民族だけではない。 古くから中国の政治犯 (たとえば蘇東坡など) の流された土地でもあり, 宋慶齢姉妹の生家もあって, 裕福な客家 (ハッカと読む, 大家族制の漢民族で, 海外にも発展する人が多い) の大邸宅もある。 昔は日本の倭寇の侵略も受け, 日本語が彫ってある墓も見つかる。 気候は暑いが, それよりも日本の兵隊を悩ませたのはマラリアと毒蛇 (ハブなど) が多いことである。  私は海口にある第15警備隊付の軍医で, 主な任務は小さな町に散在する分遣隊の巡回診療である。 しかし 2 月半ばから隣接陸戦隊との共同作戦が始まり (写真), 海南島の中央部に隊が移動した。  更に 4 月20日過ぎから連日戦闘が続き, 戦傷者の手当だけでなく戦死者の火葬など軍医学校で習わなかったこともさせられた。 5 月初め部隊の野営地の井戸に赤痢患者の便を投げ込まれ, 一時に多数の赤痢患者が発生, 薬品も尽きたので, 椰子の実の殻から作った活性炭を呑ませたら大変よく効いた。 10日ほどで新患が出なくなったら, 最後に自分が感染。 他に軍医もいないので夜中に装甲車が救出に来て, 海口の病院まで護送された。 6 月になっても体力の回復が充分でないために退院は許されなかった。 ようやく退院しても暫くは海口にいて日々の診療さえしていればよいとのことだったので体はみるみる回復した。  この時期に, 私は忘れていたテニスを始めた。 ある日散歩の途中, 海口の町はずれですばらしいローンコートを見付けた。 緑も鮮やかな芝生で, 専門のボールボーイもいる。 隊に帰って古くからこの町にいる人に訊いてみると, あれは戦前は英国人の海関長の官舎だったが, 今は日本人の海関長で, 原真弓さんという歌人である。 テニスはしないが和歌の指導を乞えば喜んで教えてくれるから, 折をみて 「テニスがしたい」 と言いなさい, と策を授けてくれた。 早速テニス好きの主計長の久世主計大尉を語らって, 入門した。 週に10首短歌の詠草を提出すると間もなく真っ赤に添削されて戻ってくる。  その頃, ちょうど斎藤茂吉先生から慰問の葉書を頂いた。 斎藤先生は叔父三宅鉱一が松沢病院の院長の時代, 副院長をして居られ, 時折叔父の那須の別荘にも来られたから, 私は那須でお目にかかっている。 斎藤先生にお礼の返事を書く時, 「ただ今, 短歌を習っております」 と原先生に添削して頂いた次の歌を添えた。

(高松宮お手植えのレモンに寄せて)
皇神 (すめらぎ) の皇弟 (いろと) の
   皇子 (みこ) の御手植の
  貴 (あて) の黄柑子 (きこうじ)
        今たわわなり
 間もなくお返事があって, 「お歌もなかなか宜しく…」 と先ずお世辞があり, 短歌 3 首が添えられていた。 (写真) うち 2 首は後の茂吉全集に収録されているのと全く同じだが, 次の 1 首は全集では字余りではない。 後に直されたものであろう。 私が頂いたのは即興の書卸しの歌で珍しいものといわれている。

 お手植 (みてうえ) の
   黄柑子 (れもん) の
  木の実 (このみ) たわたわに
   なりたりということぞかしこき

 私あての慰問袋が駿河台女子青年団から届いた時, 原, 斎藤両先生の添削の手が加えられた短歌一首を返信に使ったら, 後に義理の父となった平田栄二 (松堂と号し美術学校教授で当時は専門の日本画よりも川田順と歌会を開くのに熱中していた。) の目に止まり, 後の縁談に発展した。 私は内地に帰還して以来, 戦況が逼迫, 歌どころではなくなった。 しかしこの時期の歌, たとえば次の自作の歌などにはいまだに愛着を覚えている。

 戦いのある日と思えど
  のどかなる秋の一日 (ひとひ) は
    蜻蛉 (あきつ) を追いぬ

 戦地と言う所は一端銃声が途絶えると, もとの静かな田園に戻り, 生死のやりとりがあった場所とは思えないほど静寂に包まれる。 この歌はそのことをうたったものである。  さて最初の目的のテニスだが無事原海関長の許可が出て, 殆ど毎日のように久世大尉と夕方テニスをすることになった。 ボールボーイは惜しげもなく新しいボールを出してくれるので, ドロップショットを打つとローンコート特有のはずみは殆どなく, 見事にボールが沈み, バウンドしない。  あまり私達が熱中するので, 司令や病院長などのシニアの人達まで, ローンでの経験がしてみたく, 海関長宅を訪れた時の写真が残っている。  のどかだった海口も10月の末頃には中国本土 (桂林) から発進するアメリカの飛行機の攻撃を受けるようになった。 それに呼応して, 陸上でも小戦闘が起こり, 分遣隊にも負傷者が出たので, 中断していた分遣隊巡りを再開した。 これは野球と同じで, 海口をホームベースとすると, 分遣隊は 1 塁, 2 塁, 3 塁のような所で, 塁に居る時は安全だが, 一歩でも塁から離れると敵襲を受ける。 従って盗塁するのは夜中とか, 早朝とか敵の目をかすめて, 護衛兵とともにトラックを全速で走らせる危険の多い診療になってしまった。  それでは周りは敵ばかりかというと, そうでもない。 ここの敵は蒋介石軍, 共産軍, 地方匪賊などだが, 地方の町で唯一の娯楽である京劇が来たとなると, 戦争は一時棚上げし, 日本軍の軍医長 (最高の文化人と思っている) が出席しないと幕が上がらない。 幕間に出てくる幟を見ると, 「軍医長10万元」 などと寄付額が書いてあるので, 応分の寄付をしなければならない。 こんな時は絶対に敵襲はない。 予め敵軍と話がついているのである。 町長の息子の結婚式も同様安全である。 軍医長は孫文の写真の前で新郎新婦の誓いの言葉を聞くのが役目である。 或る町の有力者の娘が強盗に撃たれたので是非往診を頼むという。 隊長も宣撫工作によいから是非診てやって欲しいと口添えするので行ってみたら, 娘は早手まわしに棺のなかに横たわっている。 右側胸部に射入口, 左側胸部に射出口があって貫通銃創の割合には元気である。  軍医学校で火力の弱いピストルの弾は肋骨の周りを半周すると習っていたので, 両胸の傷を消毒し絆創膏を貼って, 「治ったから棺から出なさい」, といって帰隊した。 しばらくすると隊外が賑やかなので覗いてみると, チンドンヤが町中を廻っている。 持っている旗差物を見て驚いた。 「大日本大国手三浦先生難病を治す」 と大書してある。 「ここではチンドンヤで広告するのが最上のお礼なのです」, と隊長が感謝していた。  翌年春になると, そろそろ転勤の噂が流れ, 久世大尉はマーシャル群島の島に (後にここで玉砕された) 私は横須賀鎮守府に呼び返された。 しかし, 代わりの軍中が着任しないと動けない。 飛行便は途中アメリカの戦闘機に狙われるというのでなかなか飛ばない。 船は潜水艦の餌食になるものが多く, これも来ない。 ようやく 4 月の末に台北まで飛ぶ便を見付けて帰還した。

(4) 第二次航空技術廠勤務 (1944−1945)
 内地での任地は前と同じ航空医学の研究所ではあるが, 飛ぶ飛行機がなくなって, 航空医学の研究より食糧の再検討が私の重要課題になってきた。 国の食糧も大問題だが, 私個人が如何にして食べていくかを先ず解決しなければならない。 主な食糧は配給だから, 誰か配給を受け取る人が必要になってきた。 このような食糧事情では独身者は生きて行けないことを痛感して, 結婚することに決めたのである。 海口を離れる前, 送別会で他の士官たちから 「帰ったらお見合い写真が山と積まれているから, ばば抜きの要領で 1 枚抜き出し, 迷わずそれに決めることだ」 と言われた。 ところが, 帰宅してみると, お見合い写真の山などはなく, たった 1 枚今の家内の写真があるだけで, ばば抜きどころか選択の余地さえもない。 この写真は茂吉先生が添削した私の歌から思いついて, 平田の父が私の父の所に持ち込んだものである。  平田の家は自宅から50mほどの近いところなので, 3 日の休暇の切れる前に見合いをすませ, 6 月27日に結婚することに決めた。  お仲人は父がこういうご時勢だから, 海軍の人がいいと, 何と鈴木貫太郎大将夫妻 (写真) に頼んだらしい。 (私はその頃もう横須賀に缶詰になっていて知らなかった) この方は長いこと侍従長を勤めて居られ, 父とは宮中でかなり屡々お目にかかっていたようである。 この方がお忙しくなったのは翌1945年の 4 月終戦処理の総理大臣になられてからで, 当時は比較的お暇だったからお引き受け頂けたのである。 奥様のタカ夫人は兄が幼稚園の時の先生だった。  結婚式と披露は 6 月27日に帝國ホテルで行い, 当時としてはやや派手だった。 大八車に田舎から調達した野菜を積んで運び, ようやく料理が出来たのである。 席上ご挨拶を給わった人の中には, 太田正雄 (木下杢太郎) 先生が居られた。 戦地に赴く前にお目にかかった時より幾分痩せてはおられたが, まさか翌年胃癌で亡くなられるとは誰も思わなかった。 先生は講義の時よりはきはきした口調で, 「新郎の年上の友人として, 夫婦喧嘩の収め方の話しを致します」 といわれ, 親友の和辻哲郎先生の夫婦喧嘩の話しをされた。 和辻夫妻が喧嘩をして, 和辻先生が逃げて風呂桶の中に隠れて居られたが, 誰も来ないので, ちょっと蓋を持ち上げたところ, 奥様に見つかり, 双方とも笑い出して終わった, 喧嘩はどう収めるかが大切だと言われる。 太田先生は何もその時言われなかったが, 「戦争も如何に収めるかが大切だ」 ということは聞いている人々には分かったようである。 この話は岩波版杢太郎日記 5 巻318頁に出ているが, 和辻先生の名はなく, 風呂桶の話しもない。 後の終戦時の鈴木首相は太田先生のお話を覚えて居られただろうか。 鈴木首相は早く戦争を止めさせたいという考えの方だったが, 旨くご自分の考えは韜晦してその気配は見せられなかったことだろう。  研究の方は航空医学ではなくて口腹医学だと笑ったほど, 圧倒的に食べることの研究である。 先ず組み込まれた研究班は, 高松宮が委員長の, どれだけ海軍兵の食事を減らすことが可能か, という研究である。 武山海兵団で, 年齢の異なる兵士の 1 日のエネルギー消費量をタイムスタデイ (アルバイトの東大学生 (次頁の写真で角帽をかぶっている) が被検者に24時間付き添って測定) や食糧分析やら, 平時では費用がかかり過ぎて到底出来ない Field study を東大の吉川春寿助教授の指導で行うことが出来た。 その結果 1 日3000kcal の兵食を2000kcal まで引き下げることも訓練の仕方次第で可能と報告, 海軍省はホッとしたらしい。  唯一の航空医学の研究は 「おなら」 の研究だった。 ドイツから潜水艦で持ち帰ったジェット戦闘機の設計図が航空技術廠に届き, 試作が始まった。 同時に届いた搭乗員の食事についての注意書きには可能な限り, 腸内ガスを減らさないと高度 1 万メートルでは気圧が 1/5 になると, 腸内ガスは 5 倍に膨張してパイロットは腹痛に苦しむとある。  当時の兵食には脱脂大豆が入ることもありガスが発生しやすい。 何とかガス発生の少ない食事を開発することが緊急課題になったのである。  その頃, 九大から東大医学部生化学の教授に転任されたばかりの児玉桂三教授はまだ陸軍の息がかかって居らず, 今のうち海軍の顧問になって頂き, ジェット機搭乗員の食事問題についての指導をお願いして欲しいということで, 私が使者に立った。 先生は被検者と食事を海軍が引き受ければ, ガスの検査は東大で引き受けると言われた。 ガスを集める方法はどうするのか分からず先生に伺ったら, 破顔一笑, 糞便を10gほど持って来れば, それを発酵管に入れて, 発生するガスを分析するのだいわれる。 それから毎日空襲下を横須賀線で検査すべき大便を大事に抱えて東大に運んだ。 東大では教室員は殆ど応召しているので児玉先生自らガス分析をされた。 馬鈴薯やミルクの多い食事を摂った人の便はメタンガスが多く, 分析器内で電氣火花を散らすと爆発, 3 台も分析器をこわしてしまった。 ところが生カルピスを飲ました場合はガスは全く発生しないことが分かったのである。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 6 章 敗戦で軍務を離れる 敗色が濃くなると, 空技廠のような医学者の集まった所でも, 中には精神主義の人もいて, 物理的法則を無視したような理不尽なことを主張する。 1945年の春, ある上司から, 私に鎌倉の円覚寺に行って, この食糧事情の悪いのに禅の修行僧達が元気なのは何か秘訣があるはずだから訊ねて来いと命じられた。 そこで円覚寺に朝比奈宗源老師を訪ね, 訪問の趣旨を述べたら, 老師は奥から 1 通の書類を探して来られ, 「これが修行僧の食事の献立です。 こんなご時世ですから, 配給があれば肉でも魚でも有り難く頂戴しております」 といわれ, カロリー表まで下さった。 そして, 「無から有は生じません」 と初めて禅宗のお坊さんらしいことを言われた。 帰ってそのまま報告したら, 手ひどく怒られ, もっと禅宗の修行の精神面を調べて来いと言われた。  夏近くなると敵艦隊が相模湾に進入して来るという噂が流れ始めた。 そのための最後の特攻兵器として人が爆雷を背負って海底を歩いて敵艦に迫る方法が考案された。 ところが背負って行くのは空気ボンベではなくて, 少しでも歩く距離を伸ばすために酸素ボンベを使う予定だという。 酸素は 2 気圧を超えると酸素中毒がおこり, ネズミの実験ではバタバタと倒れることが観察されている。 これに対し例の精神主義者はネズミとヒトとは違うから, お前達が自身で高圧タンクに入って実験しろと言い出した。 仕方無く私ともう一人先輩が高圧タンクに入り純酸素の圧を 1 気圧にし, それから徐々に圧を加えていったら 2 気圧近くなると被検者 2 名とも顔面が紅潮, 見ていられなくなり, とうとう実験はそこまでで中止, 酸素ボンベはやめて, 空気ボンベを使うことになった。  7 月に入ると空技廠も猛烈な爆撃を受け, 鎌倉の額田病院に疎開した。 終戦の詔勅はここで聞き, 自転車で逗子の自宅に帰った。 その途中, 私と暁星, 大阪高校で同級だった矢沢清弘君 (当時は陸軍の技術将校) に逗子の町で逢ったら, 彼はニコニコして, 「これからは俺達の世の中になるよ」 と暁星ボーイらしいセリフをはいた。  後かたづけのため空技廠に 9 月末まで残ったが, ショックだったのは, 米軍が研究所接収に来て, 7 月初めまでの研究は大体知っている。 その後あの問題はどうなった ? など機密が漏れていたことが分かった時である。 未だに誰がスパイだったかわからない。   9 月30日に正式に軍務から離れた。 正七位と海軍軍医大尉の称号だけがお土産だった。  この戦争の間に戦死した同級生は125名中23名にのぼった。 私達の前後のクラスにも戦死者は集中し, 出征した人のうち戦死した人の比率は法経などの学部卒業生の比率の 5 − 6 倍にものぼるという。 医学部卒業生は敵と戦うというより, 戦傷者を敵味方を問わず医師として助けることを自分の責務と感じて出征した人も少なからずいたことは確かである。  医学部の同窓会の鉄門クラブの寄贈で出来る講堂の壁に戦没者の名を刻むという提案は教授会で拒否され, 僅かに東大の門外に記念碑をたてることだけは許容された。 外国では医学校の講堂の壁に戦没者の名が誇らしげに刻まれている。 何故我が国だけは許されないのか, 全くわからない。

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