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千葉医学 78 (5) :193-241, 2002

原著
変形性膝関節症および慢性関節リウマチにおける人工膝関節置換術後透視下動解析
 金山竜沢 鈴木昌彦 守屋秀繁 Scott A. Banks and W. Andrew Hodge
 
短報
千葉大学の篤志献体団体による解剖実習施設見学会の開催報告
 松野義晴 川端由香 小野祐新 佐藤浩二 足達哲也 小宮山政敏 門田朋子 森 千里

エッセイ
 私の20世紀
  三浦義彰
第 7 章 私の核酸研究(1950-1976年)
第 8 章 千葉大学医学部時代(1955-1976年)
第 9 章 千葉大学医学部以後の研究
 
海外だより
シンガポール日本人会診療所
 大西洋一

研究報告書
平成13年度長谷川加齢医学奨学生研究報告書

学会
第22回千葉県胆膵研究会
第1027回千葉医学会例会・第22回歯科口腔外科例会
第1042回千葉医学会例会・第19回千葉精神科集談会

雑報
ゲッティンゲン便り[
 高野光司

編集後記

 
   
  変形性膝関節症および慢性関節リウマチにおける人工膝関節置換術後透視下動解析
金山竜沢1) 鈴木昌彦2) 守屋秀繁2) Scott A. Banks3) and W. Andrew Hodge4)
1)君津中央病院整形外科 2)千葉大学大学院医学研究院整形外科学 3)The Biomotion Foundation, West Palm Beach,Florida. 4)Palm Beach Orthopaedic Insttitute,West Palm Beach,Florida.


【目的】従来膝関節の動態解析は, 筋肉・皮膚など軟部組織を介して体表面上に関節角度計や表面マーカーを設置し行われてきた。 これら軟部組織の影響を受けないX線透視を用いた人工膝関節置換術 (TKA) 後の三次元動態解析を行った。 【方法】TKA後一方向X線透視により得られる透視画像をコンピューターに取り込む。 得られた画像を透視装置固有の歪みにより補正し, これをCADモデルデータにより得られる像とコンピューター上で比較し, 各コンポーネントの位置・向きを三次元的に決定した。 術後経過が良好な変形性関節症 (OA) 4膝, 慢性関節リウマチ (RA) 4膝を対象とし, 一段の階段昇降を透視下に4回連続で行った。 【結果】Contact pointは主に脛骨インサートの中心線より後方に存在していた。 Most posterior contact pointは内側がOA, RAまた全症例においても有意に後方に存在していた。 Contact rangeはOA, RAとも内側の方が大きい傾向にあり, 全症例では内側の方が有意に大きかった。 膝関節の屈伸に伴い脛骨は回旋し, screw home movement・lateral pivot motionを示した。 【考察 】X線透視を用いた本法は, 各コンポーネントの運動を直接とらえることができる優れた方法である。 今回の解析では, RAは関節全体に変性があるにもかかわらず術後の運動はOAと類似していた。 現在, 多くの人工膝関節が臨床応用されている。 その形状が術後の運動様式に合わなければ, インプラントの破壊へつながるものと思われる。 TKA術後のより詳細な動態解析が, より優れたデザイン開発に不可欠であると考える。
 
   
  千葉大学の篤志献体団体による解剖実習施設見学会の開催報告
松野義晴 川端由香 小野祐新 佐藤浩二 足達哲也 小宮山政敏 門田朋子 森 千里  千葉大学大学院医学研究院 環境生命医学


肉眼解剖実習は, 医歯科大学生にとって人体の構造および機能を学ぶ上で, 重要な基礎科目の一つである。 本学において, 解剖実習に供される遺体は千葉白菊会会員から提供いただいている。  ところで, 本学の解剖実習施設は, 本学医学生およびコメディカル学生以外には公開していなかった。 以前より, 実習施設に関しては, 会員から 「死後自らのご遺体を預ける施設について見学したい」 といった要請があったが, その機会を実現するには至らなかった。 しかし, 平成13年3月に解剖実習施設内の面会室および実習室の改装が終了したことを機に, 要請に応えることおよび施設の現状を会員に知っていただくことを目的として, 同年10月に開催された千葉白菊会総会時に希望者に対して見学会を実施するに至り, その成果を含めここに報告する。  見学会には112名が参加し, 見学箇所への移動に支障のない会員を10名程度のグループに分け, 面会室, 霊安室, 遺体保管室および解剖実習室の順に見学を行った。 なお, 移動の困難な会員については待機場所において映像による見学を行った。  後日, 見学会に関するアンケート調査を行ったところ, 参加いただいた8割の会員から返答をいただき, 見学会全体を通して肯定的な回答をいただいた。 特に, 実際に施設見学を行った会員の回答によって@スタッフの対応, A見学時間, B見学内容, さらには映像による見学を行った会員の回答にみられるとおり, @映像の出来映え, A映像に関する説明, B放映時間については, その肯定的な回答を約6割の会員から得た点からすれば, 及第点をクリアーしているといっても過言ではなかろう。

 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 7 章 私の核酸研究(1950-1976年)
(1) 戦後の東大
敗戦によって軍務から解放され東大に帰ったが, 当時東大医学部の基礎医学教室はまだ軍隊から復員して来た人も少なく, どの研究室も無人で, 荒廃してどぶネズミが走りまわり, 到底実験など出来る雰囲気ではなかった。 そのため児玉教授の許可を得て, 当分は小学で同級だった薬学の柴田承二君 (当時は助教授) と空いていた細菌学教室の一室を借りて, 抗菌物質の共同研究を始めることにした。  研究に先立つものは研究費である。 それまで軍事研究といえば殆ど無制限に研究費は得られたが, 敗戦と同時にそれも当然無くなり途方にくれた。 柴田君の紹介で当時薬学の若手の教授として有名な石館守三教授に事情を話すと, 結核に効くかも知れないプロミンという薬とその誘導体の合成には成功したが, 本当に結核菌に効くかどうか試してくれないか, それに必要な研究費なら出してあげよう, といわれる。 私はそれまでに細菌学の実験は学生時代に少し習った程度だったが, 研究費欲しさにお引き受けした。  調べてみると, ヒトの結核菌は培養に時間がかかり, 多数の試作品のテストに時間と人手がかかりすぎる。 トリ型結核菌なら1週間で試験管内に生育してスクリーニング・テストに好適な事が分かり, これを使うことにした。  多数の試作したプロミン誘導体はいずれもトリ型結核菌によく効くが, 中でもプロミン自体は水溶性に優れ, 毒性も少ない。 しかしヒトの結核症に対して臨床実験を他の医師が行ってみるとあまりよい成績ではなかった。 その後, 石館教授は毒性の少ないプロミンの使い道として, 同じく抗酸菌によっておこるハンセン病に対して有効ではないかと考え, 試作品の臨床試験を行ったところ卓効が見られたのである。 このことが今日ではハンセン病患者は強制収容されることがなく, 社会復帰が可能になった事の始まりで, 石館教授の先見の明によるものであった。 私はプロミン誘導体の鳥型結核菌に対する有効性についての英語論文をJ.Biochem.37: 205, 1950に投稿した。 この論文は後に私の学位請求論文になった。  こうして数年あまり, 薬学部で有機合成を習ったり, 抗菌物質の作用機構の研究を行っているうちに, 軍人も復員し, ようやく実験も可能になったので生化学教室に戻ることにした。 1950年頃であったと思う。  その時, 研究テーマとしてなぜ核酸を選んだのか正確な記憶はないが, それまでに生体成分のうち, タンパク質, 脂肪, 糖質, 無機質などはかなり研究が進んでいたが, 核酸だけはその構造も機能も殆ど知られていなかった。 また栄養素として糖質, 脂肪, タンパク質の必要性は20世紀の初めからよく研究されていて, ビタミンもまた今ほどは多数は知られてはいなかったが, 明治から大正にかけて, 脚気が日本では多発していたため, 胚芽米の研究と平行して盛んに行われていた。 しかし, ヒトの栄養素として核酸の不要なことの理由は全く不明で謎に包まれていた。 このことが私の研究意欲をかき立てたのである。

(2) 核酸とはどんなものか?
 この文の読者には科学に縁遠い方も想定されるので, 核酸についての基本知識だけでも述べて置こう。 スイスのバーゼルにはミーシャー (Johann Friedrich Miescher, 1844-1895)という, 一風変わった研究者がいた。 彼は最初1869年に化膿組織から得た細胞核から燐を含んだ物質を得て "Nuclein" と名付けた。  彼はこれを当時の生化学の権威, Hoppe-Seylerの雑誌に送付したが, ホッペーザイラーは実験材料があまり突飛な研究なので, 暫く発表を保留し他の材料 (ライン川で獲れたサケの白子) から同様の物質が得られるまで待ち, ようやく1895年に初めて学術誌に掲載したのである。 この物質は有機酸と塩基性物質の化合物 (核タンパク) であった。

(3) 1950年までに分かっていた核酸の構造
 @核酸には塩基というプリン核2種, アデニン (A) とグアニン (G) とピリミジン核3種, シトジン (C), ウラシル (U) とチミン (T) がある。  A塩基に直接結合している糖は炭素原子5個を持つ五炭糖で, これには2種あり, リボ糖とデオキシリボ糖とである。  B燐酸 さらに糖に結合している燐酸がある。  C塩基と糖が結合している化合物はヌクレオシドと名付け, ヌクレオシドに燐酸が結合している化合物はヌクレオチドという。 ヌクレオチドが集まったポリヌクレオチドの構造は糖―燐酸―糖―燐酸―糖―燐酸―と繋がった鎖に, 塩基が糖の部分に枝分かれして結合しているもので, 分子量の大きなものを核酸と名付けている。 糖がリボ糖のものをリボヌクレオチド, リボ核酸, RNAなどと呼ぶ。 この場合の塩基はアデニン, グアニン, ウラシル, シトジンである。 デオキシリボヌクレオチドはデオキシ核酸, DNAなどと呼ぶ。 この場合の塩基はウラシルの代わりにチミンが結合している。

(4) 1950年までに分かっていた核酸の機能
 1951年に共立出版から 「核酸及び核蛋白質」 という上下2冊の大部な本が発行されている。 編集は名大の江上不二夫教授で, 当時すでに核酸を研究していた少数の人たちとの共著である。 この本によると, 核酸の化学は比較的進歩していたが, 機能の方は核酸が遺伝子に含まれていることが, この本では遠慮勝ちに述べられているが, ウイルスの成分としての核酸は明瞭に記述している。

(5) 核酸研究会の発足
 1951年に前記の単行本の発行と併せて核酸研究会が発足した。 第1回は東大伝研 (現医科研) で 3月4日に開催された。 会長は江上教授で, この会では核酸の分解酵素の話をされた。 これ以後大体毎年開催され, 第6回の名古屋大会などはBeadle, Stent, Bonnerなど核酸研究では世界的に有名な研究者も参加している。 1959年以後は学園紛争の影響を受け, 開催されていない。 この会は最初のうち, まだ外国文献が充分に入手出来ない時代であったので, 情報交換に大変貢献した。

(6) 東大医学部生化学教室における核酸研究
 私は当時児玉教授のもとで大学院特別研究生という, 僅か乍らお手当の出る身分だった。 しかしとても自分のお弟子さんなどを持つ身分ではない。 幸い児玉教授のご厚意で研究生の中村康吉君を私に付けて下さり, 最初は2人でポツポツ研究を始めたが, やがて私が研究テーマとして核酸を選び, 研究方法として放射性同位元素を選んだことが分かると, 当時としては斬新なテーマであり, 実験方法がまだ他の所では使っていない新しい方法なので, 医学部の学生からも, 臨床の研究生からもグループに加わりたいという申し出が相次いだ。 当時 私のもとに集まったのは中村康吉君の他, 杉村隆, 松平寛通, 上代淑人, 橘正道, 吉沢康雄, 古明地隆江などの諸君で, 薬学からは野口照久君が加わった。 みな私を助教授か講師と思って来られたらしいが, 実は大学院学生に過ぎなかった。 しかし当時の児玉教授は研究費は下さらなかった代わりに研究者を入れることや, 研究題目については口も出されなかった。  その頃私は抗生物質の作用機構に興味があり, 抗生物質を加えると微生物のRNAの働きに変化がおこると考え, 折から吉川助教授のもとで使われていた放射性燐を分けて頂いて研究を始めた。 放射性燐は手軽に使えるが欠点もあり, 私は放射性炭素で標識した化合物を使って実験したかったが, 当時の日本では入手不可能だった。  1952年に私は運よくロックフェラー財団の給費生に採用され, ペンシルバニア大学のブキャナン教授のもとに1年間留学できた。 目的は放射性炭素で標識した化合物を使っての核酸代謝の研究方法を習うことである。 ブキャナン教授 (John M. Buchanan) はこれより以前に肝臓の核酸のプリン核は食事の中のプリン化合物に由来するものではなく, アミノ酸のグリシン, 炭酸ガスなど小分子が集まって体内で合成されることを発見している。 他の研究者によって, プリンと同様にピリミジンも体内で小分子から合成されるから, 核酸は栄養素として食品から補給する必要はなく, 体内で必要に応じて作られるものという概念が確立されたのである。

(7) 留学中に初めて知った核酸の知識
 私が日本を出発した時はまだ占領下で, 大学では外国雑誌も読めず, 新知識に飢えていた。 2本のDNAが螺旋状に巻いている核酸の構造は1953年の4月, 5月の二回Natureに論文は発表されているから, アメリカにいた私はその論文を見る機会はあったが, その年の7月に発見者の1人クリックの講演をMITで聞く機会があり, このDNAの構造からDNAが遺伝子であろうと推察されたのである。  留学中にもう一つ注目した研究は私がいたペンシルヴァニア大学の生理化学教室の主任だったウィルソン教授夫妻のnegative dataである。 それは食物中の核酸が体内の核酸には直接はならないという実験である。 この実験は同位元素の発見以前から行われ, 同位元素が使われるようになってからも何度も追試されている。 もし食物中の核酸が体の核酸になることがあれば, 極端な話, 食べた他の生物の核酸が食べたヒトの遺伝子に影響する場合も起こりうるので, これを避けるために核酸は栄養素にはならないのであろう。 Negative dataだから華々しい発表にはならないが, 大変重要な事実である。

(8) 国際酵素化学シンポジウム
 1953年の9月に私はアメリカ留学を終わり, カナダのモントリオールで開かれた国際生理学会に出席した。 科学の国際会議では英語とフランス語が公用語である。 カナダは国内の公用語が英語とフランス語なので, 会議を支える秘書とか, 会場掛かりを集めるのは容易だから運営は円滑に行われていた。  科学の学会では国境が無いようでいて, やはりお国振りというようなものが存在し, アメリカとは隣接していても, カナダにはアメリカで見られない研究もある。 その頃のカナダで特殊な研究といえばストレス学説を唱えているモントリオール大学のセリエ (Hans Selye, 1907〜1982) の副腎皮質ホルモンの研究で, 講演も教室訪問も満員の盛況だった。 私は日本で国際学会が開かれる場合も, 何か他の国にはない研究の発表が注目されるであろうと考え, ヨーロッパを廻って日本に帰るまで, その事を考え続けた。  カナダから大西洋を渡って最初に訪れたケンブリッジ大学は, かつて児玉教授がホプキンスのもとに留学されたところだけに当時の共同研究者のデイクソン博士の大歓迎を受けたし, 次に訪れたパリではパストウル研究所のモノ (Jacques Monod, 1910〜1976) の研究室を訪れた。 ここは屋根裏部屋の狭い所で, たいした器具も使わずに, 後にノーベル賞を受けた機知に富む研究を行っていた。  帰国して間もなく, 旧知の伊東広雄先生の訪問を受けた。 伊東先生はもと高等蚕糸専門学校の校長で, 当時もうかなりのご高齢にも係わらず, 絹糸蛋白の生合成の研究を放射性炭素で標識したグリシン (絹糸に多いアミノ酸) を用いてやってみないか, というお誘いであった。 実験材料のカイコは自分が集めるから, 心配は要らないと言われる。 私はカイコを使って絹糸蛋白質の生合成時のメッセンジャーになるRNAの研究は日本独特のものだから, 国際学会で発表するのに適していると考え, 共同研究を進めることにした。

(9) 絹糸たんぱくの研究
 カイコを飼うには桑の葉がいる。 研究室は蚕室に変わり, みるみる緑に包まれた。 絹糸を吐く直前 (5齢の5−7日) のカイコから後部絹糸腺を取り出す作業は伊東先生以下教室員も私の家族も総出で行うのである。 その頃私は本郷のキャンパスから小石川分院に新設された衛生看護学科に移された。 実験室は無く学生実習の部屋しか使えないので, 学生実習のある日は研究のための実験は出来ず, カイコが繭を作ってしまわないか, 気が気ではなかった。  1957年の国際酵素化学シンポジウムは世界の第一線の生化学者が海外から50名程参加, 児玉先生が会長, 私が幹事で東京と京都で開かれた。 私達の絹糸腺での絹蛋白フィブロインの生合成の実験報告は私が予想したように日本独特の研究と外国人の間に大評判だった。 後部絹糸腺では, この時期になると, 絹糸蛋白質の主にフィブロインしか合成しない。 従ってこの時期にはフィブロイン・タンパクの半分近くを占めるグリシンが多量にフィブロインのなかに取り込まれる。 この時期より数日前までにフィブロインのメッセンジャーRNAは合成されて, 保存されていることが私達の実験で明らかにされた。 微生物ではメッセンジャーRNAは不安定で, 合成後間もなく消滅するのにカイコでは安定であることはこのメッセンジャーRNAが実験材料として適している証拠になる。 この事実が世界に広まるにはさらに10年待たねばならなかったが, 1967年の国際生化学会議で再び私たちが発表して以来, 日本だけでなくアメリカでもカイコが核酸研究の材料として盛んに使われるようになったのである。  話が前後するが, 私の帰国を待って発足した野口照久君 (薬学出身) が放射性炭素を含む核酸先駆体の合成〈本邦初〉に成功, これを用いて核酸合成の実験を私がまだ本郷キャンパスに居る頃盛んに行った。 それで明らかになったことはアデニンやウラシルなどよりもう一つ前の段階の前駆体 (AICA) の方が核酸に取り込まれ易いことである。  また次に述べる実験は私が千葉大学に赴任してからの実験であるが, 絹蛋白のフィブロインのメッセンジャーRNAについての事なので, 便宜上ここで述べることとしよう。  当時千葉大学の大学院学生であった須永清君はカイコの後部絹糸腺から安定なDNAとRNAの複合物を取り出した。 この複合物は粘性が強く, ガラス棒の周りに, 水飴のように巻き付いて来て, なかなか離れない。 この複合物をネズミの肝臓をすりつぶした液体に混ぜ, それに放射性グリシンを加えて適温に保つと, 放射性の強いタンパク質が合成されるが, これはグリシンを高率に含む絹糸腺の作るフィブロインに似ている。 ネズミの肝臓ではこのようにグリシンを高率に含むタンパク質は合成されないのに, 絹糸腺から抽出したDNA-RNA複合物を加えた時に限って合成されるのはフィブロインのメッセンジャーRNAが加えられたゆえであろうと思われる。 この絹糸腺から得たDNA-RNA複合物はDNAが共存する限り大変安定で, 寿命も長いのが特徴である。 したがってカイコの体を離れ, ネズミのタンパク合成系に加えても, もとのカイコの遺伝子の命令通りのタンパク質を作ることが出来るのである。 この実験から10数年後に, いわゆる組み替えDNA技術の発達によって, 微生物に色々のメッセンジャーRNAを加えて有用なタンパク質を大量に製造出来るようになったが, 私たちの実験はこの技術の成功を予見するものであった。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 8 章 千葉大学医学部時代(1955-1976年)
東大分院の学生実習室に比べれば千葉大学の生化学教室はスペースの点では遙かに広かったが, 実験設備の面では古い大きな遠心機が1台あるのが目に付くだけで, 放射能を測定するには近くの放医研に行かなければならなかった。 文部省の研究費の配分も東大に比べれば千葉大は僅かだった。 私は自分の研究を再開するためにアメリカの研究費 (NIH, ロックフェラー財団, メルク社) から集めて, ようやく機械類を揃えたのである。  それでも, 当時急に発展して来た分子生物学を研究するには無理なので, 自分の研究の方向を細胞生物学的研究に集中しようと考えた。 分子生物学では細胞の形態を破壊して, 酵素を精製し, これを用いて生体内の反応を分子のレベルで研究を進める。 酵素の精製法は一昔前までは塩析法など機械, 器具があまり要らない方法だった。 当時はまだマクロのクロマトグラフィーが主流で, この時代には検体が少量ですむ経済的なミクロのクロマトグラフィーはまだ使われていなかった。

 私が取り上げた研究テーマは 「DNA合成開始のシグナルは何か」 ということである。 細胞分裂が始まる数時間前に細胞でDNA合成が始まるが, それ以前から環状GMP濃度の上昇, チロジンアミノトランスフェラーゼ (TAT), オルニチン脱炭酸酵素 (ODC), チミジンキナーゼ (Tdr-kinase) などの酵素活性の上昇がみられる。 これをPleiotropic responsesと称する。 同じくこの事に興味を示していたのはサンフランシスコのカリフォルニア大学にいたゴードン・トムキンス (Gordon Tomkins) である。 彼は先の見える優秀な中年の生化学者であったが, 鼓室形成手術で急死してしまい, 私はよきパートナーを失った。

 私が実験系に採用したのは再生肝のDNA合成系である。 ネズミの肝臓の2/3を切除すると, 12時間後位から残存肝にDNAの合成が始まり, ほぼ24時間後から細胞分裂がおこり, およそ2週間もたてば, 肝臓はもとの大きさにもどる。 なぜ肝臓の一部を切除するとDNA合成がおこるのか, その生化学的機序が知りたかったのである。  血液中のホルモンなどの影響を受けないように, 私たちは肝臓を体外に取り出して, 酸素を含んだ人工血液で環流する。 その上で肝臓の2/3を切り取ると12時間後には生体内と同じくDNAへの標識前駆体の取り込みが見られる。 この場合もPleiotropic responseとして, 環状GMP, TAT, ODC, Tdr-kinaseの上昇がある。 それでは何がPleiotropic responseを起こす刺激物質なのか?  この実験を主として行ったのはバングラデイシュからの留学生マームド (Ishtiaq Mahmud) 君である。 1960年代の終わり頃, 日本の大学に蔓延した学園紛争に千葉大学も巻き込まれたが, 幸い留学生は巻き込まれず研究が続けられた。 私の研究室には他にイラン, イスラエルなどの留学生もいて, それぞれ力になってくれた。

 私達は細胞膜を傷つけた時に起こる, アラキドン酸カスケードに注目した。 アラキドン酸は細胞膜に含まれ, 膜が傷つけられると間髪をいれず, アラキドン酸が放出されて, プロスタグランジン (PG), 特にPGF2αやトロンボキサン (TX) ができる。 しかし環流液にPGF2αを加えてもc-GMPとODCの濃度は上昇するがDNA合成はみられない。 それではTXを加えた時はどうなるか。 これは興味がある実験なのだが, TXは不安定で商品は当時なかった。 しかしTXの合成はイミダゾールによって阻害されるので, 環流液にイミダゾールを加えたら, TXも出来ず, Pleiotropic responseも見られず, DNA合成も無論起こって来ない。 TXは血小板の凝縮に使われるから, 出血を起こすような傷を作り, TXの生合成を促したらどうかというので, 肝葉を取らずに単に針を肝臓に30本刺しただけで見事DNA合成が見られたのである。 私は現在のところ再生肝のDNA合成のきっかけはTXの生成と考えている。  この実験の価値を正当に認めてくれたのは, 旧友アーサー・コーンバーク (Arthur Kornberg, DNAポリメラーゼの発見で1959年にノーベル賞受賞) で, 彼は皆が皆, 分子生物学で核酸研究を行う必要はなくて, むしろ再生肝細胞の中で, 何が刺激になってDNAが合成されるのかを調べたこの研究を高く評価している。

 私は1976年に65歳の定年で千葉大学を退職した。 20年の在職期間の後半10年は学生紛争のために研究は殆ど出来なかった。 学園紛争は戦争に匹敵する損失である  千葉医学専門学校時代から生化学の教授は東大医学部出身者が続き, 殊に私の前任の赤松茂教授はドイツ留学時代の研究, 即ち酵素の基質に酵素作用がおこると発色するものを選び, 色の変化によって酵素反応を追跡する手法を選んだ。 この方法は発色基質の合成に成功すれば酵素の精製を必要とせず, 臨床教室から学位を取得する目的の研究生に向いていて, 次々と論文が出来てくる。 この点, 東大や京大の生化学教室に入って来る将来生化学者になろうとする人達とは根本的に心構が異なる。 私の千葉着任後, 初めのうちこそ, 臨床の教室から2年ほど論文作成のため生化学教室への出向者だけだったが, 生化学の大学院に入学する篤志家も増えて, 20年余の在任中に生化学教室で学位論文を書いた人は合計40人中33名が臨床医であり, 7名が後に医学校の生化学教授とか公立研究所の研究部長になっている。 (徳島大に蝦名洋介教授, 富山医科薬科大に浜崎智仁教授, 自治医科大学に手塚統夫教授, 千葉県がんセンター研究部長に崎山樹博士, BangladeshのDahka大学にIshtiaq Mahmud教授などが千葉大学以外に新天地を開いた)  これは5人に1人位の割合で生化学者が生まれたことになり, 私の予想を超えた数であって, 在任20年余が無駄ではなかったと思う。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 9 章 千葉大学医学部以後の研究
野口照久君はその頃サントリーの生物医学研究所の所長をしていたので, 千葉大退職後の私をこの研究所の顧問に迎えてくれた。 この研究所はその頃世界中の製薬会社が狙っていたバイオテクノロジーを応用してペプチド乃至タンパク質を合成しようとしていた。    私はこの研究所では実験にも企画にも携わらず, ただ諮問があった時に判断を下すだけで大変気楽であった。 ただ全所員の血液を調べてγインターフェロンの高い値の人から, 少々血液を頂くような時には, 医師として責任者になり, 実験を管理した。 因みに血液中のγインターフェロンは誰よりも私が高かった。 医師は種々の病人に接する機会が多いので高いのかも知れないし, 或いは他の誰よりも高齢であったゆえかも知れない。

 バイオテクノロジーによるペプチドやタンパク質の合成は順調に進み, 最初はアミノ酸が数個結合したペプチドホルモンの合成から, 5, 6年のうちにγインターフェロンのような分子量の大きなタンパク質の合成まで, 日本のトップを切ってこの研究所は作って行った。 ただサントリーは従来からの薬品会社ではないので, 薬の販売はせず, 特許を売ることに終始しているので, 外からみると何も成果が上がっていないようにみえる。  それにペプチドやタンパク質の薬は作ってみると案外に毒性の強いものがあって, 実用化が難しいものも多い。 私はこの期間, バイオテクノロジー特有の言葉にも慣れ, 我々が始めた日本の核酸研究の実用化をみることが出来て感慨深いものがあった。

 サントリーでは時々医薬品以外の飲料についても何か新しいアイデアがあるか, という諮問があった。 私はそれまでの甘いジュースだけでなく, サッパリした飲料も必要という考えで, ウーロン茶を勧めてみた。 ところが, 当事者からの返事は中国では品質が一定した茶葉が得られないから, 実行不能というものだった。 私はなるほどそんなものか, と引っ込んだら, その夏, 他の会社が先鞭をつけ, 後発のサントリーは翌年の夏から売り出し, 品切れの盛況だった。 更に5−6年後, 再び飲料の諮問があった。 今度は私は減肥茶として雲南茶 (プーアール茶) を提案した。 これもその時は採用されなかったが, 10年以上経った現在サントリーから売り出されている。 いつでも遅れをとるのは当事者の怠慢としか考えられない。 飲料は私の専門ではないから, 諮問に答えても報償はないことは理解するが, 最初のアイデアの発案者に一応の挨拶があってもよいのではないか思う。 研究所には優れたアイデアほど貴重なものはないと思っている。

共立女子大学での仕事
 サントリーの顧問と平行して共立女子大の家政学部の管理栄養士養成コースの学生と大学院生に週1度の講義と実習を受け持った。 この仕事は核酸研究と何らの関係もないが, 栄養学はこの100年間あまり大きな進歩は無かったのではないかとさえ思う。 世の中では核酸食などという健康食がまかり通っていることも驚きであった。 この学校は私自身が院生のころアルバイトで教えたこともあって, 親しみのある学校である。  千葉大学医学部でも最初のうちは生化学の専門家は生まれなかったが, この学校でも最初の5年間位は生化学を専攻する者は出てこなかった。 しかし現在では卒業生は家庭の主婦にとどまらず, 生化学や栄養学を専攻する者もある。 このことはそれを教えた私にも嬉しいことである。  共立女子大の第2の定年を迎えてみると, 後は著作だけが老人の私にも出来そうである。  折よく, 共立で教えた最後のクラスの橋本洋子君がアメリカでスポーツ栄養を専攻して帰国したので, 共著で 「スポーツ栄養」 (杏林書院 1993, 1997) という本を出版した。 この本の評判がよいので, やはり共著で 「新しい健康読本」 (裳華房 1996), 「食の科学」 (羊土社 1999, 2001), 「食卓の生化学」 (医歯薬出版 2002), 「はじめての生化学」 (杏林書院 2000) など矢継ぎ早に出版した。 橋本君は複雑な科学的事実を易しい言葉で表現する才がある上, コンピューター処理の技術にも優れていて, 現代の著作には好適な共著者である。 しかし私の老人現象は遠慮なく進み, パソコンは1時間も続かず, 頼みにする橋本君も学才を買われ所沢の秋草短大の講師になり, 共同執筆の時間が少なくなってしまった。 余生はどのように使ったら有効か暗中模索している現状である。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
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