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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 79 (1) :1-49, 2003

展望
頭頚部癌の治療:問題点と今後の展望
 岡本美孝(和文・PDF
 
講座
ゐのはな昔がたり
 石出猛史(和文・PDF
 
エッセイ
 私の20世紀
  三浦義彰(和文・PDF
第12章 全英テニス・トーナメント見物記
第13章 御所でのテニス
第14章 ラケットの変遷
おわりに

学会
第1040回千葉医学会例会・第 1 回呼吸器内科例会
第1049回千葉医学会例会・第 3 回環境生命医学研究会
第 2 回千葉肝胆膵外科フォーラム

雑報
看護学部からの発信 ― 定年退官に寄せて ―
 野尻雅美(和文・PDF

編集後記(和文・PDF

 
   
  ゐのはな昔がたり
石出猛史 千葉大学大学院医学研究院循環病態医科学


現在千葉大学医学部と附属病院が建つ亥鼻山は, 古代からヒトの生活が営まれてきた場所である。 弥生時代の住居跡・前方後円墳の発掘なども行われており, また千葉市指定の史跡七天王塚もある。 亥鼻山に千葉大学のキャンパスが設けられてから, 110年が経過する。 この間には歴史に埋もれ, 大学の関係者にも知られていない事象が少からずある。 本稿では大学を中心とした亥鼻山界隈の古事について紹介する。
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第12章 全英テニス・トーナメント見物記
1983年の春, 東京大阪間の JAL の機内で読んだ週刊誌にスイスの時計会社ロレックス社の東京支社の広告に目をひかれた。 それはテニスに関する800字のエッセイ募集の記事であった。 これに当選するとその年の 7 月に開かれるウィンブルドンの テニス・トーナメントの見物旅行に招待され, 旅費その他一切のオブリゲーションがない。
 テニきちの私はもう定年退職の身だから休暇は取りやすく, 家内の病気も大分回復して私が常に傍らに居る必要はない。 まさに好機である。 エッセイの下書きは機内で書いてしまい, 大阪のホテルで清書して, その日のうちに郵送してしまった。 エッセイの内容は前項に書いたアーサー・コーンバーグとの雪の中での試合のことである。 殆ど期待もしていなかったので忘れ かけていたら, 6 月のある日, 私の宅に当選の旨の電話があった。 驚いたのは家内で, 同じくテニきちの家内が行きたいとい われると困るのでこの事は何も話して無かった。 この年の当選者は15名, 私が最年長で, 男性 8 名, 女性 7 名, これに付き 添いとして東京支社の脇坂満智子さんという英語の達人が加わった。 6 月28日成田に集合, 翌早朝英国着, ホテルの用意が出来 るまで, ロンドン市内の見物に向かった。  その晩はミュージカル 「キャッツ」 の観劇である。 始まったばかりなのにひどく評判のよいミュージカルなのだが, 残念なことに前夜機内でよく寝ていないので, 半分は夢うつつのうちに終わってしまった。
 翌日からウィンブルドン通いである。 地下鉄を降りるともうヤミ屋の行列である。 6 月30日から7月3日までの間, 女子単の準決勝と決勝, 男子単の決勝が主でその間にダブルス, ミックスなどが入る予定だが, これはあくまで予定で, 雨の多いウィンブルドンでは予め余裕のあるスケジュールが旅程に組んであった。 幸いこの年は晴天に恵まれ, 旅程のゆとりはシェークスピアの家や古いお城 (写真), 国会議事堂などの見学, 買い物に充てられ一同ご機嫌だった。  一行16名がズラリと並ぶ席は取れないから, 席の割り当ては毎日抽選で決める。 しかしどこの席もよく見えるし, 400ミリの望遠レンズに感光度の高いフイルムを使えば, どこからでもよい写真がとれる。  写真 (p.20) は第 1 コートの切符である。
 南側の屋根のあるスタンドの W 列13番で, 雨天でも払い戻しなし。 このテニスクラブの正式名はつぎのように長い, The All England Lawn Tennis & Cliquet Club, Winbledon. である。
 ゲームは毎日 2 時から始まる。 しかし毎日11時にはネクタイをつけて集合のことといわれ, テニス見物にネクタイは 要らないと思ったが, これには理由があった。 それは場外の大テント (写真) の中で, シャンパン付きの豪華な昼食が 出るのである。
 しかも, お隣のテーブルにはハリウッドの女優さん, 次のテーブルには英国の王室の方々が座るというので, ネクタイが必要になってくる。 初日にはスイスのロレックス本社から社長さんが見えて歓迎の挨拶をされた。 年長のゆえに私が答辞を述べることになり, フランス語で簡単な挨拶を述べた。 この食堂は昼食の時だけでなく, 英国流の Tea の時間になると, 試合がどんなに白熱化していても, またゾロゾロと大テントに集まり, 紅茶と苺 (ウィンブルドン名物) などが出て来るのだった。 昔ケンブリッジ大学の生化学教室を訪ねたら, ここが Tea room で, ノーベル賞の Sir Gowland Hopkins の一番好きな部屋だったと言われたのを想い出した。 Tea time の休憩は大テントのお客さんだけであるが, 生粋の英国人なら, Tea の習慣をぬかすはずもないので, 座席に座ったままで Tea を飲むのだろうか。
 ロレックス社は写真にも出ているように公式計時板を持っているだけにこの大会の昔からの大スポンサーだから, 大テント内によい席を確保している。 ここに来ると, 何か日本の大相撲の相撲茶屋の感じだが, 下らないお土産の 袋は出なかった。
 この年の男子はマッケンローが大活躍でボールを自在に操ってとうとう優勝してしまった。 女子の方は少し盛りを過ぎたといえキング夫人が強く, 危なげなしに勝ってしまった。 (写真p.21)  悪童マッケンローもイギリス王室のプリンスから優勝カップを受け取る作法などは立派なもので, この人の育ちの良さがにじみ出ていた。 (写真p.21)  雨にたたられず予定通りトーナメントが終わったので, ロンドン滞在に余裕が出来た。 一同そろそろ和食が恋しくなりだした頃, 私は予めその頃顧問をしていたサントリーから同社のレストランのロンドン支店で 8 人分の会食券を貰っていたので, 脇坂さんに相談して, ある日の夕食をレストラン・サントリーに設定した。 ところが, 人選が難しいので女性全員に私が付き添いで 久方ぶりの美味しい和食を堪能してホテルに帰った。 ところがである。 英語の不得手な数人がまだ夕食前でロビーでお腹をすかして 待っているではないか。 ようやく食堂に案内し, 注文までして勘弁してもらった。
 ロンドンのホテルではある夜, 火事騒ぎがあった。 まず警報のベルが鳴ったので, ドアを少し開けて廊下の様子を見たが, 煙もないし, 他の部屋の人達も間違いだろうという。 そのうち, 2 回目の警報が鳴り, 消防自動車のサイレンも聞こえるので, これは本物と洋服に着替えて廊下にとびだした。 各部屋とも大騒ぎで, 外人連は裸の上にベットのシーツを羽織ってシーザーの ような格好で, 我先にと出て来る。 結局玄関まで行ったら, 間違いとわかった。 この騒ぎの収穫は外人はパジャマを着て寝る人 は少なく, 裸で寝る人が大部分だと分かったことである。
 帰国後このことをある外人の男性ばかりのパーティで話題にしたら, 少なくとも夏の暑い時は裸だよ, シーツはそのためにある のだといわれた。  楽しかったロンドン滞在の最後の夕食は Savoi ホテルでロレックス・ロンドン支社長主催のフェアウェルパーテイーがあった。 今度も年長者故に挨拶は私で, 相手はスイス人ではないから, 私には苦手の英語でしなければならない。 英語なら脇坂さんに通訳 して貰えばいいのだが, やはり参加者の直接のご挨拶が欲しいといわれて, 英国滞在中の失敗談を交えながら, どうやら責任を 果たした。 豪華な夕食後, ダンスが始まり, ロンドン支社の人が山形出身の美女にダンスを申し込んだが 「花笠踊りのほかはお どれねーす」 と断られたのを, どうやら説得してホールに引っ張り出すのに成功した。 後で大分恨まれたが Savoi ホテルの花笠踊 りは前代未聞であった。
 このウィンブルドン見物の話は定年後も相変わらず忙しい Arthur Kornberg には気の毒だから伏せておいた。 ところが, どこからか私のウインブルドン見物の噂がアーサーの耳に入り, 「俺との試合の話しを種にウインブルドンに行けたのだから, お土産くらいはあってもいいだろう。」 という。 さて彼に適したウインブルドンからのお土産は何がいいだろう。 考えてみても, 思い浮かばない。  今年 (2001年) もアーサー夫妻は講演旅行で東京に現れた。 テニスの代わりに朝食会をするのがここ数年の習わしになっている。 (写真) アーサーはめざとく私の腕のロレックスを見付けて, 奥さんに 「ヨシアキはあの時計のお陰でウインブルドンのテニス・トーナメントを見物できたのだよ」 と説明していた。


(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第13章 御所でのテニス
 1993年の 2 月に私の旧制高等学校 (大阪高校) 時代の友人で, 同じ専門の生化学者の早石修君 (京大名誉教授) が私を赤坂 御所の夕食の会に誘ってくれた。 これは,この年宮中のご講書始めの講師が早石君で,プロスタグランジンのことを申し上げたら, 皇后様がもう少し詳しく聞きたいと言われ, 仲間も誘ってくるように, との思し召しによるものである。  定刻に御所に伺ってみると, 私たち科学者 3 人 (早石, 三浦のほか,薬学の柴田承二君) のほかは陪席者は誰もいなくて, 食事の席でも, ボーイさんは食事を運ぶともう下がってしまい, 後は両陛下と私たち以外は誰もいなくなる。  食事の時はあまり科学の話題はなく,当たり障りのない普通の話題だった。 しかし,食後に別室に移ると,初めて今日の主目的である, 各々が今興味を持っている研究が話題となった。  私は癌の生化学的研究のことのほか,両陛下ともテニスがお好きだからテニスプレイヤーのカロリー消費量などのことを申し上げた。 これはスポーツ栄養学をアメリカで専攻して帰国したばかりの橋本洋子君と共著で書いた, 「スポーツ栄養」 の初版が杏林書院で発行される直前だったから, 特に話題に取り上げたのである。   ラケットスポーツと総括されている競技にはスカッシュ,テニス,バドミントン,ラケットボールが含まれている。 このうちで, もっとも運動量の大きいのはスカッシュで,1時間で600〜800kcalを消費する。 テニスの場合,シングルスの練習では 1 時間に450kcal (女性では300kcal),ダブルスの練習では300kcalのエネルギーの消費がある。  
試合になるとどれだけ走らせられるかによって, 消費カロリーは違って来るが, ボールを打つだけでは走るエネルギーの13しか使われない。 バドミントンはコートが狭いから走る距離は短いが, 運動量は大きく 1 時間に350kcal のエネルギー消費がある。 ラケットボールは歴史が浅いのでまだ研究は少ないが, 常に動き回るので, 1 時間に最高850kcal 位は消費するのではないかと言われている。 テニスは格闘競技ではないが, サッカーと同程度のエネルギー消費があるものと考えられると申し上げた。  
テニスの話は両陛下ともご自身の経験がおありなので大変興味をお持ちだった。 時間が来て退出する時に 「今度はテニスを致しましょう」 とのお言葉があった。 内心本当かしらと思ったが, 7 月になって, 侍従からお電話があり, 「サミットも無事終わったので, お暇がお出来になったから, お約束のテニスを」 とご招待があった。  
 赤坂御所には 3 面のクレイコートがあり, 簡素なシャワールーム付き更衣室もある。 周囲は森に囲まれ覗かれる心配はない。 しかし遙か彼方のホテルニュー
オータニの展望台から望遠鏡で見れば, 誰がテニスをしているか位の判別は付くのではないかと思われる。   5, 6 人のテニス仲間とトスをしたら, 私が陛下と組むことになった。 陛下はボレーはあまりお得意ではないが, バックラインからバックラインへの返球は正確無比なので, とうとう私たちのペアが全勝してしまった。   普段は私は少し遠いボールは 「頼む」 とパートナーに声をかけて自分は走らないですますが, まさか陛下に向かって 「頼む」 とも言いかねたので, 大分疲れた。 しかし折良く皇后様がお出ましになったので, 代わって頂いた。   皇后様は関東学生にもご出場のご経験もおありで, スピードのあるボールではないが, 確実なミスのないボールで, 両陛下組はまたも全勝してしまわれた。 日が大分傾いて来たので, テニスはここまでにし, シャワーを浴びてからお住居に伺った。 夕食の時には紀宮様も加わって賑やかな会になった。 この時は和食で, テニスの後だけにビールも一同でよく頂いた。 私は少し手元が狂ってお吸い物を膝の上にたらしたら, お隣の紀宮様が布巾で拭いて下さり恐縮した。  
 この夕食の席は学問の話は勿論出ず, 笑い声の絶えない普通の家庭の夕食に招かれているような, 肩の凝らない楽しいものだった。 陛下はビールはご自身は一杯だけしか召し上がらないが, お隣に座っている私にしきりとビールをお勧めになる。 こんなに頂くと帰りに飲酒運転で捕まることもあろうし, 第一トイレは何処でしょうと陛下にお尋ねするわけにもいかない。 ご夕食後もこのことが気になって落ち着けない。 9 時になって侍従が現れてそろそろお時間で御座いますと告げると, 他の人たちもご挨拶もそこそこに, トイレはどこでしょうとキョロキョロと辺りを見回している。 ようやくお玄関の横にトイレを見付けて駆け込んだのだった。 御所のトイレは玄関脇と覚えておくといい。  
 トイレの場所が分かっているとこんな場合にも慌てないですむ。 私がサントリーの生物医学研究所の顧問をしていた時, スウェーデンのグスタフ国王が見学に来られ, 終了後大阪の大和屋で歓迎会があった。 これも無事終わってホテルに帰り服を脱いでいると, 国王からお電話でホテルのバーで待っているとのこと。 行ってみると国王とお付きの海軍大佐がご機嫌で待って居られた。 私のコップにビールが注がれると, 国王が 「日本海軍のためにスコール」 と杯を上げられた。 国王は私が以前海軍軍医大尉であることを予め差し出してあった経歴書からご存じだったからである。 このホテルではトイレがどこにあるかは知っているので安心して飲めると腰を据えた。 トイレの所在を知るのは重要なのである。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第14章 ラケットの変遷
 ウッド・ラケット
 私が初めて自分のラケットを買ったのは旧制中学の終わり頃だから, 1930年前後だったと思われる。 硬球用のラケットで中学生がお小遣いで買えそうな値段のものは殆どがフタバヤかカワサキのもので (写真 左端), 店の奥にあるアメリカ製のウイルソンなどの品はデザインがよくて買いたいのだが, 中学生には手が出ない。  
 初めて硬球のテニスを習ったのは叔父の別荘があった新那須のコートだが, ここでは自分のラケットではなく従兄弟のものを借りて打っていた。 旧制高校ではテニス部に入りたかったが, やかまし屋の兄がテニスは胸膜炎をおこすもとだと変な理屈をつけて父に言いつけ止めさせられた。 しかし東大医学部に入学してからは, もう兄のいうことなど聞かず念願の硬球のテニスをするためにお茶の水テニスクラブの会員になった。 このクラブは順天堂が土地を貸しているテニスクラブで, 会員の大部分が東大の学生だった。 当時の順天堂の佐藤達次郎院長は80歳近いお年だったが, 時々コートに現れ, 自分の近くに来たボールだけを打っておられた。  
 この時代のガットはシープ (羊の腸) だから切れやすい。 ガットの修繕代が学生には大きな負担だった。 そしてガットを張ったばかりのラケットは頑丈な木製の枠に固定して置かないと直ぐに捻れてしまうのだった。 木製ラケットの時代はその後40年近くも続いた。

 メタルラケットの出現
 1967年の 9 月の終わりにインディアナポリスのインディアナ大学で酵素調節のシンポジウムが開かれた。 このシンポジウムは毎年開かれ, 若手の研究者とノーベル賞受賞者との交流の場になっている。 それはインディアナ大学のゲストハウスに 3 − 4 日全員が泊まり込みなので, 3 度の食事, お茶の時間等に自由にデイスカッションできることが大きな魅力になっている。 この年日本からは徳島大学酵素研の勝沼信彦教授が参加されていた。 勝沼教授は有名なテニきちさんだが, 私の顔をみるなり 「インディアナポリスのテニス専門店にはまだ 3 本のウイルソン社の新型金属枠ラケットが残っているそうです。 買いませんか ? そのうち 1 本は私が既に予約して, ガットを張らせていますから後 2 本余っています。 ニューヨーク, ワシントンなどではもう売り切れで, 手にはいりませんでした。」 としきりに勧める。 シンポジウムの終わるのを待ちかねるように, 勝沼君と彼の友人のジェンキンス君とでダウンタウンのテニスショップを訪れた。  
 行ってみると, ピカピカ光るお杓文字型のラケットが 2 本並んでいる。 このラケットには重さが重, 中, 軽の 3 種があって, すでに勝沼君が買った 「中」 にはガットが張られている。 私は家内の分として 「軽」 を買った。 ガットなしで$32である (写真 左から 2 本目)。 もう 1 本私の分も欲しかったが, 手持ちのドルも残り少なだし, 重さとグリップが私に合わないので諦めた。 この新型はその年の 8 月に発売されたもので, アメリカでもプロ以外はまだ使っている人は少ないという。 したがって, おそらく日本では勝沼, 三浦が最初の輸入者になる。 そうなると何処でガットを張らせるかである。 このラケット用のガットはシープではないから, そんなに頻繁に切れはしないが, 張り方の手順も今までと違えば, 張力も違う。 日本で張るときのために張り方のマニュアルももらってきて, 帰国後伊勢丹のテニスショップで張ってもらった。  
 以後の旅行は新型ラケット持参で, いささか気恥ずかしかったが, サンフランシスコ空港から乗ったパンアメリカンの機内では隣のアメリカ人から始まって, 珍しいラケットはとうとう機内を一巡した。 アメリカ人の物好きとテニス好きのせいもあるが, 手から手に渡ってなかなか私の所に帰ってこない, やがてスチュワーデスがニコニコしながら, プロ選手らしからぬ私を捜し出して大旅行をしたラケットを返してくれたのである。  
 ガットを張り終わって, 初めて神宮コートでボールを打ってみて驚いた。 すごく飛ぶのである。 それにボレーはピシッと決まる。 私はテニスが優美なゲームから脱皮して, 超スピードのサービスとボレーで決まる, 格闘技のような競技になったのは, 金属ラケットとハードコートの出現以後の事だと思う。

 その後のラケット
 金属枠のラケットの寿命もそう長くはなかった。 一度ラケットの素材の改良に火がついてみると, 後はプラスチックで色々のものが出来はじめた。 中でも大きな変化はデカラケの出現である (写真右 2 本)。 金属ラケットでガットを張った部分の広さに大した規制がないことがわかると, その面積が広がれば返球の確率が高まるから, 当然の帰結としてデカラケが出現する。 柄の長いものも出たが, 何となく美的感覚に乏しく, あまり使われていない。  
 その内にテニスのブームが去った。 デパートのラケット売り場がなくなった。 テニスコートの新会員は若い女性でなく, おばさまでもなく, おばあさまになって来たのである。 こうなると新型ラケットの売れ行きも当然落ちる。  
 元来ラケットはテニスクラブのロッカーにしまって置くものだったのに, ブームの頃はクラブの行き帰りに持ち歩くのが流行し, よいデザインのラケットがはやった。 しかし, この風潮にマイナスの効果を与えたのは, あのバカでかいラケットが入るバッグの流行である。 バッグはせっかくのラケットのデザインを見えなくするだけでなく, 大きくて重くて, 女性向きではない。 アメリカのようにクラブの往復は自動車を使う国の真似をしたのが裏目に出たのである。  ガットとコート
 腰に手拭い, 頭に手ぬぐいで鉢巻きという軟庭族の小父様のテニスは別として, 硬庭は元来, 芝生のコートから生まれたもので, Lawn tennis というのが正式名である。 全米, 全仏, 全豪などのテニス大会は Lawn tennis の大会ではないという人もいる。 シープのガットで張ったラケットはボールに微妙な回転を与え, 打ち方によっては芝の上で全くバウンドしないドロップボールさえ生まれる。 Lawn tennis だけがテニスだと言う人はシープガットの使えない金属ラケットの時代から本当のテニスではなくなってしまったと嘆く。 本当のテニスは木のラケットにシープのガット, 白いボールでプレイするものだといっている。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


おわりに
 暁星時代や大高時代の思い出を綴るのは楽しかった。 それでも, この時代のことを生き残りの学友の方々に確かめてもハッキリ としたご返事がもう頂けなくなりつつある。 それでも記憶が薄れないうちにこんな形で書き残すのは必要だと自分を納得させて書い てみた。 たとえば, ビー玉遊びのルールなどそのまま忘れ去っても構わないことかも知れないが, 誰か後の世に昔の子供の遊びについて執筆される時に役に立つかもしれない。  
 東大医学部以後の記憶はいつも "戦争" の影がつきまとう。 多くの人生をメチャメチャにした戦争は百害あって, 益のないものだがこれをひき起こした軍人の責任は戦犯の裁判だけで終わるものではないと思う。 大学生の時代, それに続く軍隊の時代の記述は私の文章力では, その悲しみを伝えるには不十分だから, 表面の事象だけをさらりと述べるにとどまった。 幸いに私は命も失わず, 家も焼かれず, 他の学友達に比べれば格段に優遇されて, 戦争時代を過ごしたが, やはりあの時代は暗いことばかりだったと思う。  
 最初, 戦後の研究を書くつもりはなかったのだが, 一緒に研究した人たちの中には, 何故あの時代にあのようなテーマ で研究したのか分からないという人もいるので, 私の言い訳を書いた次第である。
 研究の好し悪しは棺の蓋を閉じてもまだ分からないと言われている。 しかも研究の評価はその時の世情にも左右される。  
 先日も昔の友達から, 「ハンセン病に有効な薬品プロミンが抗酸菌によく効くことを最初に見付けたのはあなたでしょう, あれはあなたの研究のうち最大の功績です」 といわれた。 当時あの研究は研究費欲しさに行ったものだったが, 研究費を出して下さった石館教授がハンセン病にプロミンを試されて, 初めて人に有効なことを認められたので, 私の功績ではない。 しかし今日では, ハンセン病患者の訴訟に対して, 政府が控訴を諦めて以来, 急に世間のこの病気に対する関心が高まり, 私の研究まで改めて見直す人も出て来たのである。 この研究は生化学の雑誌に発表されたが, むしろ内容は薬学領域のものである。  
 この本の終わりの 「私の球暦」 の章が一番面白いという読者もある。 テニスは私の道楽みたいなものだから, 気楽に書いたせいだろう。 テニスの友達も各方面の人がいて雑談が楽しい。 テニスコートまで来て, まだ学問の話しをしている学者は世間知らずだと思う。  
 この本の姉妹編に 「20世紀のわが同時代人」 という短編集がある。 「千葉医学」 に1999年の 2 月から2000年12月まで連載した Who's Who 風の35人の記録である。 日本での師友のほか外国の生化学者も含む。 別刷りは200部あったが, 好評で請求が多く, 手許に 2 部残るだけである。             
 この本が完成するまでに大勢の方にお世話になった。 パソコンの機械を買い, 組立てそして最初の手ほどきをして下さったのは共立女子大でパソコンを教えている橋本洋子さんで, 原稿に写真を入れ, 編集をして本の体裁を整えて下さったのは脳神経外科医の坂田隆一君である。 また原稿に目を通して頂いた方はかなり多いのでお名前は略させて頂く。  記して感謝する次第である。

2001年 7 月15日

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
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