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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 79 (6) :229-269, 2003

総説
生殖生物学と生殖医療
 年森清隆(和文・PDF)
国立大学の法人化後における司法解剖のあり方について
 岩瀬博太郎(和文・PDF)

学会
第1059回千葉医学会例会・第2回呼吸器内科例会(第16回呼吸器内科同門会)
第1060回千葉医学会例会・第10回千葉泌尿器科同門会学術集会
第1071回千葉医学会例会・第5回環境生命医学研究会

研究報告書
平成14年度猪鼻奨学会研究補助金による研究報告書(和文・PDF1.2.3)

雑報
ゲッティンゲン便り(]V)−Alexander von Humboldt財団−
 高野光司(和文・PDF)

編集後記(和文・PDF)

 
   
  生殖生物学と生殖医療
年森清隆  千葉大学大学院医学研究院形態形成学


 配偶子の形成から成熟に至るまでの過程は長い時間を要するが,受精過程は極めて迅速に進行し,初期発生につながる。その過程は形態学的,生化学的そして生理学的に興味ある現象を含む。歴史的には形態解析が先行し,近年,特異的なプローブを用いた分子細胞生物学的手法によって多くの関連分子が発見され,関連遺伝子も次第に判明してきている。臨床的には1992年以来,精子を直接卵子内に注入する補助生殖医療も行われている。しかし,不妊カップルが新生児を得るにはまだ問題も多い。この総説では,卵子活性化に至る精子側の変化を概観し,近年の生殖生物学と生殖医療について触れる。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  国立大学の法人化後における司法解剖のあり方について
岩瀬博太郎 千葉大学大学院医学研究院法医学教室


 司法解剖は法医学という医学領域にとって不可欠な業務であるだけでなく,社会的にも非常に重要な役割を担っている。しかしながら,その経費に関しては,改善されるべき問題があったにも関わらず放置されてきたのが実情である。近年,犯罪は増加傾向にあり,司法解剖の数は増加してきているが,司法解剖の経費を巡っては,司法解剖が文部科学省に所属する職員の公務であるという建前の元に,嘱託者から大学に,解剖やその他鑑定に必要な諸検査の必要経費が納入されぬまま放置されてきた。そのため,解剖数が増加してきたのに,人員は文部科学省の行政改革の名の下で削減され,解剖関連設備の充実化もなさないという結果をもたらした。また,元来,鑑定業務は時間のかかる業務であるので,人員削減がなされたために,本来の大学院大学としての研究・教育業務に従事する時間が減少してしまう結果になった。来年度から国立大学は法人化されるが,これを契機に,大学法人は経費を嘱託者に請求するなどして,経費の問題を解決すべきであると考えられる。


(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  ゲッティンゲン便り(]V)−Alexander von Humboldt財団−
高野光司  ゲッティンゲン大学医学部教授


 Alexander von Humboldt(AvH)財団は1953年12月創立なので,今年で50周年になる。もっとも,同名の財団は,Alexander von Humboldt (1679-1859)の没後翌年に英国のロイヤル・ソサエティー,St.ペテルスブルクの科学アカデミー,プロシア皇帝によりベルリンに設立され,ドイツの研究者が,外国へ研究旅行に出るのを援助した。第一次大戦後のインフレイションで,基金を失ってしまったので,1925年に再建されドイツに留学して博士論文の仕事をする外国人研究者を援助した。  

 三度目の再建による現在のAvH財団は,30歳以上(医学では)40歳以下の博士号を持つ外国人を対象にしている。国籍,宗教,思想の如何は問わず,学問上の資質のみを選考の規準とする,としている。  
 この50年間に世界130の国から,23,000人がこの財団の給費生としてドイツに滞在した。この給費生とOBをフンボルティアーナといっているが,このなかから出身国で,あまたの学問上の指導者はもちろんのこと,大統領,首相をはじめ政府の要人になっているものの数知れず,ノーベル賞受賞者も34人を数える。  
 千葉大学医学部でフンボルティアーナになったのは,1958-60年に,萩原彌四郎(S23卒,敬称略)がハイデルブルク,マールブルクに,63-65年には寺尾清(S32卒)がボンに,高野光司(S33卒)がゲッティンゲン,上山滋太郎(S33卒)が68-70年にハイデルベルクに,小山明(S35卒)が78-79年にエッセンに,中島祥夫(S46卒)がミュンヒェンに留学した人々等である。  
 AvH財団のPfeiffer前総書記の「フンボルティアーナの推薦状はおおいに尊重する」という言葉に励まされ,生理学の故中島教授の場合には,推薦状を書いた。日本を離れてしまったので,40年卒以降のことはこれ以外はわからない。本誌編集委員にお知らせくださり,委員が編集後記にでもお書き下さればありがたい。  
 秋はドイツの何処かの大学町で,初夏は首都ボンで大会が開かれた。ボン(現在はベルリン)では大統領官邸に招かれ,給費生夫妻全員が握手をして,大統領に挨拶した。私の時代,東京オリンピックの頃だが,日本人の給費生の数は各国中で一番多く,全世界からの給費生の24%を占め,前年度と本年度採用の留学生の数は200人を越え,夫人たちは着物を着てくる人が多いので,日本色に溢れてとても華やかであった。80年代の前半までは,日本人の数は三位を下らなかったろう。  
 30歳以下の留学生にはDeutsche Akademische Austausch-Dienst(DAAD)によるものがあるが,これもなかなかの難関であった。十倍くらいの筆記試験を通って,千葉から中山(S29卒),内海(S30卒),高野の3人が面接受検6人の中に残り,医学からは3人が行けるというのに,千葉の全員が不合格になるという残念な思い出もある。  
 今は,日本からのAvH財団,DAAD留学志願者も激減してしまった。ドイツ大学長会議というのが主催して,「なぜ日本から留学生がこないか」というシンポジウムが95年ころ開かれ,私も招かれた。  

 明治,大正,昭和初年時代には,日本はヨーロッパを学問の先達として学んだ。20世紀後半に入ると日本の学問のレベルも上昇して,ヨーロッパとの格差は少なくなった。それにも関わらず,私の年代が,例えばドイツにあこがれたのは何故か。かつてのドイツの学問には理想主義があった。日本の研究者は,その理想主義を良しとしたから,ドイツに憧れたのであろう。  
 近年,ドイツの学問の理想主義は衰退に向かった。日本の若い科学者は理想主義をあまり尊重しなくなった。それが,日本からドイツへ行く留学生が激減した原因であろうと思う。こんな偉そうなことを書く資格が,私には無い事を承知してはいるが,私自身がシンポジウムでも述べたので敢えて書いておく。  
 累計で日本人とほぼ同じくらい多いのはアメリカ人である。前記34人のフンボルティアーナにしてノーベル受賞者の3分の2はアメリカ人である。このアメリカ人たちは何故ドイツでも研究したのか。ドイツをブッシュ大統領のように「古い国」とは考えていないのだろう。ちなみに日本人では,物理学賞の小柴昌俊氏がいる。  
 Alexander von Humboldtも二歳上の兄Wilhelmもベルリンに生まれた。アレキサンダーは,ナポレオンとおない年である。兄弟ともにゲッティンゲン大学に学んでいるが,この時1789年のフランス革命があった。大数学者ガウスは5年ほど後輩になるので,共通の先生達がいる:ゲーテも尊敬した古典学者ハイネ,人類学の祖ブルーメンバッハ,物理学者リヒテンベルク,化学者グメリンなど。兄のウイルヘルムは言語学者としても一流であったが,大学前(ギムナジウム,大学入学を前提とする教養教育)及び大学教育精神を明確にした。今日でも「フンボルト理念」として,その精神は受け継がれている。少なくとも教育改革の際に必ず議論の題材になっている。当時,ベルリンには大学がなかったが,兄弟が学び,学問の自由をモットーとするゲッティンゲン大学を模範とする1910年のベルリン大学の創設に際してウイルヘルムは中心的存在であった。当初,彼は,大学の国家からの自由と独立のために,王立大学ではなく,今の日本の国立大学が実行しようとしているように独立法人としようとしたが,時代が早すぎたのか,実現しなかった。  
 ゲッティンゲン大学は2003年1月1日から法人化された。1737年創設のゲッティンゲン大学は,王立大学ではあったが,王の権力の及び方が少なくなるようにと,都ではなく,王国のはずれの,三〇年戦争で荒廃していた小都市に創設されたという経緯もある。  
 さて,アレキサンダーはゲッティンゲン大学創立百年に建立されたアウラ(大講堂,250年祭には井出学長もここで挨拶された。私の退官記念音楽会もここであった)の建立記念講演で,「この有名なゲッティンゲン大学から,私の教養形成において高貴な部分を受けた」と述べている。  
 ゲッティンゲン時代の終わりに,アレキサンダーはクック船長の第二回大航海に従ったGeorg Forsterと共に,ライン川を下り,オランダ,ロンドン,オクスフォード,パリなどに半年の旅行をした。これは,後の南アメリカ学術探険旅行の予習になったといえよう。  
 1799年から1804年にかけて,3回,合計4年あまりを,前記の大旅行に費やした。地理学的測定,地磁気の測定,植物,動物の観察,民族学的調査など,その学術的収穫は膨大なものであった。これによって,19世紀前半の最大の地理学者,博物学者として見られるようになった。  
 ゲーテやシラーとの交際もあった。ゲーテは「フンボルトとの1時間の会話は,1週間の読書にまさる」と言ったという。  
 フンボルトの業績の中で,我々医学徒に関係の深いことは,彼がヴェネズエラのオリノコ河の上流付近で,原住民の吹矢の毒,クラーレを手に入れてヨーロッパに持ち帰ったことである。彼は最初クラーレは神経に作用すると思ったが,後に,実験してみると,神経には作用しないということがわかったそうだ。このことに関しては,彼の原文にあたって見ようと思っている。  
 旧西ベルリンから,ブランデンブルク門を通って,東へウンターデンリンデン通りの右側を5分も歩くと,ウイルヘルム・フォン・フンボルト大学(通称ベルリン大学)の前に出る。入り口の両側にフンボルト兄弟の像が立っている。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
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