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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 81 (3) :83-141, 2005

原著
胸腺T細胞分化におけるポリコーム遺伝子の特異的発現
川平千絵 (英文・PDF
 
研究紹介
環境労働衛生学
 能川浩二 諏訪園靖 小林悦子 上谷実礼 (和文・PDF

精神医学教室
 橋本謙二 伊豫雅臣 (和文・PDF

複合的脳機能診断スクリーニング機器の試作
 下山一郎 (和文・PDF

生殖機能病態学(産科婦人科学)
 関谷宗英 (和文・PDF

ストレス防衛反応・睡眠時無呼吸とオレキシン
 桑木共之 下山恵美 中村 晃 張  薇 渡部慎司 Deng Ben-Shiang 福田康一郎 (和文・PDF

がん性神経障害性疼痛の基礎研究
 下山恵美 下山直人 山田寛明 渡部慎司 桑木共之 福田康一郎 (和文・PDF

脳・脊髄はなぜ再生しないのか?
 山下俊英 藤谷昌司 羽田克彦 (和文・PDF

小児外科学
 大沼直躬 吉田英生 (和文・PDF

基礎病理学
 廣島健三 中谷行雄 (和文・PDF

エッセイ
最終講義(1988. 2)の補習
 大谷克巳 (和文・PDF

学会
第1101回千葉医学会例会第22回神経内科教室例会 (和文・PDF
第1107回千葉医学会例会第8回 環境生命医学研究会 (和文・PDF

編集後記 (和文・PDF

 
   
  胸腺T細胞分化におけるポリコーム遺伝子の特異的発現
川平千絵  千葉大学大学院医学研究院 1)基質代謝治療学, 2)免疫発生学


  ポリコーム遺伝子群は,ショウジョウバエや脊椎動物においてホメオボックス遺伝子の発現を制御することは良く知られているが,免疫系においてもリンパ球の細胞周期の調節やT細胞,B細胞の分化に重要な役割を果たしていると考えられている。ポリコーム遺伝子群は細胞内にクロマチンに結合する巨大なタンパク複合体として存在し,その構成タンパクの組み合わせにより,polycom repressive complex (PRC1) 1 (PRC1) とPRC2の2種類に分かれる。Bmi1, Ring1B, M33, mel18はPRC1を構成し,Enx1とeedはPRC2を構成する。我々は半定量的PCRを用いて胸腺細胞の分化過程におけるポリコーム遺伝子の発現量の変化を検討した。その結果,PRC1遺伝子は分化の過程でその発現量に変化が認められたのに対し,PRC2遺伝子においてはほとんど変化が認められなかった。これらのことより,胸腺T細胞の分化においてPRC1遺伝子が重要な役割を果たしていると考えられた。
 
   
  複合的脳機能診断スクリーニング機器の試作
下山一郎 千葉大学フロンティアメディカル工学研究開発センター脳機能計測解析研究部門


  脳の基本機能から高次機能までの多機能を簡易・迅速にスクリーニング可能なコンパクト機器の開発を試みた。視野・聴覚・発語機能・皮膚感覚・小脳機能・姿勢保持機能の6項目を反応時間で数値化し,これらの組み合わせから,6基本機能のみならず,各機能間の連合・統合・高次機能(読字・文脈理解・短期記憶)を推測できるようにした。コンピュータ液晶画面で中心/周辺視野検査を行い,ヘッドホン片耳ずつクリック音により聴覚検査を行い,口唇/舌先端/舌奥音を発声し発語機能を検査し,振動子により手掌の振動感覚を検査し,人差し指反復交互叩打による小脳機能検査を行い,重心動揺計により姿勢制御機能を計測できるコンパクト機器を開発した。
 
   
  最終講義(1988. 2)の補習
大谷克巳  千葉大学名誉教授


 1)教育用骨格標本の作製
  私はあなた方の「おじいさん」と同じ年頃,大正11年6月10日生れです。
  昭和21年9月に旧制の金沢医大を卒業し,すぐ東大の脳研究所に入室しました。昭和29年恩師の小川鼎三先生の命で群大助教授として第二解剖教室に勤務しました。当時は社会の要望が強く,いくつかの医大が新設されました。群大の学長は東大解剖学教室出身の名誉教授の西成甫先生で,先ず解剖学教室から埋めてと言う事になったそうです。第二解剖の滝沢教授はあいにく肺結核で病床にあったので,私は肉眼解剖を担当せざるをえませんでした。幸いに大原義雄講師(当時助手)が誠心誠意助けてくれ,また第一解剖の伊東俊夫教授(後に伊東脂肪細胞で学士院賞を受賞),および吉村不二夫助教授(後に慈大教授,解剖学会理事長)に面倒をみていただき,無事任務を果たすことができました。
  
 群大での思い出はいくつかあるが,そのうちの一つは人骨格標本の作製でした。それは新設医大の悲哀であったが,教育用の人骨格がないので解剖体の中で既に了解を得てあるもの,あるいは野晒しで検視を経た放置骨から作るために,大きな瓶に骨を入れ,水道水を絶えず流し晒していました。この瓶ではいつも体長2pほどの蛆が動き回っており,それは骨についていた軟部組織をきれいに嘗め取ってもらうためでした。ところがこの蛆が溝づたいに隣の風呂場に入り,伊東先生と私が入る五衛門風呂の中で煮えていました。私の役の一つは蛆を取り除いてから伊東先生に風呂が沸いた事を知らせる事でした。伊東先生も心得たもので「今日の収穫はどうでしたか」と聞かれました。晒した骨は一層乾燥させるため仮の交連後,実習室の天井から吊るしました。当時の群大は女学校の払下げ校舎で,前述の風呂場に行くには実習室の解剖台の間を通らねばなりませんでした。赤城颪は誰もいなくなった実習室の骨をカサカサと泣かせました。
 私は昭和32年2月に千大第三解剖の助教授として群大から転勤しました。講座担任は草間敏夫教授で,私は東大脳研に在職中,当時の草間助教授に自律神経系の指導を受けていました。草間先生は当時の小池敬事学長の後任で肉眼解剖の担当でした。教室の始めの世話は三橋公平助教授(後の札幌医大教授)がしてくれました。教室に来て驚いた事はみごとなまでに晒してあった百体を超える人骨が整備されていた事です。私はこれを「小池コレクション」と名付けました。小池学長が,教授の頃に教室をあげて作製されたからです。三橋助教授が管理しており,私が教授になってからはおびただしい動物骨格も含めて,骨の一切を私が管理する事になりました。小池コレクションは関東人,さらに日本人の骨格の規準として研究者には解放しましたが,他には触れさせませんでした。ただ一つの例外は札大の三橋公平教授が札大の骨(アイヌ人骨)と比較研究をしたいとの希望があって札大に送った事です。勿論,この時には厳しい約束書と人を付けて送りました。前述の如く新設大学では教育用人骨が不足しており,小池コレクションの事を聞き,これをねらった不埒者もいました。しかし,私は断固として撥ね付けました。その後,文部省の命令で学生定員が5名増加された時がありました。この時,教材の不足分を文部省が購入してくれる事になり,解剖学教室では双眼顕微鏡の他,人骨3体を羽原骨格標本店から購入しました。解剖教室には既に実習用人骨として25体ありました。ところが学生は穴が気になるとみえ,鉛筆で穴をつついて拡げ,その他諸々が傷んでいました。  新たに購入した3体は南の貧しい国の綺麗に晒した,ほっそりとした女性の骨でした。私はそれを見た時,うら悲しい気持に包まれました。

(2)合成樹脂包埋標本
  私は昭和32年2月に千葉大に移ると,残された授業分担として泌尿生殖器を受け持つ事になりました。私は次のような事を質問しました。「男女を問わず,また,暖かい,寒いは別として放尿の最後にブルブルと震えるのはどうしてか。」  この質問に答える学生はおりませんでした。そこで,私は「最後の一滴をふりおとすための生理現象です。」と答えて,学生の爆笑を後に,この年の8月にロスアンゼルスのカリフォルニア大学(UCLA)に向かって出発しました。  敗戦後十年経ったが日本の復興はまだ充分でなく,アメリカの費用で留学させてもらえるなどと言う事は思いもよらず,非常にうらやましがられました。この留学は恩師の小川鼎三および草間先生のおかげによるものでした。  もう一言付け加えるなら,小川先生が東大助教授の頃,自律神経系の研究で世界的なシカゴのノースウェスタン(Northwestern)大学のランソン(S. W. Ranson)教授の下に留学されたのですが,その時,マグン(H. W. Magoun)助教授と将来の脳研究のあり方について意気投合されたとの事です。後日,UCLAの解剖学の大学院部長として転出されたマグン教授は小川教授に日本の脳解剖には機能学を取り入れる必要があるだろうから,あなたが推薦した人を毎年一人ずつ呼んであげると言われたとの事でした。その頃,マグン先生は脳幹網様体,特に上行性網様賦活系の研究で高次な精神現象の解明に突破口を開かれました。このため世界の神経学者達は,この後十年間をマグン時代,または網様体時代と呼ぶようになりました。従ってUCLAに留学できると言う事は夢のまた夢のような事でした。  

 UCLAでは,世界から集められた神経学者達はロングビーチのVA病院に付属する研究棟に入りました。ここには解剖学教室の主任のソーヤ(C. T. Sawyer)教授を始めとして数名の教授が週に2〜3回姿をみせ,その日はもちろん他の日も研究を続けられました。私はエルドレッド(E. Eldred)助教授の指導下で「筋紡錘の発射に及ぼす脊髄小脳路の抑制」について実験を続けました。隣の部屋は電気装置及び器具の修理室になっていて,主任のスイス系のロッド(W. Rod)がおり,私には特別気をつかってくれ,呼ぶと直ぐきてくれて修理あるいは使い方を教えてくれました。  私がいた第四棟の長い廊下の壁には,合成樹脂に包埋された人脳の多数の標本が並べてありました。研究棟の見学にきた多くの外国人は,この合成樹脂による標本に感心し,私にも質問がありました。そのうちこれらの標本が,私よりさらに数室先の部屋で作られている事がわかりました。その部屋の主任は黄色い頭髪の若いバウ(F. Hummer Baugh)でした。彼は親切にも包埋法を教えてくれ,私が実習できるようにと部屋の一隅をあけてくれました。また樹脂の入った罐もくれました。研磨法,失敗した時の修理法も習いました。合成樹脂による包埋法はアメリカの雑誌で数論文みました。しかし,よくわかりませんでした。また日本の解剖ないし病理学会で展示してある作品を見た事がありますが,包埋された材料は小さく,さらに樹脂の透明度が悪く,教材としては満足できませんでした。  

 日本に帰ってから早速製作にとりかかったがうまくいきませんでした。それはアメリカからもらってきた樹脂が自然重合をおこして固まっていたからです。そこでアメリカに注文し送ってもらうことになりました。しかし,船便で輸送している間に自然重合する可能性が高いからと断られてしまいました。あれこれ聞いているうちに,日本の樹脂は需要量が少ないので自然重合を防ぐためのハイドロキノン量が多い事がわかりました。日本触媒工業及びその他の樹脂会社に交渉したところ,3トン単位以上注文してくれるなら重合防止剤の少ない樹脂を作る事もできるとの返事でした。樹脂の高価な当時,それだけの量の注文はできません。また重合防止剤が重合樹脂を黄変させる事もわかりました。そこで2,3の樹脂会社の樹脂,重合剤および反応促進剤をもらい,これらを種々の割合に加え,加温して合成樹脂の硬度,色,その他を観察しました。この仕事は昭和36年に医学部を卒業した新井一夫君(後に君津中央病院産婦医長)が手伝ってくれました。[1-5]1p厚の人脳連続薄片,後には5p厚の人体横・縦断連続切片を,このようにして出来た重合樹脂に包埋しました。教育材料として展示した標本は解剖学会のみならず,医学総会およびその他で引っ張り凧となり,私は脳の研究者でなく,「プラスティックの大谷」と渾名がつけられてしまいました。

(3)杏の並木
 昭和55年頃の事です。病院の中央検査室の降矢震教授がブドウの絞り糟を堆肥とした土の中で発芽させた杏の苗木を10本ばかり持参して,どこか植える所はないかと相談にきました。そこで,体育館に沿って苗木を植えました。  私は神奈川県のサカタ農会から,さらに10本ばかり購入して医学部本館のまわりに植えました。苗は年々大きくなり,やがて5月には花が咲くようになりました。またそれは実を結びました。そこまでは良かったのですが,私が停年退職してから問題が生じました。それは,学生が杏の実を楽しみにしていたのに,大人も交えた近所のワル餓鬼が実を残らず取っていくと言うことです。次に杏の木の葉を丸坊主にしてしまうほど毛虫がついて傍らを通る学生の頭に落ちてくると言う事でした。

(4)牛頭天王塚[6-13]
 昭和53年4月の教授会で,文部省から長年待望していた30室の学生寮を建てるための1億3千万円が交付されたと本田良行学生相談委員長から報告されました。ところが,その敷地について問題が起こりました。それは七天王塚の一つの第5号塚を撤去するか,精神科に付属する小講堂を壊さねばならなくなったのです。事務部では小枝一本切っても祟ると言う伝承の塚を壊すというのでは信者達が承知しないし,また千葉県からは土木業者が得られないと言います。他方,精神科からは,たわいの無い祟説のため,医学部最初の鉄筋コンクリート建ての小講堂を壊させたとあっては物笑いの種であるから応ずるわけにいかないと言うのです。その結果,亥鼻・矢作の土地・建物の改変について責任を持つ事になっていた委員会に負託する事になりました。2ケ月の検討期間の後,私は  1.塚は世人が信じているほど古くはない。  2.木が祟るという伝承は昔からあるが,本塚の樹木もその一つにすぎない。  3.千葉市は史跡の乏しい地である。従って,伝承的にでも千葉氏と結びついたものがあれば,できるだけ保存すべきでないか。 と述べました。この答申には精神科はもとより教授会も了承し,市内のM興業により小講堂は撤去されました。また,私の提言により,ちょうど矢作台で新病院を建設中の大林建設組から5号塚の入口を残して裾をコンクリート壁で囲い,鉄柵を建ててくれました。さらに,これを記念して50p高の御影の石柱を立ててもらいました。  牛頭天王塚は医学部本館の裏手(南側)に五塚,大網街道を境に西側に二塚,合わせて七塚あり,それぞれ樹齢百年に達する大木がありました。樹種は椨が多く,塚には碑銘,献納年月の異なるまちまちの石柱が立てられていました。それらのうち献納年月が最も古く,また碑銘の共通していたのが,碑銘,牛天王,施主銘が大治元丙午6月朔日(1126)平常重代,裏側に「安永2年(1773)癸己造営」と刻してありました。  千葉の町,千葉氏,守護神の妙見宮について最も詳述してある平安時代作の「千葉集抄」,その他によれば,平安の都を開いた桓武天皇の第五子,葛原親王,その子の高見王,次の高望親王,曽孫の五男良文に由来し,それから七代目が平常重になります。またこの常重が大椎城から移って千葉城を開いています。この時,千葉城の主護のため五神,弓箭神として三神を祭っています。五守護神の中の一つが牛頭天王です。常重の子の常胤の時,伊豆石橋山の合戦に破れて房総に逃れてきた源頼朝を救けて鎌倉にのりこんだので,鎌倉幕府では第一の御家人となり,下総のみならずその他の広大な地を領有するようになりました。文永11年(1274)の蒙古襲来に際しては,頼胤は肥前国小城郡の所領にいきました。南北朝時代になると,同族の争いが激しくなり,本家の十九代胤直は馬加康胤に征められて千葉城は享徳4年(1455)3月落城し,以来,千葉城には主人がいなくなりました。千葉城及び千葉の町は大治元年(1126)から享徳4年(1455)までの間,しばしば戦火を受け,千葉城の守護神の一つであった牛頭天王塚も消失しました。しかし,総葉概録[11](正徳5年・1715)と妙見実録千葉紀[10](安永9年・1780)が上梓された間の頃(安永2年),千葉氏と妙見信仰によって結ばれた北斗山金剛授寺(現千葉神社)にゆかりの者により復活され,既述した牛頭天王塚の石碑が立てられたものと思われます。

(5)牛頭天王の由来
 牛頭天王[6,7]は天竺の牛頭山に関係し,祇園精舎の守護神として現れました。次に恐らく天山路を旅し,仏教および儒教から押され,道教に結びついて下層階級に根強く生きながら,中国の東北地方から朝鮮の新羅に達し,ここの土俗的な信仰を加え,わが国に伝えられています。この経路を暗示するものとして,わが国で最も古い正史の日本書紀[13]に「素盞鳴尊 その子五十猛神を帥いて新羅国に降到し曽尸茂利之處に居す。この地は吾居ませじとのたまいて埴土を以て舟を作り乗って東に渡ります。」と記載があります。この後の素盞鳴尊は疫神ではなくなり,わが国では筑紫,次に明石の浦,播磨の広峯,山城国北白川の東光寺(貞観11年)を経て,陽成天皇の代に御霊信仰に関係して感神院(後の八坂神社)に移ります。八坂神社の神霊は織田,豊臣および徳川氏ら中京出身の武将によって,尾張の津島神社に伝えられ,その後は八坂および津島神社の御師達によって日本中に広げられました。亥鼻の牛頭天王もその一つであり,前述のように北斗山金剛授寺にゆかりの者により復活されたと思います。   1 ソウル大学医学部卒の權寧運博士が,「韓国江原道春川市牛頭洞に牛頭山と呼ぶ山があり,韓国の古語では牛=ソ,頭=モリである。」と知らせてくれました。その山頂にはソシルモイという古塚があり,これには「盛り上がる墓」の意味があります。ソモリ,ソシモリおよびソシルモイとは語感が近いと牛頭山のソシルモイと呼ばれる古塚の写真を付けて知らせてくれました。   2 最近「冬のソナタ」という韓国ドラマが有名になり,それが撮影された春川という場所が注目されています。

(6)記憶について
 学生諸君は,私が記憶が良いと言ってくれます。出席簿無しで,出席また欠席の学生さんを指摘できるからです。私は出席簿をひねりまわして,学生諸君が学1になった時に事務から配布してくれる全員のクラス写真を見ていると,特に努力しなくても頭の中に焼きつけられてしまうのです。私は「解剖学名を覚える事に比べると,50,60人の学生名を覚える事は困難ではないのです。」と煙に巻いてしまう。  私に言う事ができるのは,どんな人でも独特の領域があって,その記憶はすばらしいものです。  私の大先生は小川鼎三先生です。小川先生は学生の名前を覚えると言う事は好きでなく,また得意ではないように見えました。例えば先生と連れ立って歩いていて学生に御辞儀をされると,しばらくして「さっきの人は誰だった。」と尋ねられるのです。「あれは,学3の誰々です。」と私は即座に返事をしました。  ところが,小川先生の時間的な記憶力はすばらしいもので,「私がドイツに向かって飛んでいった飛行機は,何年.何月.何時.何分にヒマラヤの上空を通過した。」といった具合で,私は勿論,教室の誰もがかないませんでした。私の先生で兄貴分の草間先生は,具体的に学生の名前を覚える事も,時間的な事を暗記する事もそれほど上手とは言えませんでした。ところが,いくつもの現象を理路整然と整理し,その間の法則をみつける事に関しては小川先生と雖もかなわないように見えました。  要するに記憶には色々な領域がある。それを引き出して活用するにもまた色々な領域があります。要に,あなた方は誰にも負けない才能が内蔵されています。上手にそれを引き出して活用してください。

文  献
1) 肉眼解剖標本の合成樹脂包埋.大谷克巳.医学のあゆみ 1959; 28: 560-4.
2) 国産ポリエステル樹脂による肉眼標本の包埋.大谷克巳 今井義量 新井一夫.医学のあゆみ 1960; 33: 202-6.
3) 解剖標本の合成樹脂による包埋.大谷克巳.医学のあゆみ 1970; 73: 656-60.
4) 合成樹脂による包埋法の一改良.大谷克巳 宮間和夫 徳永 叡.医学のあゆみ 1977; 101: 549-50.
5) コンピュータ断層に必要な人脳連続標本の作製と保存.大谷克巳 田中宏一 徳永 叡 杉田昭栄 寺澤捷年.医学のあゆみ 1982; 123: 1079-81.
6) 千葉の牛頭天王(改訂版).大谷克巳教授退官記念会.1988.
7) 千葉の牛頭天王 (初版). 千葉市教育委員会.1982.
8) 千葉集抄 奥山市松校訂 改訂房総叢書第二輯 史伝第二輯史伝(一)(二)復刻 千葉県郷土資料刊行会.1972.
9) 千葉伝考記 奥山市松校訂 改訂房総叢書第二輯 史伝第二輯史伝(一)(二)復刻 千葉県郷土資料刊行会.1972.
10) 妙見実録千集記 奥山市松校訂 改訂房総叢書第二輯 史伝第二輯史伝(一)(二)復刻 千葉県郷土資料刊行会.1972.
11) 総葉概録 磯部昌言著 奥山市松校訂 改訂房総叢書第二輯 史伝第二輯史伝(一)(二)復刻 千葉県郷土資料刊行会.1972.
12) 神宮司庁蔵版「古事類苑」神祇部神号(明治30年11月)(復刻)吉川弘文館 1967. 13) 黒板勝美校訂「日本書紀」前篇 吉川弘文館 1979.
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