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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 81 (4) :143-211, 2005

症例
段階的手術にて切除可能であった高度心機能障害を有する進行胃癌の1例
 西村真樹 小田健司 幸田圭史 清家和裕 小杉千弘 清水公雄 外岡 亨 今牧瑞浦 宮崎 勝 (英文・PDF
 
研究紹介
泌尿器科学における研究
 市川智彦 鈴木啓悦 小宮 顕 小島聡子 今本 敬 (和文・PDF
病原分子制御学
 盛永直子 八尋錦之助 野田公俊 (和文・PDF
臓器制御外科: 乳腺甲状腺外科研究室
 榊原雅裕 長嶋 健 三階貴史 押田恵子 田辺直人 中野茂治 中村力也 藤本浩司 門脇正美 荒井 学 宮崎 勝 ((和文・PDF
皮膚由来gelatinase発現の調節による皮膚病治療への応用
 小林孝志 新海 浤 (和文・PDF
小児病態学
 寺井 勝 下条直樹 河野陽一 (和文・PDF
腫瘍内科学教室
 江原正明 税所宏光 (和文・PDF
循環病態医科学
 南野 徹 永井敏雄 小室一成 (和文・PDF
薬剤部における研究
 有吉範高 北田光一 (和文・PDF
エッセイ
生化学とのつきあい50年
 三浦義彰 (和文・PDF

学会
第1089回千葉医学会例会・第25回歯科口腔外科例会 (和文・PDF
第1102回千葉医学会例会・平成16年度千葉大学大学院医学研究院胸部外科学・基礎病理学例会 (和文・PDF


編集後記 (和文・PDF

 
   
  段階的手術にて切除可能であった高度心機能障害を有する進行胃癌の1例
西村真樹 小田健司 幸田圭史 清家和裕 小杉千弘 清水公雄 外岡 亨 今牧瑞浦 宮崎 勝 千葉大学大学院医学研究院臓器制御外科学


 症例は74歳男性。陳旧性心筋梗塞及び慢性心不全で近医通院中,平成14年10月に嚥下困難を自覚し上部消化管内視鏡を施行したところ,食道浸潤を伴う胃噴門部3型胃癌を認めた。前医にて術前冠動脈造影検査(CAG)で認めた狭窄部にPCI(ステント及びバルーン)を施行するも開存率が悪く,EF29%であったため手術困難と判断。セカンドオピニオンを求め,平成15年1月精査加療目的に当科受診し入院となった。当院CAGにて#2ステント完全閉塞,#7〜6の狭窄,EF19%であったため,胃癌手術に先行して冠動脈バイパス術CABGを施行する方針とした。CABGに先立ち,胃癌の術前病期及び根治度を調べるため腹腔鏡下試験開腹を施行し,腹膜播種のないことを確認した(P0,CY0)。2月18日非体外循環下CABG(1枝)施行。術後CAGにてEF16%であった。3月11日胃全摘+D1+βリンパ節郭清施行。術中はIABPにて循環補助を行ない,術当日はICU管理とした。術後に心エコーを施行しEF20%前後と診断されるも周術期合併症は特に見られず,第34病日自立歩行され退院となった。患者は術後2年が経過し,現在再発無く生存中である。最終診断は,tub2,pT2N2H0P0CY0M0 Stage IIIAで根治度Bであった。高度心機能障害を有する高齢な症例においても,積極的な段階的治療により安全に進行癌を治癒し得る可能性が示唆された。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  生化学とのつきあい50年
三浦義彰 千葉大学名誉教授


要旨
 中学時代に生化学という学問のあることを知り,医学部入学の後,憧れの生化学に直面したら何のことはない尿の化学の実習ばかりで大いに失望した。卒業と同時に太平洋戦争が始まり,海軍軍医に任ぜられた。海軍では,生化学専攻という点が買われ航空医学の研究所に採用され,不具合の航空機の原因を検討した。2年ほどの戦地勤務後,再び航空医学の研究所に戻ったが,航空機はなくなり,代わりに不足勝ちの食糧の対策やジェット機に備えて,乗員の食糧の研究に追われた。  戦後,東大医学部の生化学教室に戻り,研究未発達の核酸の代謝を燐の放射性同位元素を使って始めた。しかし燐よりも炭素の同位元素を使いたく,それを習いにペンシルバニア大学に留学した(1952−3年)。そこで得た知識は生化学の技術も習うことは出来たが,西欧の生化学の究極の目的は「生命とは何か」を化学的に究明することであると悟らされた。  帰国後,東大分院と千葉大学で,カイコの絹糸腺から得た核酸はネズミの肝臓でも絹糸蛋白フィブロインを合成すること,ネズミの再生肝DNA合成の起こるまでの準備期間にはトロンボキサン,c-GMP,オルニチンデカルボキシラーゼの上昇が必須であることなどを還流肝を用いて証明した。この一連の反応はDNA合成に必要なpleiotropic responseである。定年後は実験室がないので,栄養の本などの執筆につとめている。

第1部 1945年まで
1.生化学との出会い
 私は1915年の4月生まれなので,2005年の4月には満90才になる。三浦の家は福島の在で5代ほど続いていた眼科医で,父の代から上京して内科医となった。私には15才年上の兄がいて,父は兄が医者の跡継ぎになるものと勝手に決めていたから,次男の私は医者にならずに,どの方面に進もうと自由だった。それをよいことにして幼い私は父がフランスのお土産に買って帰った,石で出来た積み木で洒落た家をたてたり,玩具の電氣モーターが手に入るようになると電氣機関車をつくったり,そんな遊びが多かったので,父はこの子は将来来工学方面に進むものと勝手に思いこんでいた。  ところが,兄が1923年に父が外国旅行に赴いた隙に山形高校の文科に入学してしまい,将来医学部は受けられないことがわかると,俄に父は私に医者になれと言い出した。その頃は父は世間にも名の知れた医者だったから,2代目の私が医者になっても「大先生はいいが,若先生はどうも・・・」と言われるにきまっている。現に戦後私がそれまでの海軍々医の給料が無くなり,東大の無給副手になり,収入が全くなくなって已む無く逗子で開業したときも,父の患者で湘南に疎開している人を処方付きで分けてもらっても,「若先生の薬は効かない」といわれ,だから言わんことじゃない,薬も父の処方と同じなのに,効かないとは・・・と嘆いたものだった。患者は薬ではなく,実は老先生に診て貰う安心感を求めているのだった。  中学2年の夏休み(1929年)に父が新潟への旅行に連れて行ってくれた。その頃,新潟医大の医化学の教授は有山登先生で,それより少し前,アメリカ留学から帰国されたばかりであった。その実験室をみせて頂くと,研究の詳しいことはわからなかったが,私はその時初めて世の中には患者を診ない医者もいて,父のように寒い冬の夜,起こされてしぶしぶ往診する必要もなく,面白そうな研究に没頭出来ることを知った。これが私の生化学との初顔合わせである。  旧制高校は私の第一語学がフランス語であった関係で大阪高校の理科丙類に入学した。入学時の面接で化学の妻木教授から将来どんな学問をやりたいですかと訊かれて苦し紛れに「生化学」と応えた覚えがある。しかし高校時代は化学より生物学に興味をひかれた。高校の3年間,寮で過ごし寮生のボスになりかけているところへ,同じ寮の1年生に早石修君が入ってきた。お互いにまだ生化学とは縁の無い時代である。  1年浪人して東大の医学部に入ってみると,かつて憧れた「生化学」の講義と実習がいきなり始まった。教授はS. K. 先生で,教科書も同じ著者である。読んでみると「覚醒素」などというみたこともない名前が出てくる。ホルモンのことなのだが無理に日本語にしたのが「覚醒素」であった。学問は国際的なものの筈で,ホルモンのように既に日本語にもなっているものを何故変な訳をつけたのだろうと,いっぺんにこの教授が嫌いになってしまった。後でわかったのはこの先生はJ. Biochemistryという欧文誌を自費で出して日本の生化学の国際化に熱心だったのだが,なぜホルモンを覚醒素にしなければならなかったのか,不思議である。実習担当の先生たちも学生を牛耳ることに興味があるらしく親しみがないし,第一,実習というのはいつも尿が材料で,広く生体を扱うことはなかった。その頃の医学部の生化学は実は尿の化学に過ぎなかったのである。現に生化学教室の同窓会の名前は春雲会(ドイツ語の尿,Harnからとってはるん会)というのであった。

2.すれ違ったDNA
 憧れていた生化学には失望を禁じえなかったが,助け船を出して下さったのは叔父の三宅鉱一名誉教授である。叔父は東大医学部の精神科の教授であったが,すでに退官して自分が作った脳研究所で研究を続けていた。この叔父が脳研で何か研究の手伝いをしてみないか,と誘ってくれた。折から生物学者の武部先生が遺伝の研究にショウジョウバエDrosophila melanogastaを飼っていて,丁度,理研で出来たばかりの原子力の発生装置サイクロトロンで種々の粒子を照射して突然変異による奇形の発生を見る実験をしておられた。ところがこの蠅は暑さに弱い。まして突然変異をおこした蠅は東京の暑さに耐えられない。その頃はまだ冷房などは無いので夏には叔父の那須の別荘に避暑させるのである。その役を私が引き受けることになった。  ショウジョウバエの唾腺染色体は巨大で普通の顕微鏡でも様々の縞模様が見える。変異がおこると縞が変わってくる。この時は未だ知られていなかったが,この縞のなかに遺伝子のDNAがあるのだった。後年DNAこそ遺伝子そのものであることが知れて,私は何だ,あの縞にDNAが隠れていたのかと悔しがったが,この時代から既にDNAとは縁があったのである。

3.繰り上げ卒業,ただちに軍医任官
 最終学年の2学期に入ると(1941年9月),どこからともなく,間もなく日米間に戦争が始まり,軍医が不足する。ついては医学部の最終学年は12月には卒業になる,という噂が耳に入ってきた。元生理学の橋田教授がそのころ文部大臣になっていたので,学部長が訊ねてみると,全国の医学校は12月卒業で,1月には軍医任官であることが閣議で既に決定していることがわかった。学生の方は従来のように,医局での初歩的な研修がないと,学生からいきなり軍医になっても実地には何も出来ないから,卒業試験の代わりに9月から12月卒業まで,実地に役立つ研修を希望した。お陰で,たとえば戦地で抜歯をピンセット1本で行う方法など,生化学などとは縁遠い,実地に役立つことを習って,12月の卒業を迎えたのである。  そのころ,この繰り上げ卒業生が複員してきたときの医局を予め決めて置いて欲しいという,事務局の不思議な通知が回覧された。誰も無事に帰ることが分からないのに,変な話である。これは戦後になって集計してみてわかったことだが,この年の卒業生は130人で,このうち凡そ100人が陸海軍の軍医となったが帰還できたのは70人で,他学部の出征した人にくらべると軍医の戦死率は数倍高いものであった。  私は将来の専攻についてまだ何も心づもりが無かったので,学生中,いろいろお世話をかけた緒方富雄先生に相談をもちかけた。先生は,君がかつて希望した生化学はこれからも発展する学問と思う。それに君の苦手の教授は間もなく定年だが,後に誰が来るかわからないから,今は生化学を志望するなら,学外の佐々木隆興先生にお願いしたらどうか,というご忠告だった。佐々木先生は母方の遠縁にあたり以前から存じ上げているので,早速お目にかかって門下に加えて頂きたいと申し出た。先生は,「私の研究目的はひろく「医学」であって,この難攻不落の医学の城を攻めるには,時に応じて病理学だの化学だのを武器とする。君は何を武器として選びたいかね?」と訊かれた。私は逆に先生の一番得意とされる武術は何ですか?とお訊ねしたらそれは生化学だと応えられたので,私にその生化学を教えて下さいと,お願いした。  佐々木先生のもとに通ったのは年末年始の2,3週間にすぎない。硝子細工,振り子天秤の使い方,窒素の定量法など夜遅くまで先生自ら付ききりで教えて下さった。佐々木先生はかつてベルリン大学でEmil Fischer教授に蛋白質の化学を学ばれた方であるから,私に教えて下さった生化学も何と無くドイツ風のものであった。  1942年の1月に私は海軍軍医中尉に任官,館山砲術学校,築地の軍医学校で訓練をうけた。このころ,上官から専門は何かと訊ねられ,「生化学」と答えた事を覚えている。このことがあって,最初の任地は横須賀の海軍航空技術廠の医学部で生化学的研究をすることにきまった。しかし午前は工員の診療があるから,ようやく午後になって生化学的な研究に従事せよ,と言うことだった。生化学的研究といっても,取りあえずは飛行機内の一酸化炭素や炭酸ガスの濃度を測定するのが主要な課題なのである。  軍用の飛行機は気密室がない。弾丸が貫通すれば気密は直ちに失われるからである。機の前方にある発動機の排気管から容赦なく排気がパイロットに吹き付ける。排気管を長くすると速度が低下する。また,パイロットが常時酸素マスクをつけると戦闘態勢の時邪魔になる。私の役目はどの機種が一酸化炭素濃度が高いか,とくに宙返りなどのときに排気が増える機種もあるので,一人乗りの飛行機以外,あらゆる飛行機に乗って,高等飛行の際にはどれだけ増えるかを調べるのだから,決して楽ではなかった。空技廠の飛行機の操縦は実験航空隊というのが隣の横須賀航空隊内にあり,そこにテストパイロットたちがいる。彼らはみな,からっとした性格の人が多く,技術も抜群で,安心して乗っていられた。  海軍には1式陸攻と言う大型の爆撃機があった。1万メートル以上の上空から爆弾投下をすることの出来る優秀な航空機なのだが,不思議に火がつきやすい。消火のために炭酸ガスを機内に放出する装置が出来たが,乗員に差し支えがないか実験してみてくれ,という命令が下った。高度1万メートルなら乗員は全員酸素マスクを着用しているから,大丈夫だといったが,ともかく実験することになった。実験コースは横空から鈴鹿航空隊への往復であった。鈴鹿航空隊では最寄りの松坂でたらふく牛肉を食べさせるというのがパイロット達の好意で,私は予想外のご馳走に感謝して大満悦だった。  1943年になると,一度戦地に出てこいという命令があり,2月から海南島の海口という町にある,第15警備隊に赴任した。折から大規模作戦がはじまり,私もはじめて第一線の弾丸の飛び交う隊に配属された。

4.戦地での暮らし
 戦地では生化学の研究など及びもつかず,毎日が戦傷とマラリアの手当で,時間が飛ぶように過ぎていった。薬品なども日本兵の分は曲がりなりにも間にあったが,現地住民の宣撫診療には現地で調達できるものをなるべく使った。椰子の実の殻を焼いて作った活性炭は日本で一酸化炭素の実験に使った物よりすぐれ,赤痢が多発した時に腸の薬として一番役立った。また,現地の子供たちの疥癬には,こわれた瀬戸物の碍子(がいし)から取り出した硫黄と豚の脂を混ぜた軟膏がよく効いた。  1944年5月,古巣の空技廠の航空医学部部員に任命されて再び生化学との縁がつながった。今度は診療の義務はなく,専ら研究出来るご身分だが,航空医学部といっても,2年前とは違って肝心の航空機や燃料が不足がちなので,搭乗実験はない。戦争が終わるまでに航空医学に関係する実験をしたのは,後に述べるジェット機乗員の食事の問題だけであった。  航空医学に代わって私の研究課題は専ら栄養問題になった。この年も秋になると食糧の不足が目立ってきた。ある日,横須賀の砲術学校長であられた,高松大佐の宮殿下から私にお呼びだしがあった。殿下のお話しは,今日本海軍は燃料の貯蓄も少ないが,それ以上緊急の問題は食糧の不足である。現在内地にいる兵には3000kcalもの兵食が与えられているが,これを減らさないと間もなくお手上げになる。ついてはどれほど教練の強度を減じたらどこまで,兵食を減らすことが可能か,至急に,しかも極秘に実験してほしい。この実験は殿下自ら委員長になり,なるべく海軍部内にさえも知られないようにしたいので,心得て欲しいとの密命であった。  こういった代謝関係の実験には誰が適任か,当時S. K. 教授の後任として九大から東大に赴任された児玉桂三教授は前から存じ上げているので,人事のご相談に行った。児玉教授は,それにはちょうど東大生化学の助教授になったばかりの吉川春寿博士が適任だといわれる。同助教授はアメリカ留学中に戦争が始まり交換船で帰国されたばかりで,アメリカ流の生化学に詳しく,殊にfield workの経験が豊富だから,陸軍が顧問にしないうちに海軍で顧問に採用したらよいとのadviseがあった。早速,吉川先生に交渉,快諾をえて実験計画をつくった。  まず披検者は現役の水兵のほか,その頃増えてきた少年兵と応召の中年の兵を選び,この被検者1人につき3人のtime study(どんな動作を何分したかを記録すること)のアルバイト学生をつける。食事は同じものを海軍の衣糧廠で分析してもらう。呼気の分析は空技廠にいるベテランの技術者を頼み,誰も嫌がる排泄物の分析は三浦が分担する。時間の余裕がないので披検者は3人,実験期間は被検者1人につき3日間とし,教練に必要なカロリー,食事から入るカロリー,少年兵の成長に必要な蛋白質などの検査を2月以内に纏める必要があり,実験は武山海兵団で11月中に行われた。表1にその成績を示した。Time studyから計算した消費熱量と食事や排泄物の分析からC−N平衡法で測定した所要熱量は概ね近似の値を保っているので,信用できる。食糧の不足に対処するには,教練に要する所要熱量を思い切って削減するほかないが,どれほどにするかはその時の食糧補給量による。蛋白質は所要量を超えると無駄に排出されるので,1日90g以下にすべきであるという結論である。(表1)  この問題について戦後,漏れ聞く所によると,陸軍はあくまで戦争続行,海軍はその反対で,この実験のデータは海軍の主張を支持するのに使われたらしい。  1945年の春頃,ドイツから潜水艦でシンガポールまで運び,そこで日本海軍が入手したジェット機の設計図と乗員の食糧に対する指示がある。それによると,ジェット機は3分で高度1万米に達するから,気圧は1/5になる。従って,もし乗員の腸内ガスが多いと5倍のガスになやまされるから注意せよと書いてあった。そのころ日本の食事には芋や脱脂大豆が多く,ガス発生を助長するような食品だった。腸内ガスの性質とその発生を少なくすることが緊急課題になったのである。こういった古典的な栄養の問題は吉川先生よりも児玉教授にお聞きした方が好いというので児玉先生に伺ってみた。  第一にお訊ねしたいのはガスを集める方法です。入浴中に放出するガスの泡を追ってみましたが集めることは難しく,ガス集めのための気密パンツなども作りましたが,役に立ちませんでしたと申し上げると,先生は破顔一笑,もっと賢明な方法がある。それは糞便を発酵管の中で再び発酵させるのだよと言われ,ついでにガス分析も先生自らやって上げると約束された。これは願ってもないことなので,試験食の調整だけを海軍が引き受けることになった。昔からガスの発生は生きている乳酸菌が抑制することが知られているので,それを入手して欲しいと言われた。あの時代はヨーグルトや牛乳さえも入手困難なので,カルピスの会社に訊ねてみると,生きた乳酸菌の豊富な生カルピスと言うものがあるので,それをお届けするという。  実際,生カルピスを服用した人の糞便からはほとんどガスの発生がなく,低圧タンクで気圧を1/5にしてもガスによる障碍はおこらなかった。やがて弟1号のジェット機が完成,試験飛行を行うと,みごとに1万メートルまで上昇,次いで下降に移ると,どうしたことか,まっすぐに墜落,私の目前100mほどのところで地上に激突,バラバラになってしまった。こうして戦争の終わるまでにできた3機はみな下降に失敗してしまったのである。  その頃,横須賀は連日の爆撃で,研究どころではなくなり,8月15日に鎌倉に疎開した。その日の終戦を知らせるラジオ放送は鎌倉で聞いた。9月の下旬に占領軍のGHQから研究所を引き取りに係官がきて,漸く軍籍を離れた。  翌日,佐々木研究所に佐々木先生をお訪ねすると,もう私立の研究所は財政的に立ち行かない,君は幸い児玉先生のところで実験もしたから,東大に戻ったらよいと,あっさり佐々木研からは縁が切れてしまった。  それならば東大の生化学教室に入れて頂こうと,戻ってみたら,空き部屋にネズミが走りまわっていて,研究などは難しい。折良く小学の同級生だった柴田承二君が薬学にいたので,私はしばらく薬学に席を置いて,合成化学の初歩を習うことにした。薬学にいたのは3年ほどで,医学部の生化学教室にも追々戦地から帰還する人も増えたので,私も生化学教室に帰ることにした。

第2部 世界の情勢
 表2に掲げたのは,1930年代以降の生化学でノーベル賞(表にはN. P. と略記)をうけた人を任意に選んで,生国から亡命した人の表である。この内,Cambridge大学のH. G. HopkinsとWashington大学のCori夫妻は亡命者ではないが,ナチの時代に亡命を余儀なくされた生化学者に手をさしのべたシンパサイザーである。またKornbergもニューヨーク生まれで亡命者ではないが,やはり亡命者の世話を見た人である。  日本の学問が国際的に孤立し始めた1930年代になってもヨーロッパにはまだまだ国際交流はあって,生化学のテーマも後の「動的生化学」の萌芽がめばえて来ている。この時代の日本の医学生に尿の実習だけをさせた責任者は誰なのだろうか。  亡命生化学者のうち最も典型的なのはベルリンのカイゼル・ウイルヘルム研究所にいたOtto Meyerhofではなかろうか。彼は「近代生化学の父」とよばれている。その理由は,彼のお弟子さん達の中から多数のノーベル賞級の優れた生化学者が輩出しているからである。  1930年代の初め頃,Meyerhofの門下にはリップマン(後に米国での研究に対しノーベル賞授与),ルオフ(後にフランスでの研究に対しノーベル賞受与),スペインの内乱を避けたオチョア(後に米国での研究に対しノーベル賞授与)等が集まり,研究課題は異なるが互いの切磋琢磨で優れた研究者が育ってきている。日本からは当時金沢医大に岩崎憲教授がこの研究所にいて独創的な微量窒素の定量法を研究していた。(表2)  師匠のMeyerhofも40歳代で自身の実験に忙しく,何か訊きたいことがあっても廊下で立ち話しするほかなかったという。その頃,東大のS. K. 教授に質問のある人は1週間も前から教授の面会日の予約を取らなければならなかった。  しかしS. K. 教授は例外として,私の学生時代にも先生方のうちに偉いマイスターがいなかったわけではない。皮膚科の太田正雄教授は筆名「木下杢太郎」として森鴎外のお弟子さんでもあり,北原白秋とは同年の友で,詩人としてもまたgrand matreと呼ぶに値した方であった。この先生の講義は午後の眠い時間にボソボソと低い声で話されるのだから,学生は必死に眠気を払うのが大変だった。ところがある時の講義に「たばこモザイク病のウイルスが核蛋白の結晶として分離された。」という外電を披露され,ウイルスは「増殖」という点からは生物であるのに,一方では化学物質という無生物であるとすると,一体生物というものはどう定義したらよいか,と質問されたので,学生は皆,目を覚ましたのである。これはカリフォルニア大のStanleyの原報の解説(A. H. R. Petrie. Biol Revs 1943; 18: 105.)を新聞の外電で読まれたものと思われる。後年,国際癌学会で会長のStanleyに会った時,太田教授の講義の話をしたら,Stanleyは「太田教授という方はきっと大哲学者に違いない。君の大学には好い先生がいるね。」といわれた。Columbia大学(New York) のSchoenheimerとRittenbergはその頃使用が可能になった窒素の同位元素15Nを用いて動物全体あるいは肝臓,筋肉,血漿蛋白などの代謝の早さ(代謝回転)を測っている。代謝回転の速いのは肝臓と血漿の蛋白で,筋肉などはずっと遅い。筋肉蛋白が大部分を占める人間全体では半減期は約80日である。(Schoenheimer R. et al. J Biol Chem 1939; 130: 703. Sprinson GB, Rittenberg D. J Biol Chem 1945: 180; 715.)Schoenheimr等は生物と無生物とを区別するのに,代謝回転の有るものを生物,無いものを無生物としたが,同じ人の体でも代謝回転の速い肝臓は代謝の上からは若く,回転の遅い筋肉蛋白は比較すれば若くないことになり,臓器ごとに年齢が異なることになってしまうから,この生物の定義はまだ検討の余地があろう。このように,アメリカの学者も哲学的な思考をしないわけではないが,ヨーロッパの教育がより古典(フランス語のHumanits,ギリシャ,ラテンの古典人文学)を重視しているのがこのような思考に導くのだという。  私は1952年にペンシルバニア大学の生理化学教室に留学した。他の実験室が満員で,私に割り当てられた実験室は,それまでマイスターの没後もなおそのまま,無人で扉にはProfessor Otto Meyerhofと金文字で書かれており,誰にも使わせていなかった部屋であった。ChairmanのWilson老教授が私を呼んで「大切に使え」と念を押した「聖地」であった。したがって,前年にマイスターの亡くなったことを知らない外国のお客が折々訊ねて来て,私の顔を見て不思議そうな顔をするのだった。  そのころ,この教室にはまだマイスター直属のお弟子さんたちも他の部屋に何人かは残っていたので,私は彼らにマイスターはどこが優れていたのかをあえて訊ねてみた。彼らが口をそろえていうのは,実験室での指導はアメリカの教授たちとさして変わりがない。けれども,生化学を離れて,例えば自宅でのパーティなどでの会話になると,マイスターは自然科学のみならず,古典の知識,芸術への理解など人間の幅がずば抜けて広い人であったという。  後年,パリで,かつてマイスターのお弟子だったA. M. Lwoff夫妻のお宅に何度か招待されたが,この時もルオフさんの教養の広さはずば抜けて広いことを感じた。恐らく,これもマイスターの影響なのかもしれない。

第3部 核酸にとりつかれて
 東大の生化学教室での私の身分は無給副手から昇進,僅かながら給付金の出る特別大学院学生だった。この身分ではまだお弟子さんをもつわけにはいかないのに,一緒に研究をしたいという人が数人現れた。児玉教授からはこの人たちが私と一緒に研究することは構わないが,研究費の面倒はみないよ,ということで許可が出た。この人たちはあるいはまだ医学部の学生だったり,あるいはどこかの会社の研究員だったりして,私は彼らに一文もサラリーを払っていない。問題は研究費である。そのお金の大半は戦後に輩出した大小の製薬会社の顧問になって私が稼いだお金だから僅かなものであった。ではどうして一大学院学生のところに若い人達が集まったのか,その理由は研究テーマと研究方法が彼らの興味をひいたからであろう。彼らは私を年齢から判断して,講師くらいと思っていたらしい。まさか大学院の学生とは思ってもいなかった。  研究テーマは核酸だった。生化学の領域でも蛋白質,糖質,脂質などは栄養に必要なので,それなりに研究が進んでいたが,核酸は細胞に必ず含まれていたものの,栄養としては必要でない。今では核酸は遺伝子に含まれていることは小学生でも知っているが,その頃はまだ核酸と遺伝を結びつけて考える人もいなかった。生化学的には核酸は未踏の地であることが若い研究者の興味を誘った。もう一つの魅力は新しい研究方法である。それは放射性の同位元素の使用である。吉川先生はアメリカ時代にすでに使用経験がおありだったので,32Pの輸入が許可されると真っ先に入手された。私たちは吉川先生の指導を受けるということで使用許可が出たのである。  1951年に共立出版から「核酸及び核蛋白質」という上下2巻の単行本が出版された。編者は名大教授の江上不二夫先生である。江上先生は戦前フランスに留学されたので,私は日仏会館でよくお目にかかった。そんな関係で私も駆け出しの核酸研究者ながら,執筆者の一人に入れて下さった。その年,第1回の核酸研究会も江上会長のもとで発足している。この会は核酸研究の発展とともに国際的にもなり,盛会になったが1959年以後は学生のスト頻発で自然消滅をした。32Pをtracer実験に使うことは標品の精製に困難がつきまとう。核酸の塩基をラベルすればこの問題は解決する。ところが当時はまだ14Cは輸入されていないし弱い放射能を測定するcounterも日本では入手困難であった。  1951年になると私にも外国留学の機会ができてきた。戦後初のフランス政府の留学生には医学畑からは私が選ばれた。ところが戦前に試験に合格していたK教授が割り込んで来られ,大学院学生の私は外されてしまった。すると間もなく,これも戦後初のロックフェラー財団のfellowに選ばれた,という通知があった。この方が経済的には有利なのでこちらを受諾し,1952年の9月に横浜から貨客船で出発した。まだ日本は占領下だったから,旅券にはoccupyed Japanと書いてある。行く先は吉川先生の推薦でPhiladelphiaのPennsylvania大学の生理化学教室のJ. M. Buchanan助教授が14Cを使って核酸の生合成の研究をしているので,ちょうど好いと思って研究グループにいれてもらった。

第4部 アメリカの名門医学校
 アメリカの東部には建物の壁にツタがからまっているような古風な名門大学が8校あり(Ivy League),ペンシルバニア大学もその一つで,Benjamin Franklinが1740年に創立した。こういった格の高い学校の医学部は将来品位のある医師を養成するために,医学部学生には入学当初から,他の医学校では見られないような厳格な教育をする。  吉川先生もあまりご存じなく,私も知らなかったのであるが,ロックフェラー財団からのこの大学の学部長宛の書類に「この学生(三浦)は,将来,生化学の教授になるだけでなく,医学部長にもなれる人だから,単に生化学の学問だけでなく,医学校の指導者にもなれるような教育をして欲しい。」と書いてあったそうである。(これは視察に見えた,この大学の学部長と親しい慶応大学の草間医学部長が私の留学中にその書類を見て,驚いて私にどんな教育を受けているか,と訊かれて初めて分かったことである。)  どうりでBuchanan先生は生化学のことしか教えないが,生化学教室のchairmanである。D. W. Wilson老教授は実験の手の空いた時には,教官達のサラリー表(同じ教授でも画一ではない)まで見せてその差のよってきたる理由まで説明するのであった。  助教授であるBuchanan先生の学生に対する講義にはWilson教授は必ず傍聴し後から用語の間違いを直すのである。例えば君はさっきintestineをインテスタインと言ったが,あれはインテスチンが正しい,と言う風である。私も冷房のない実験室で暑いのでネクタイをはずしていたら,医師は暑くても診察の時はネクタイをはずさないものだと叱られた。  講義の時に学生がガムを噛んでいるのがみつかると,医師は患者を診察しながら,ガムを噛んだら,一挙に信用がなくなる。人前でガムを噛むようなら,医学部を退学させる,とまで叱られる。Wilson教授は決して厳しいだけの人ではない。ハナミズキの花盛りにはお花見に誘ってくれるし,私に故Otto Meyerhof教授の部屋の使用を許したのも,この優れた生化学者を見習って欲しい,という意図があっての処置であったらしい。  実験の方はうまくいかなかった。ラベルしたアデニンはハトの肝臓の核酸には入らなかった。後に帰国後,野口照久君の合成した14C-AICAは肝臓の核酸プリンの前駆体になる。すなわちプリン環が閉じる前ならリボヌクレオチドになり易いことがわかったのである。  1年の米国留学の最後の2月(7,8月)はWoodsholeの海洋生物学研究所で過ごした。ここではヨーロッパからきた若い生化学者とも友達になれたし,ビタミンCの発見者セントジョルジイのような大家とも気安く話が出来るようになった。  日本への帰途はヨーロッパを廻って帰ることにした。英国ではかつて児玉先生がHopkinsのもとで学ばれたCambridge大学,フランスではPasteur研究所が主である。

第5部 ヨーロッパで学んだこと
 英国で最初に訪れたCambridge大学では,かつて児玉先生のキサンチン酸化酵素の共同研究者であったDixon博士が研究室を案内してくれた。Hopkinsの指導はどんな風であったかを伺ってみると,研究テーマは各人の興味に委せて強制せず,お弟子さんの研究発表がつまらなくても,どこか優れた点を見いだして救ってやる気遣いのこまやかな先生だったという。Hopkinsの経歴を調べて見ると,大学も出ていない学歴だが,人の和を重んじる紳士だったことがわかる。この親切な性格が多数の亡命生化学者を救ったのであろう。  フランスでは,折から駐仏米国大使館の科学参事官に旧友のDr. Jeffries Wymanがいた。彼は日本に来ている間は私の家に泊まりこんでいた。生物物理学者でHarvard大学に席がある年長の友人である。彼の言うには,フランスの生化学者で今一番活発に実験しているのはPasteur研究所のJacques Monod達であるといって,研究所見学の他にWymanの官舎で日本食の夕食会を開くことなどを提案した。研究所でMonodに会って見ると,彼はフランス語でなく英語で答える。Wymanの紹介だから私を二世と思いこんだらしい。それにMonodの母親は英国人だから勿論英語も達者である。Monodの実験室は屋根裏にあり,設備は悪いけれどアイデアにすぐれ,これなら戦後の東大の実験室と変わらないと思った。この時説明された研究で1965年にMonodは,Lwoffとともにノーベル賞を受領している。  Monodが古典的教養にすぐれているかどうかは知らないが,後に知己となったLwoffは典型的なヨーロッパの教養人であった。又WymanもさすがにHarvard出身だけに教養が深い。彼の葬儀の時に配られた文書には彼が幼い頃シャボン玉を吹いている写真とともに次の文章が添えられてあった。  

The flow of the river is ceaseless and its waters never the same.
 The bubbles that float in the pools, now vanishing, now forming.
 are not of long duration: so in the world are man and his dwellings.

これは紛れもなく鴨長明の方丈記の冒頭の訳である。Wymanは日本語はできないから英訳でこの文章をみたのであろうが,生物の特徴である代謝回転をシャボン玉の運命に託した所が心憎い(漱石にも方丈記の英訳があるがこれとは違うようである。)。生化学者にしても,生物物理学者にしても,生命の本質を追うことには変わりは無いのである。  パリ滞在が長くなって,そろそろ懐が寂しくなったので,後はZrigにいるアメリカで友達になったHans Brandenbergerを訪れるだけで,日本に帰ることにした。Hansはそのころコーヒーの香りの化学分析をしていたが,これが完成するとZrig大学の法医学の教授になって,世界中から鑑定を頼まれる有名人になったのである。  東大の生化学教室は児玉先生が定年で退職され,後はN. S. 教授になった。同教授はS. K. 教授の愛弟子だから,私とはあまりしっくりいかない。とうとう,私は新設の医学部衛生看護学科の生化学の助教授に移されることとなり,本郷のキャンパスから小石川分院の地下室に変わった。ここは学生実習室だったから本棚一つと実習机があるだけで,生化学の実験など到底出来ないような所だった。仕方がないので進駐軍の中古の大型冷蔵庫を買ってその中で傘型遠心器をまわしてミトコンドリアの分離をしたり,本棚に電熱器をいれてネズミを飼ったりした。時の総長の茅先生が見に来て,折角アメリカまで勉強に行って,これはひどい。どこか好い所があれば転勤しないといけないといわれた。この意見には吉田富三医学部長も同意して,千葉大学に空席が出来た時転勤したわけである。

第6部 カイコの生化学
 分院の実験室ではネズミは本棚の一隅にいれて電熱器で恒温に保つのだから,実験環境はよくない。その状態を見られた伊東広雄先生(もと高等蚕糸校長)がカイコならここでも飼えますよ,と言われて14Cグリシンのフィブロインへの取り込み実験を提案された。伊東先生のお弟子さんは全国にひろく大勢居られて,冬でも沖縄からカイコを入手できる。カイコは5齢の終わりに繭をつくるが,その直前に後部絹糸腺だけでフィブロイン蛋白を合成する。この蛋白はアミノ酸としてはグリシンが圧倒的に多いから14Cグリシンの取り込みだけでフィブロインが証明出来る筈だといわれる。  カイコの生化学は以前から東北大学の志村教授などが手がけておられるので,着手するのに逡巡したが,伊東先生が熱心に勧められるので,始めてみると桑の葉の緑が陰鬱な地下実験室を明るい田園のように見せて,気分が一新された。カイコの実験は分院の地下室の時代と千葉大に移ってからも続けて行った。これについては多数の研究があるが,ここではその中の一つ,後部絹糸腺の核酸についての実験(Biochim Biophys Acta 1967: 134; 258.)について述べよう。この実験は主として千葉の大学院学生の須永清君の行ったもので,繭をつくる直前の後部絹糸腺から得たDNA-RNA complex(この核酸は糸状で粘性が強く硝子棒に巻き付き,安定である)をネズミ肝臓から得た無細胞の蛋白合成系に入れると,14Cグリシンの取り込みが,14Cロイシンの取り込みよりはるかに多い蛋白質が得られる。肝臓の蛋白質では普通はロイシンが多く,グリシンは少ないので後部絹糸腺から得た核酸がフィブロインのメッセンジャーRNAの役目をしているかと考えられるのである。この話をジョンス・ホプキンス大学のLehninger教授のところで開かれたセミナーで話したら,聞きに来ていた生物学者のDr. Ebertがカイコの実験を始め,後にフィブロインのm-RNAを精製するに至ったのである。  この実験はm-RNAを分離して,他の生物,たとえば微生物などの蛋白合成系で多量の蛋白質を作る,いわゆるbiotechnologyに繋がるものであったが,私達はその方面には発展せずに終ってしまった。  カイコの実験は伊東先生のご病気などで,その後は発展せず,千葉大では主としてDNA合成が起きる前の一連の生化学的反応,これをpleiotropic responseというが,それがどのような反応かについて研究し,Indianapolisで開かれているAdvances in Enzyme Regulationのシンポジウムで発表し,同名の単行本に英文で掲載されている。これは再生肝のDNA合成のおこるまでの生化学的反応についてみているが,DNA合成の前には次の一連の事象がみられる。すなわち,1)細胞膜が傷つくことによって膜の脂質からアラキドン酸が瞬時にして遊離される。2)アラキドン酸からプロスタグランジン(PG)類とトロンボキサン(TX)が生じる。3)数時間あとにTXによってcyclic GMPの合成が高まる。4)さらに時間を置いてOrnithine decarboxylaseの活性が高まり,5)ついで,14C-thymidineがDNAに取り込まれる。  この一連の反応はin vivoでみられるほか,再生肝をとりだして血液の代わりに酸素で飽和したKrebs-Ringer液にコウシ血清を少し加えた液で還流しても同様のPleiotropic responseがみられるから,血液や他の臓器由来の物質(例えばホルモン)によって促進されるものではなく,再生肝そのものだけでおこる現象である。  この一連の反応の一番最初の反応,すなわちアラキドン酸カスケードによってプロスタグランジンやTXが生じる段階が後のDNA合成のきっかけとしては大切である,DNA合成を起こさない正常肝ではTXの合成は何か阻害物質があって起らないが,再生肝や肝臓癌の様なDNA合成を起こす細胞では必ずTXが生じてくる。正常肝にあるTX合成の抑制物質の本態の研究は癌細胞の増殖を抑制するかも知れないので,興味があったが,折悪しく学生ストもあり,定年も迫りとうとう着手出来ずに終わった。定年退職しても何処かの実験室でこの研究の続行を夢みていたが,事情はそれほど甘くはなかったのである。  千葉大学に赴任したのは1960年の夏だった。定年,退官したのが1981年の3月だから,約20年でかろうじて名誉教授の資格をえた。東大分院とはちがい研究室の面積は広いが,前任の赤松茂教授の研究方法は酵素の基質を発色性にして,酵素が働くと発色してその存在を確認する方法であったから,近代生化学が必要とする超遠心機もcold roomも放射能の測定器もなかった。その上,東大に比べれば研究費が少ないので,私は高価な機械類はNIH, Rockefeller財団などにたよった。ところが,これは後に学生ストがおこり,研究費を外国から得るのはいけないと言われ,大いに困ってほとんど研究が出来なくなるはめに陥る原因になったのである。  赤松先生はドイツに留学された方なので,その頃のドイツの慣習に従って高等小学卒くらいの学歴の男性の助手を採用して,ご自分の所で優秀なテクニシアンに仕上げ,実験はこの人たちの手慣れた操作で多数の研究報告が生まれるので,臨床の教室から研究生が集まった。私も大いに彼らテクニシアンの優秀な永年の手腕に頼って研究成果を上げることが出来たが,私が千葉に赴任した頃から臨床教室からの研究生は減り,生化学専攻の大学院学生とアジア諸国(西はイスラエルから東はバングラデイシュまで)からの留学生が増えて,共通語は英語になってしまった。

第7部 定年後の20年
 定年後は,サントリーの医学生物学研究所(阪神間にある)に顧問としてひと月に数日(この研究所所長の野口照久博士と早石教授の推挽による)と共立女子大の非常勤講師として学生実験の指導(週1回)を引き受け,70才代なかばで第2の定年を迎えた。その後は看護師養成学校の講師などをしているうちに,いつの間にか90才になってしまった。生化学に携わったのは第2の定年までで,以後は栄養学に関係した著述が多くなった。そのわけは,共立女子大で教えた最後のクラスの橋本洋子君がシアトルに留学し,主としてスポーツ栄養を履修して帰国したので,共著で「スポーツ栄養」の教科書を出版したのが,好評で,引き続き「食卓の生化学」などの著書を出版して今日に至っている。
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