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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 75 (6) :307-379, 1999

総説
p53遺伝子と消化器癌の化学
 鍋谷圭宏 落合武徳
 
原著
体外衝撃波結石破砕機 EDAP LT-01 による上部尿路結石破砕の治療成績
 中村剛 木藤宏樹 池田良一 井坂茂夫 日景高志 細木茂 松崎章
 
症例
歯周嚢胞の2例
 高橋喜久雄 原田雅弘 吉野智晴 山木 誠 小河原克訓 荒木大介
 
地域医療
東金病院の改革の歩みと今後の展望:新たな医療連携システムをめざして
 平井愛山
 
エッセイ
20世紀のわが同時代人
 三浦義彰
 (17)太田正雄(木下杢太郎)
 (18)山本有三
 (19)呉 茂一
 (20)ソヴール・カンドウ

海外だより
アメリカ留学の思い出
 外川 明
海外留学記:Johns Hopkins University
 飯塚正之

らいぶらりい
Ageing and Dementia
 杉田克生

研究報告書
平成10年度猪鼻奨学会研究補助金による研究報告書

学会
第985回千葉医学会例会・第二内科例会
第988回千葉医学会例会・第一内科教室同門会

編集後記

 
   
  p53遺伝子と消化器癌の化学療法
 鍋谷圭宏 落合武徳 千葉大学医学部外科学第二講座


近年の分子生物学の進歩により、癌化学療法においてアポトーシスによる細胞死が重要な機序であることが解明されてきた。特に、代表的なアポトーシス誘導遺伝子であるp53のStatusは抗癌剤治療に対する腫瘍の反応性を決定する重要な因子である。消化器癌においては、p53の変異により正常なp53の機能が喪失すると種々の抗癌剤に耐性となることが報告されている。更に基礎実験において、正常なp53を腫瘍細胞に強制発現させることにより、アポトーシスを誘導する抗癌剤の抗腫瘍効果を高め得る可能性が示唆された。教室では、こうした事実に基づいて切除不能進行食道癌に対する野生型p53遺伝子導入療法の臨床試験を開始予定であり、その結果が期待される。 一方、癌化学療法の研究は、これまで抗癌剤の作用点を中心とした生化学的・酵素学的研究により進歩してきた。消化器癌の化学療法における基本薬剤である5-FUを例に取ると、代謝関連酵素であるチミジル酸合成酵素 [thymidylate synthase (TS)]やジヒドロピリミジン脱水素酵素[dihydropyrimidine dehydrogenas (DPD)]の腫瘍内活性と腫瘍の5-FU感受性あるいは副作用との関係が解明され、これらに注目した腫瘍の5-FU感受性の予測あるいは5-FUの抗腫瘍効果の増強に多大な興味が寄せられている。  最近、こうした抗癌剤代謝関連酵素の発現にp53が関与している可能性も示唆され、有効な抗癌剤とその投与法を選択するためには、p53を初めとする腫瘍の遺伝子異常やそれによる細胞周期の変化・アポトーシス誘導の有無が無視出来ない。将来的に、画一的なプロトコールではなく、個々の腫瘍の遺伝子異常を加味した抗癌化学療法を求められるようになると思われ、今後の研究成果が期待される。
 
   
  体外衝撃波結石破砕機 EDAP LT-01 による上部尿路結石破砕の治療成績
 中村剛 木藤宏樹 池田良一 井坂茂夫 日景高志 細木 茂 松崎 章 東京厚生年金病院泌尿器科


1988年4月より1998年3月まで EDAP LT-01 を用いて上部尿路結石860腎尿管に体外衝撃波結石破砕術(ESWL)を施行した。治療回数は腎盂腎杯結石で平均3.43回であったが、直径2 cm 以上の結石には平均14.4回、珊瑚状結石には平均25.0回を必要とした。尿管結石は平均2.99回で直径2 cm 未満の腎盂腎杯結石とほぼ同等の回数であった。完全消失と4 mm以下の残石を含めた破砕有効率は腎結石で93.7%、尿管結石で91.9%と満足すべきものであった。症例の多い腎盂・腎杯結石において直径1 cm 未満では97%台の高い有効率であったが、直径2 cm 以上では70.4%と低い有効率であった。上部尿管結石、下部尿管結石の有効率は、90.6%、97.4%と満足すべきもので、超音波観察によるESW Lでも粘り強い観察・治療により高い有効率が得られたものと考えた。体外衝撃波結石破砕機 EDAP LT-01による上部尿路結石治療は、副作用が少なく、粘り強く治療すれば良好な成績を得られるものと思われた。逆に、欠点として、直径20mm以上の大きな結石の治療に長期間を要することが挙げられると思われた。
 
   
  歯周嚢胞の2例
 高橋喜久雄 原田雅弘 吉野智晴 山木 誠1) 小河原克訓1) 荒木大介1)  社会保険船橋中央病院歯科口腔外科 1)千葉大学医学部歯科口腔外科学講座


顎骨は上皮性嚢胞の好発部位であるが、その中でも歯周嚢胞は希なものである。左側下顎智歯の遠心に見られた2例の歯周嚢胞を経験したので報告した。患者は何れも40 歳代で、嚢胞はX線的に智歯後方の円形の透過像としてみられた。智歯を含めて単純摘出したが、経過は順調で再発は見られない。成因に関する若干の考察を含めて報告した。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(17)太田正雄(木下杢太郎)(1885-1945):1885年伊豆伊東の米屋、米忽の三男として生まれる。独協中学を経て、一高、東大医学部に入学、1911年卒業、皮膚科教室に入室。1916年南満医学堂教授、1921-24年、主としてパリに留学。1924年愛知医科大学教授。1926年東北大学教授、1937年東大教授。1945年胃癌のため逝去。文芸活動は1907年新詩社同人に加わり、与謝野 寛、北原白秋等と詩を書く。  日本の医学校では皮膚科の講義は第三学年から始まる。したがって私が初めて太田教授の皮膚科の講義を聞いたのは1940年のことで、お昼過ぎの一番眠たい時間にボソボソと話される講義はお世辞にも上手な講義とはいえなかった。文学方面の知識の至って乏しい私に文学に詳しい独協中学出身の友人が「あれが有名な木下杢太郎さんだ」と教えてくれても私にはどんな作品が有名なのか知らなかった。私の家庭は父が医学一本槍の人で、父が若い時医学部出身で小説も書くある有名な人物に父がモデルかと思われる小説を書かれて迷惑して以来、小説などの文学はタブーであった。十五歳年上の兄の書棚を見ても小説などの蔵書は皆無であった。母はおそらく密かに小説など読んではいただろうが、私が十一歳の時に亡くなったので訊ねたことはない。こういう家庭に育った私はその年まで木下杢太郎という不思議なペンネームの詩人を知らない方が自然であろう。  夏の初め、こういった怠け学生の私の目を覚まさせた太田先生の講義が一つだけあった。それはスタンレーがタバコモザイク病ウイルスを核蛋白質の結晶として分離したというニュースを太田先生が紹介され、ウイルスは増殖するから生物と思われるが、生物が核蛋白質の結晶という化学物質の形で得られたという事実は今後の論議の種になる、という趣旨のお話だった。ウイルスが生物か非生物かの論議は私の目を覚まし、その後は太田先生の講義は真面目に聞くようになったのである。そのころ、日仏会館にノワイエ博士という医学者が滞在していて、この人がフランスの医学の発展の歴史、及び最新の顕微解剖の器具などを本国から持ち込んで、フランス医学の展覧会を東京で開いた。  当時の日本は親ドイツ色一色で、なかなかフランスの入り込む隙はなかったが、父や太田先生や、それに伝染病研究所長の長与又郎先生等の尽力で見に来る人も多く成功を収めた。私も学生ながらお手伝いをしていた関係でその慰労会に出席、初めて太田先生と個人的にお話が出来たのである。これが縁で毎週ある曜日のお昼に本郷三丁目にあった「やぶそぱ」の二階で周期的に開かれていた昼食会に参加することも許された。太田先生、医学部の颯田琴次教授、法学部の福井勇二郎助教授、慶応大学のフランス文学の後藤末雄教授などが常連で、学生は私一人だった。  その頃、私の小学校の同級生の串田孫一、戸板康二、中川幸永、それに同級生以外に串田の親戚、今村信吉、斎藤友子、串田の友人、矢内原伊作、山崎正一等が加わり「冬夏(とうげ)」という同人雑誌を神保町の十字屋から出版していて私もいつとなく加わっていた。前述のように父や兄は文学と聞いただけでアレルギーをおこすので、私は仙台在住の村上尚志という人物を創作して村上になりすまして投稿していた。この雑誌の編集会議で木下杢太郎先生の原稿を頂くことはできないだろうか、という話が出て私がお願いしてみることになった。さして売れてもいない同人雑誌に原稿料なしで杢太郎先生に投稿をお願いすることは私が若かったからこそ出来たことで 若さというものが今考えてみるとうらやましい限りである。旬日を経ずして先生から原稿が書けたからとお宅に取りに来て欲しいとの連絡があった。「豕日小言」と題する随想だった。何と読み、何のことかも伺わずに喜び勇んで編集室に持ち帰ってしまい、未だに意味がわからない。  この時いったんお宅に伺ってからは、よくお邪魔をした。何日はお暇でしょうかと伺うと何時頃かねと聞かれる。午後八時以前は科学者太田正雄で、八時以後は木下杢太郎なのである。八時以後にお邪魔して、近頃読んだ本などのお話を伺うのは険悪な国際情勢を忘れることのできる素晴らしい時間であった。最後にお邪魔したのは私がすでに海軍軍医になっていて、南方の戦地に赴けという内報を受けてからである。戦地にはどんな医学書を持っていったらよいでしょうかと伺ったら、医学書ではなく南洋の日本人町の研究という本が役立つよと教えられた。現地に行ってみると、海南島の東端の町にはかつての倭寇の遺跡もあり、持参の本が役立って面白かった。残念なのは集めた文献がアメリカの潜水艦に沈められて、日本には届かなかったことである。  1945年の9月、漸く軍務から開放されて東大に行ってみると太田先生はすでに面会謝絶のご容体だった。  杢太郎の詩に「ふるき仲間」という詩がある。

 ふるき仲間も遠く去れば、
 また日ごろ顔あはせねば、
 知らぬ昔と変わりなきはかなさよ  春になれば草の雨、
 三月桜、 四月すかんぽの花のくれない、
 また五月には杜若(かきつばた)、
 花とりどり、 人ちりぢりのながめ、
 窓の外のいり日雲

 村上尚志という人物は杢太郎に殉じ、その後姿を見せない。まことに人散り散りである。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(18) 山本有三本名山本勇造(1887-1974):栃木市生まれ、1909年第一高等学校入学、翌年留年して次の学年で芥川龍之助等と同級になり、彼らとともに「新思潮」を創刊、主として戯曲(「淀見蔵」など)を執筆する。その後、1915年頃から長編小説「生きとし生けるもの」、「真実一路」、「路傍の石」などを発表。戦後、貴族院議員、参議院議員に選出され、国語の新しい表記法の普及に尽くす。1965年、文化勲章受賞。  日本は敗戦後、経済的にも大きな変革があって、従来からの有産階級はかなりの痛手をこうむっている。私たちのような敗戦当時三十才前後の青年たちは経済的には失うものも少なかったが、預金封鎖などのために、日々入ってくる日銭が無い限り、その日の生活ができない。その上、私は無謀にも東大の無給副手という、収入は無くて支出のみの職業についたばかりに、家族がどうやって食べてゆくかについては成算が全く無かった。  私は当時逗子に住んでいて、週に三回内科医院を開業しながら、東大へ研究に通っていた。三年後に通勤時間の無駄を省くために東京に引っ越したが、医院の開業を辞めたのでまた家計がピンチに陥った。  私は東大の教授にお願いして学校の非常勤講師の口を見つけて頂いた。勤めたのは駿河台の家に近い共立女子学園で、まだ短大だけしかなかった。しかし、余りにも給料が安く家計の足しにならないので、どうしたらもう少しは頂だけるかと訊ねたら、学位があればもう少しは上げられるとのこと。東大の教授に学位を下さいとお頼みしたら、「何か論文があったら、明日持っておいで」といわれた。幸い印刷ずみの研究論文があったので、数カ月後に学位をいただいた。しかしこれとてもあのインフレの世の中で家族四人が食べるには足りるはずがない。  その頃私は薬学の柴田助教授の実験室に居候をしていたので、周囲に薬学出身の人が多く、その中に山本有一君がいた。有三先生の長男である。私が内職に追われているのを見て気の毒がり、親父に話してみる、ちょうど新しく「日本少国民文庫」の企画が進んでいるので何か書いてみないか、というのである。  山本有三編の「日本少国民文庫」は既に戦前にもあった。「心に大陽を、唇に歌を」というような明るいキャッチフレーズの文章ばかりで、多くの子供たちに読まれていた。その昔の山本有三先生の作品「路傍の石」の吾一少年のような暗い面はなくなり、山本先生のイメージ・チェンジになった作品ばかりである。私はこのシリーズなら執筆のし甲斐があると考えて、あり難くお受けした。  有一君の尽力でその話が決まり、私が書いた原稿を山本有三先生が校閲されることになった。これが並みの校閲ではない。数日かけて先生と私が一対一で向かいあい、一字、一句吟味の上、訂正された。「まず文章が長すぎる。原稿用紙一行のうちになるべく収まるような短い文章にしなさい。科学の文章は簡単明瞭でなければいけない。チャーチルが今度の戦争の最中に首相になった時の言葉を知っているか。言葉は短く、簡明直に、という指令を政府の公務員に強制したという話だ。私(山本先生)もこの本の編者としてこのことを君に無理にもお願いする。」といわれる。科学の文章には余計な修飾はいらないが、さりとて文章に潤いがなくてはいけないともいわれた。字は当用漢字、万事国語審議会式に、という指示だった。  山本先生は戦後参議院議員として日本語の新しい表記法をつくるのに熱心で、ご自身この運動のリーダーとしての立場に立っておられた。科学の発展のためにはこれまでのような難しい漢字はしばらく棚上げして、「常用漢字」を設定し、これだけ知っていればよいことにしようという運動は既に1920年代に一度おきている。この時もこのような改革は日本の教育に有害であるという意見があった。フランスなどでもギリシャ語、ラテン語というような古典の知識がバカロレア試験(大学入学資格試験)に必須になっているではないか。このように、国家の指導者になるような人たちには、科学者といえども、このような古典の知識は必要だという論であった。こういった運動は不思議にも文化系のエリートよりも、有名な古典擁護論者の森鴎外の流れを汲む木下杢太郎のような理科系の知識人から提出されていたのである。  山本有三先生は誰がみても文筆家で、どちらかといえば古典擁護派と思われたのに、実際は逆にご自身が国語審議会のリーダーになり、国語の簡素化を叫ばれていた。それだけに、今回の国語の改革案を隅から隅まで知りつくしておられた。しかし、当時はまだ新仮名遣いも当用漢字も新聞雑誌はすぐに採用したが、私たちのような昔の教育を受けた世代の人には外国語のように思えた時代だったので、原稿一枚書くのに大変な時間を費やしたのである。私はかつて木下杢太郎先生に師事していたこともあり、文章の息はどちらかといえば長い。そのために文章を短くするのに本当に苦労しただけでなく、当用漢字の書き方を知らなかったので、漢字は殆ど直された覚えがある。  こうして生まれた新編日本少国民文庫シリーズの7、「世界のなぞ」は三浦義彰編となっているが、実際の著者は山本先生だといっても過言ではない。幸いこの本の一章の「オオカミに育てられた子ども」は日本文芸家協会編の「少年文学代表選集」(1958年)に収録されたし、「動物の不思議な感覚」は日本書籍の「中学国語一」の教科書として再録されている。この二編とも科学的な事柄をやさしく説明する文章の模範として採択さているようだが、これは全く山本有三先生の文章が認められた結果に他ならないのである。  山本先生に教えて頂いた文章の書きかたはその後しばらくは私の書いたものの中に残っていた。しかし、所詮付け焼き刃である。いつの間にか私の書く文章は再び長くなり、分かりにくくなってしまった。  せっかく一対一で山本先生から直接伝授された作文のコツは今では跡形もなく消え去っている。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(19) 呉 茂一(くれしげいち、1897-1977):本郷西片町に生まれ、府立四中を経て一高に入学、父の勧めで東大医学部に入学したが、ケーベル博士の西欧古典文学にひかれ、東大文学部英文科に転入した。卒業後、英国などに留学、オックスフォード大学からウィーン大学に転じ、西欧の古典文学を学ぶ。帰国後は岩波書店の「思想」にギリシャ、ローマの文学の随想とギリシャ叙情詩選の訳を発表(1939年)。戦時中も「思想」に「ケーベル博士の死」(1943年)を、「ぎりしゃの小説」を日本叢書に1945年に発表。戦後は一高、東大、名大の教授を歴任。定年後、1963〜67年にはローマの日伊文化会館の初代館長として赴任した。主な著書として「花冠」、「イーリアス」、「オデュッセイア」、「アガメムノーン」、「アンティゴアー」、「ギリシャ神話」などがある。  呉先生の父君は呉秀三先生で東大医学部の精神科の教授であり、1902年に私の父と共に日本神経病学会を創立された。茂一先生も医家の跡継ぎとして当然の如く医学部に入学してしまったが、1920年代の初めに小説家の有島武郎や東大の哲学科の教師だったケーベル博士との出会いから、西欧の古典に魅せられて、文学部(英文科)に転入された。  この頃から呉先生は一方でケーベル博士に深く傾倒してその西欧古典学の知識を学ぶ傍ら、他方では有島武郎との交流から有島武郎の主催する「草の葉会」にも加わり、主として英文学にも並々ならぬ興味を示し始めておられる。  1947年に発行された呉先生のエッセイ集「花とふくらう」に発表された「ケーベル博士の思ひ出」にはケーベル博士が重態との報に驚き、横浜の総領事館の病床に駆けつけたとの記載がある。呉先生に対して西欧の古典文学に眼を開いてくれたケーベル博士はかねての病気が重くなり、1923年6月14日に亡くなられた。呉先生はこの時、有島生馬とともに臨終に駆けつけている。ケーベル博士は東大の哲学科に招聘された外人お雇い教師であるが、当時の若い人々に与えた影響は大きく、呉先生のみならず多くの日本の青年に慕われていた。岩波書店の後援も与かってケーベル旋風は哲学好きの当時の人々を魅了していたので、その危篤の報は若い呉先生や有島生馬を横浜まで駆けつけさせる程のインパクトを与えたのであろう。  そして、この時は既にもう一人の、呉先生を文学に誘った先輩の有島武郎が軽井沢で波多野秋子と情死した(1923年6月9 日)後だった(実際の遺体発見は1月後)。このことは当時の呉先生ももちろん、共に横浜にかけつけた有島生馬さえもまだ知らなかった事実だったのである。殆ど同時におこったこの二人の先達の死は若い呉先生にとってまたとない文学上の師友を一時に失ったことになり、深刻な影響を与えたのである。  私が呉先生に師事したのは1937 年のことであった。大阪高校を卒業して東大医学部の入学試験を受け、見事失敗して浪人生活を始めた時のことである。神田三崎町のある予備校でギリシャ語、ラテン語の講習会が開かれていた。私はラテン語の初歩を習いたくて、入会し呉先生のクラスとジュネーブ大学フレイさんのクラスの二つのクラスをとった。  呉先生は淡々と授業を進められる方で、その頃はケーべル先生や有島武郎のことなど一言もいわれず、ただひたすらにラテン語の文法を教える謹厳な先生だった。私の方も呉先生の過去にはかつて西欧古典のケーベル博士への情熱的な傾倒があったことも、白樺派の有島武郎との深い交遊もあったことも知らなかったから、カエサールの「内戦」をテキストに使って、ラテン語の初歩を地道に習った。正直にいえばもう一人の先生のフレイさんのフランス語で教えるホラチウスの「世紀の歌」の方に感動を覚えたのである。  「世紀の歌」についてはこの時のフランス語訳から日本語訳をつくり、私は雑誌「冬夏」に1940年に次のような詩を発表した。その乙女の歌の一節を紹介すると、

 ディアナよ、三日月にその髪飾る、
 ディアナよ、タ星(ゆうずつ)の女王(みこ)よ、
 ローマの処女(おとめ)の祈り聞きませ。

 というような文体である。
 呉先生のサッフォの詩の訳は、

 出でたる月はあたかも望(もち)なりければ、
 乙女らは壇(やしろ)をめぐりて並み立つたりける
              (1947年「花冠」より)

となっている。この二つの詩の訳を比べてみると私の訳は本当に拙訳ではあるが、どこかに呉先生の訳に似通った点もあって、一年間教えて頂いたことが影響しているような気がする。  呉先生はあの苛烈な戦争中にも静かな世界に生きておられたとみえて、1942年には「クラシックの書棚より」を丸善の学鐙に発表して、ギリシャ・ラテンの興味ありそうな書籍の紹介を試みておられる。  戦後、呉先生は堰を切ったように専門のギリシャ・ラチンの専門書を書いておられる。これは戦時中に学鐙に発表された「クラシックの書棚より」に紹介された書籍の訳を試みられたものだろう。「イ一リアス」、「オデュッセイア」、「アガメムノーン」、「アンティゴアー」などが続く。  教授定年後ローマにある日伊文化会館長を勤めたが、そのお仕事は果たして先生が初め考えられたような快適なものであったかどうかは疑問である。パリの薩摩会館長なども歴代学者や官僚が館長として赴任されている。私も一度行かないかと打診されたが、かなり雑用が多く、宿屋の亭主みたいな仕事と聞かされておりお断りしたことがある。日伊会館については情報が少ないが、パリと同じようなことがおこり得るから、先生のような静かな学者肌の方には向かなかったかも知れない。  初めにも述べたが、私の若い頃は医者の息子は当然のことのように、医学部に入学することを強いられた。私の家でも医者だった父が先ず兄に医学部進学を勧めていた。兄は父が外国に行った隙に、うまく逃げて経済学部に入学してしまった。父は悔しがって、今度は私に医学部進学を強いた。私は出来が悪いから、みごと入学試験に落ちて浪人し、その時に呉先生のクラスに入ったのである。もしあの時、呉先生が自分も一度は医学部に入ったけれども、好きな方面に逃げ出したらといわれたら、私もそうしたかも知れない。しかし、先生は謹厳で、そんなことはおくびにも出さず、黙っておられたから、私も父の意に反して逃げだすこともなかったのである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(20) ソヴール・カンドウSauveur Candau(1897-1955):カトリック司祭、筆名を貫道、苅田澄とも記した。ピレネー山脈中のバスク地方に生まれ、バイヨンヌ神学校在学中、第一次世界大戦のため招集を受け歩兵小隊長として戦闘中負傷した。戦傷の療養のためブルターニュに滞在中、同地方の信仰生活に感動、パリ外国宣教会に入会、1925年に来日した。戦後日仏学院の創立に当たり教頭として同学院の発展に貢献した。また朝日新聞に毎日記事を執筆、多くの愛読者を得た。1955年血液疾患のため逝去。  1937年春、私は東大医学部の入試に失敗して大学浪人になった。午前中は陵友会という、主として医学部浪人の学校に通っていたが、午後はラテン語の講習会やアテネ・フランセのフランス語のクラスに出席していた。その頃、カンドウ神父はアテネ・フランセで一つだけクラスをもっておられ、その授業が面白そうな様子なので、私はそのクラスを選んだ。しかしそれまでカンドウ神父という方のことは全然知らずにいたのだった。  初めてそのクラスに出席して、驚いたのは私だけではなかった。生徒はみなフランス語を習うために入ってきたのに、先生は初めから終わりまで日本語でしゃべりまくるのである。その日本語も「認識を新たにせねばならない」というような本格的な日本語で、いわゆる外人日本語ではないのである。これではフランス語の勉強にはならないので、止めようかと考えたが、神父の講義はフランス人の考え方を学ぶには大変役立つことに気づき、一年間続けてみた。この間、特にカンドウ神父と個人的に話す機会も殆どなかった。次の年に東大医学部に入学したので多忙になり、フランス語のクラスに行くこともなく、従ってカンドウ神父にお会いする機会もなくなった。そして卒業してすぐに軍務についた。  1944年の春頃、私は海軍の軍医として海南島の海口にある警備隊に勤務していた。ここはカトリックの司教区で司教館があり、その頃の軍部の考え方によると、そこから電波が発信され中国本土の奥地からアメリカ軍の爆撃機が海南島に来襲するのではないか、と憶測していたのである。それを調べるためにはフランス語ができなくてはならないのだが、スパイ係の特務部にはそんな人はいない。仕方なく警備隊に応援を求めてきたので、警備隊から時の主計長が、後にフランス語圏の大使にもなった人であるが、この人が時々司教館を訪ねることになっていた。やがてこの人が転勤され、私がその後を継ぐはめとなってしまった。申し継ぎによると、スパイ嫌疑はないけれども先方も日本の海軍とは仲良くしておきたいので定期的な訪問を歓迎する、とのことだった。  司教館訪問の日は私も日常の診療から逃れられるので、のんびりと司教館を訪ねてみた。時の司教はバスク出身のモンセイニュール・デスペルバンで、暫く雑談をしているうちにカンドウ神父さんとは昔から友人だということがわかり、私がお役目で司教館にいる日は図書館にある本を読んでもよろしいとの許しを頂いた。私は信心深い方ではないので、司教館の図書室にある本などなど縁がないと思ったが、それでも図書室を覗いてみたら、ずいぶんたくさんのバスクの小説類が集められているのに驚かされた。  これらの小説はフランス語で書かれており、バスク語ではなかったので、私にも読めたのである。お陰でその日は私にとっては昼寝と小説読みの休息日になってしまった。  戦後、海南島は中国共産軍に占領され、デスペルバン司教は山形に難を避けて来られた。時折上京の機会があると、カンドウ神父ともども私の家に来られて、ワインを飲みながら故郷のバスクの話など賑やかにして帰られていた。私はこの頃からカンドウ神父とは親しくお話ができるようになったのである。  やがて、日仏学院というフランス語の学校がフランス政府によって建てられることになり、カンドウ神父が教頭に任命された。そして私に医学部の学生を対象として医学フランス語のクラスを開いてみないかともちかけてくれた。開講してみると東京都内の医学校の学生がかなりたくさん集まって、毎週一回楽しく授業をすることが出来、カンドウ神父さんも喜んで下さった。この時の学生には後にフランス政府の留学生になった人も多く、松平寛通君(放射線影響研究所長), 大塚正徳君(医科歯科大学学部長)、大河内一雄君(九州大学名誉教授)などの学界の人や、WHOの中島事務局長などの国際関係の仕事に携わっている人々も多く、カンドウ神父の目論見は見事に成功したようである。  カンドウ神父は晩年血液の病気に侵されていた。私が輸血を勧めた時、「君は、バスク人は特殊な血液型で日本人の血液は適合しないことを知らないね」とたしなめられた。バスク人の起源は謎に包まれていて、特異な血液型をもっていたのだ。それにバスク語は日本語と文章の並べ方の順序が似ていて、バスク人は日本語を習っても早く覚えられるという。日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルもバスク生まれだから、日本語は早く習得したし、カンドウ神父のように毎日、朝日新聞に「かこみもの」を日本語で書いていたような日本語の達人もいる。バスク人の友人でノーベル賞受賞者のセベェロ・オチョアだけはあまり日本語はうまくはならなかったが、日本人には親近感があったようだ。オチョアの晩年、アムステルダムのホテル・オークラのバーで隣のボックスからよろよろと立ち上がって来た人がいた。「久し振りだ」とオチョアが目に涙を浮かべて挨拶された時は、「ああ、この人も生まれはバスク人だ」とバスクの人の人情の厚いのをしみじみ感じたことである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
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