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千葉医学雑誌

千葉医学雑誌一覧
 
千葉医学 76 (3) :101-165, 2000

原著
無発声単語逆唱課題遂行中の小脳賦活の検討
 村上敦浩 山内直人 野田慎吾 児玉和宏 佐藤甫夫
 
境界性人格障害とヒステリー神経症の精神病理学的比較研究:境界性人格障害の診断面接 (改訂版) による症状評価
 大島龍男

学童の肺機能およびその成長に及ぼす大気汚染の影響についての考察
 櫻山豊夫 仁田善雄 島 正之 安達元明

エッセイ
20世紀わが同時代人
 三浦義彰
 (29) 荒木寅三郎
 (30) 柴田桂太
 (31) 山脇敏子
 (32) 沖中重雄

私の2000年問題
 福武敏夫

学会
第13回千葉県重症患者管理研究会
第998回千葉医学会例会・第34回肺癌研究施設例会
第1003回千葉医学会例会・第22回千葉大学第三内科懇話会

編集後記

 
   
  無発声単語逆唱課題遂行中の小脳賦活の検討
村上敦浩 山内直人 野田慎吾 児玉和宏 佐藤甫夫 千葉大学医学部精神医学講座内科学第三講座


小脳の高次機能、 特に言語機能への関与を検討する目的で、 健常人が三音節単語 (日本語) の逆唱を行う際の脳賦活を functional MRI を用いて検討した。 これまで、 語の意味の操作を行う際に右小脳半球が賦活されることが報告されていたが、 今回の結果は、 右小脳半球 (Schmahmann's 3D MRI atlas の命名法で Crus ・の一部) が、 語の音韻の操作を中心とする課題でも賦活されることを明らかにした。 また、 逆唱課題 vs 順唱課題のコントラストと逆唱課題 vs 安静時のコントラストの差が量的差であったことから、 困難な課題を行う際は、 単純な課題と比較して、 低次の領域もより強く賦活してくることが示唆された。 このことは高次脳機能に関する減算法パラダイムの限界を示していると考えられた。
 
   
  境界性人格障害とヒステリー神経症の精神病理学的比較研究:境界性人格障害の診断面接 (改訂版) による症状評価
大島龍男 千葉大学医学部精神医学講座内科学第三講座


境界性人格障害とヒステリー神経症を症候学的に比較検討して、 境界性人格障害の精神病理学的特徴を考察した。 方法として、 境界性人格障害患者 (B 群とする) 48名とヒステリー神経症患者 (H 群とする) 40名に、 Diagnostic Interview for Borderlines Revised (DIB-R) を施行した。 統計解析は、 多変量解析の内、 数量化二類を使用した。 結果は、 DIB-R のトータルスコアは、 B 群:6.13±1.52、 H 群:4.9±2.12 (t=3.05、 P=0.0016) であった。 感情・認知・衝動−行為パターンと対人関係の 4 セクションの中で、 衝動−行為パターンと対人関係のセクションスコアの偏相関係数が各々0.342、 0.287と高値であった。 個々の質問項目では、 独立係数の高い項目として 、 操作 (0.4416)、 孤独の耐性低下 (0.3797)、 要求がましさ (0.3768)、 自傷 (0.360 9)、 などが、 低い項目としては、 世話焼き (0.0533)、 同一性障害 (0.101)、 抑鬱 (0 .1551)、 孤独 (0.1752)、 などがあった。 以上の結果から、 境界性人格障害の特徴として、 衝動行為や対人関係障害が目立ち、 その背景に操作的傾向や孤独の耐性低下などを認めた。 また、 両者に比較的共通する特徴として、 投影的世話焼き、 同一性障害などを指摘できた。
 
   
  学童の肺機能およびその成長に及ぼす大気汚染の影響についての考察
櫻山豊夫 仁田善雄 島 正之 安達元明 千葉大学医学部公衆衛生学講座


大気汚染をはじめとする環境汚染が学童の呼吸器に及ぼす影響については多くの報告がある。これらの報告の多くは横断調査によるものであり、コホートにより長期にわたる影響を検討したものは少ない。  都市環境、特に大気汚染が肺機能およびその成長にいかなる影響を及ぼすかを明らかにするため、東京都中野区の小学校学童を対象に、フローボリウムカーブレコーダにより2年間肺機能を追跡した。とりあげた肺機能のパラメータは努力性肺活量、時間肺活量0.75秒量、同率、50%肺活量時における最大呼出速度 (V50) および同25% (V25) である。急性影響については、肺機能値と近接する大気常時測定局 (中野局) の二酸化窒素、二酸化硫黄、オキシダントおよび気温との関連を、長期にわたる影響については身体の生育にともなう肺機能の成長を、大気が清浄である千葉県内の学童のそれと比較検討した。  全期間検査を実施したものは123名 (男子60名、女子63名) である。急性影響では、大気汚染と肺機能との関連をみると、偏相関係数 (気温の効果を除外) は符号が負のものが多く、特にV50 および V25 とオキシダント、二酸化窒素との関連は統計学的に有意であった。長期影響では、M 小学校の学童の2年間の肺機能の成長の度合は、千葉県の大気清浄地区の学童による基準値に比較して、肺気量では差は見られないが、呼出速度の成長は阻害されていることが明らかにされた。  学童の肺機能は大気汚染の影響を受けることが示唆された。都市の大気汚染の主体である二酸化窒素は難溶性であり、肺の末梢気道部を傷害するとされているが、今回の結果はそれを立証するものであった。
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(29)荒木寅三郎(1866−1942):群馬県生まれ、 1887年東京帝国大学医科大学別課を卒業いったん帰郷し開業したが、 1888年に上京し医科大学の生理学教室の大沢謙二教授のもとに入門。 1889年渡欧しストラスブルグ大学のホッペ・ザイラー教授に師事し、 生化学を学ぶ。 1895年にホッペ・ザイラーが逝去したので帰国、 翌年岡山の第三高等学校医学部で生理学、 医化学、 衛生学を教授した。 1899年に新設の京都帝国大学医学部の医化学講座の教授に就任。 1915年京都帝国大学総長、 1929年学習院院長に任命される。

荒木先生が卒業した医科大学別課というのは説明を要するかと思われる。 明治政府は幕府の西洋医学所を受け継いで医科大学をつくる時、 最初は英国人医師ウイリアム・ウィリスに一任した。 ウィリス医師は明治維新の際、 薩摩藩医として功績があったからである。 その後、 開成学校のフルベッキ (オランダ国籍、 医師ではない) が横槍をいれ、 相良知安を唆してドイツ医学をもとに日本の医学教育を再興することを政府に建議した。 最初に来日したドイツ人軍医らは医学教育をドイツ語のみで行い日本語の講義を禁じた。 明治政府はやむなくこれに従ったが、 その一方で、 西洋医学の知識を持った医師を早急に拡充する必要に迫られ、 別課を設けて、 日本語で医師を促成する必要に迫られたのである (別課の主任には筆者の祖父にあたる三宅 秀が任命された)。 別課は本科にくらべると修学年限も短く促成教育ではあったが、 学生の質はかなりよく、 中には荒木先生のような俊秀もいた。 本科卒業生のいる東大では報われなかった荒木先生も京都大学の医学部の発足と同時に医化学の教授として迎えられたのである。 しかし、 それには荒木先生の留学中の素晴らしい業績が評価される必要があった。

荒木先生は当時ドイツ領だったストラスブルグのホッペ・ザイラーのもとで生理化学を学んだ。 留学前に東大の生理学教室で師事した大沢謙二教授は二度目の渡欧でストラスブルグ大学で学び1882年に帰国しているから、 門下生の荒木先生を迷わずにストラスブルグのホッペ・ザイラーのもとに送ったのであろう。 ここで荒木先生は初めてホッペ・ザイラーの研究していたヘモグロビンの分光学的研究を行い、 次に乳酸の生成に関する数編の論文をホッペ・ザイラーが創刊した生化学の雑誌に発表している。 後者の乳酸の生成は酸素のない所で糖の分解によって生ずるという、 のちの解糖系の研究につながる重要な研究で、 筋肉の収縮機構の解明に重要なヒントを与えたものといえよう。 その他、 核酸の分解、 臓器の自己融解などの論文も発表されている。1895年にホッペ・ザイラーが70歳で死去したので、 その年に荒木先生も帰国、 翌年から岡山にあった第三高等学校の医学部で生理学、 医化学、 衛生学を教えることとなった。 そして1899年、 それまで東京大学にしかなかった医学部が京都大学にも設置されることとなり、 初代の医化学の教授として、 荒木先生が就任されたのである。 しかし、 その研究設備に対しては大変貧弱な予算しか与えられなかった。 後に荒木教室の門下生となり、 さらに大阪大学の医学部生化学教室に教授として赴任された古武 (こたけ) 弥四郎教授は1925年の第一回日本生化学会で荒木先生時代の京都大学のことについて追憶談を述べている。 それによると、 次のような信じられないような実験室であった。

『荒木先生の実験室には水道がなくて、 外から水を汲んできて、 高い所にあるタンクにいれるのです。』 また、 『物を熱する時はアルコール・ランプはアルコールが高価だというので、 石油を使っていました。』 水道もガスもない化学実験室など想像もつかないが、 東大の生化学教室の隈川教授の所もピペットは教授室の備品で、 教室員が使う時は教授の前で三拝九拝して貸してもらわなければならなかったそうである。当時、 一番裕福だった研究室は佐々木隆興先生の所で杏雲堂病院からの収入で東大より遥かに物が揃っていたそうである。 筆者も東大在任中、 衛生看護学科に赴任させられ、 学生実験室しか与えられなかった時代はアメリカ軍の中古の大型の冷蔵庫を貰ってきて、 その中で傘型遠心器を回してミトコンドリアを分離していた。 また1960年に千葉大学に赴任した当時、 生化学教室にあっためぼしい機械は遠心器だけであった。あまりに設備が貧弱だとかえって研究者は奮起するものである。荒木先生は京都ではあまり長くは実験研究に専念はできなかった。 その温厚な性格を見込まれて管理職の仕事が増え、 ついに1915年には京都帝国大学の総長になられた。 まだ50歳にもなられていない時である。

荒木先生の伝記は多数あるがどれも先生を褒めちぎり、 神様扱いのものが多い。 確かに先生は真面目な方ではあるが、 人間味もある方である。 私はそれをドイツ留学時代の友人の入沢達吉先生 (内科学) から直接聞いているし、 入沢教授と同僚だった私の父、 三浦謹之助もそのことを緒方富雄先生との対談の折りに話しているので、 次に紹介してみよう。 括弧内は三浦謹之助の言葉である。『入沢がよく言うんだが、 例の手首から先だけのカフスがあるでしょう。 それから 、 烏賊 (いか) といって首から胸にかけてだけあって、 背中にないものがありますよね。 荒木がそれをはめて或るお嬢さんと握手をした。 そうしたら吊ってあった紐が切れてスッポリと袖のカフスだけが抜けて向こうの手に移ってしまった。 それで荒木はそれ以来落ちないように手の指を拡げて歩く。 今でもそれをいうと荒木は閉口する。入沢は時々話をこしらえるから本当か嘘か知らんが、 荒木のいやがるところをみると 、 どうも本当らしい。』

 私が小学 3 年生か 4 年生の頃だから1924〜 5 年の頃、 荒木先生、 入沢先生 (当時は東大名誉教授)、 父と私の 4 人で小金井の天文台構内へお花見に行ったことがある。 その時私は入沢先生から直接話を聞いたし、 父もまたあの話をしているとニヤニヤしていたが、 私は入沢先生の話術に魅せられて面白くこの話を聞き、 今でもその時の情景が目に浮かぶのである。 荒木先生は燗漫の花の下でご自分の指を拡げて私に見せて下さったのである。  後年、 私は医学部を卒業直後、 海軍の軍医になり、 あの頃の海軍の軍服を着るようになった。 固い袖のカフスと固い胸の甲のワイシャツを毎日着ていると、 袖口と襟とはすぐに汚れてその都度クリーニング屋にワイシャツごと出すのだが、 糊付けしてもらうのが面倒で、 荒木先生のような袖だけ、 襟と胸の甲だけというような簡便なものがあったら便利だろうなと思ったことがある。 海軍はお行儀のやかましい所だから、もちろんこんな簡便なワイシャツは許されないが、 荒木先生も留学中は襟と袖の汚れになやまされておられたのだろう。 しかし、 大切なランデブーにきちんとしたワイシャツを召さなかったのが間違いの基だったと思われる。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(30)柴田桂太(1877−1949):東大薬学の創始者である柴田承桂の長男として生まれる。 1899年東大理学部植物学科を卒業、 大学院に進む。 第一高等学校教授 (1907)、 東北大学助教授 (1910) を経て、 ライプチヒのプェッファーの教室及びフランクフルト・アム・マインのフロイントの教室に学ぶ (1910〜2)。 1912年に東大助教授、 1918年には同教授となる。 1924年には新設の植物生理化学講座に移る。 1938年定年退職後岩田植物生理化学研究所所長、 1941年以後は資源科学研究所所長を兼ねる。

日本で植物生理学の講座が初めて開かれたのは1895年で、 東大で三好 学教授が講義を始められた。 柴田先生はその4年後に卒業された。 卒業後しばらくは形態学的な論文も書いておられるが、 ドイツ留学後から戦争の始まるまでの時代はフラボンとかアントシアンとか植物の成分の化学的研究に絞られてきている。フラボンという化合物は殆どすべての植物に分布していて、 この化合物が紫外線を吸収する作用があるために、 天然の紫外線から植物を保護しているものではないかというのが柴田先生の考えであった。 1918年に柴田先生はフラボンの研究で学士院の恩賜章を受賞している。 またアントシアンというものは植物の花の色素で、 広義のフラボンに属する。 花の色や紅葉の色づきと大変関係の探い物質群である。 こういった一連の研究の発展には柴田先生の実弟で分光化学の大家である柴田雄次博士の協力があった。戦争中には花の色や紅葉の仕組みなどの研究ははばかられたので、 柴田先生は陸軍の依頼で当時発見された抗生物質のペニシリンの国産化の研究もしておられた。

さらに1940年頃から呼吸酵素のシトクロームをめぐってベルリン・ダーレムのワールブルグやケンブリッジ大学のケイリンなどと華やかな論争が展開されている。 シトクロームというのは動物でいえばへモグロビンに似ている化合物だが、 これは植物だけではなく、 動物のミトコンドリアにも存在していて水素原子を運搬する一連の含鉄化合物でヘモグロビンに似ている。 チトクローム系をもつに至ったために生物は効率のよいエネルギー獲得装置をもつことになったのである。この研究にも分光光学の手法を必要とするので、 柴田雄次先生の協力もあり、 後に大阪大学の教授になった奥貫一男博士の尽力で完成したものが多い。 柴田先生はよき協力者を多数周囲にもっておられた。 柴田先生の業績を語る時、 落としてならないのは Acta Phytochimica という雑誌の創刊である。 この学術雑誌は1922年に岩田研究所から発行されたもので、 化学者の真島利行、 柴田雄次、 朝比奈泰彦などの諸博士の協力による植物化学の専門誌である。同じ頃、 人や動物の生化学の英語による専門誌の Journal of Biochemistry には初期の頃は植物の生化学の論文がなかったのは、 この Acta Phytochimica があまりにも強力であったからであろう。 同様に薬学領域の生薬学の論文もおもに植物を材料とした天然物化学であるから、 この雑誌に掲載されるようになった。

私が初めて柴田先生のお宅に伺ったのは1922年である。 私は暁星小学校の一年生、柴田先生はもう東大教授になっておられた。 先生の次男、 承二君は私の同級生である。 私は兄が十五歳も年上で遊び相手がいないので、 お互いの家庭環境の似ている柴田さんのお宅なら遊びに行ってもよいということになっていた。先生のお宅は小石川の小日向台町の坂の上にあり、 またその上にも屋敷町が続いていた。 承二君はその頃戦争ごっこが好きで、 仮想敵はお庭の奥の芝山の彼方にいることになっていた。 二人で歓声を上げながら、 芝山を登って攻め上がって行くといつしか柴田家の境界を越えて、 お隣のお庭まで侵入していることに気づかない。 敵陣を占領して承二大将の発声で黄色い声を張り上げて 「エイエイ・オー」 と勝鬨 (かちどき ) を挙げると、 遠くの縁側からニコニコした小父様が現れて、 敵軍の豆大将にお菓子を下さったこともあった。 この小父様こそ、 誰あろう、 今は五千円札の肖像でお馴染みの新渡戸稲造 (にとべいなぞう) 先生にほかならない。 幼い日の懐かしい思い出である。

時は流れて、 私が今度は友達のお父様ではなく学者としての柴田先生を海軍の航空医学研究所の使者として、 資源科学研究所の所長室にお訪ねしたのは戦争も末期に近い1944年の頃である。海軍はこの時期、 南洋諸島に置き去りにされた守備隊の兵士たちに十分な食糧を送ることが出来なくなって、 なるべく現地の自給自足を奨励していたのである。 このサバイバル作戦にタンパク源になるような魚が重要なのだが、 南洋諸島の魚類の中には案外毒のあるものもあって、 中毒する例も後を絶たない。 対策として毒魚の簡単な図譜のついたサバイバル読本を作ろうという計画が議題にのぼった。 資源科学研究所には南洋の魚類に詳しい先生がいると聞いたので、 柴田先生の助力をお願いに行ったのである。 幸い資源科学研究所にはそのことに詳しい研究者もいて、 全面的に協力して頂けることになったが、 南洋の毒魚の中には湾が異なると毒性も異なるものが多いという。 しかし、 そんなに詳しいことは現地には不必要なので、 必要最小限の絵をいれることになった。 この絵も含めて絵描きさんは当時海軍の嘱託をしていた長崎抜天 (ぱってん) さんにお願いすることになった。 抜天さんは北沢楽天のお弟子さんで時事新報によくマンガが出ており、 戦後は NHK のトンチ教室の常連で人気のあった方である。

南洋諸島の毒魚の問題は柴田先生の斡旋で専門家もみつかり無事解決したが、 海軍はもう一つ難間を抱えていた。 それは南方の洋上で撃墜された航空機の乗員が鮫に襲われるので、 よい撃退法はないかということである。 これについてはさすがの資源科学研究所にも専門家はいなかった。 柴田先生がいわれるには 「私は植物屋で動物のことはあまり知らないが、 房総半島の一角には鮫を飼っている所があると聞いたから、行ってみませんか」 とのことだった。 早速翌日行ってみると確かに鮫は飼われていたが、 この鮫はおとなしくもう人を襲わない。 そこの人は 「やはり赤フンドシがよいようです。 鮫は赤い色に敏感で寄ってきますが、 自分の身長と比べてそれより長いものは飲み込めないとあきらめるらしいのです」 という。 鮫がどう思うか分からないのに自信ありげな答えだった。これには後日談がある。 柴田承二君と赤坂御所に伺った時、 陛下が 「三浦さんは戦時中どんな研究をしていましたか」 とご下問があり、 「いろいろ致しましたが、 鮫よけの方法は赤……」 といいかけて、 後ろから承二君に背中をつっつかれた。 よく見たら、皇后さまが笑いをこらえておられたのが目に入り、 後が続かなくなってしまったことがある。 もし柴田桂太先生がご存命でこの話を聞かれたら何といわれるか身の縮む思いである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(31)山脇敏子(1897−1960):1903年女子美術日本画科卒、 1910年津田青楓画伯と結婚、 1923−1926年農商務省留生としてパリに赴き、 洋裁、 製帽を習う。 戦後、 山脇服飾美術学校を創立。

最初に女史を私に紹介したのは父であった。 駿河台の家のご近所に引っ越して来られた山脇さんが私の所有になっている空地が欲しいといっておられるとのこと。 私は早くから分家して、 その時父から駿河台にかなり広い空地をもらっていた。 今は明治大学の一部になっているが、 当時は戦後の混乱期で、 私のような世間にうとい者にはどうしてよいか、 いい知恵も浮かばないまま放置してあった土地である。 お会いしてみると、 やせ型で当時の女性としては背の高い方で、 物事をズバズバいわれる人だった。 あなたの土地を買い取って服飾の学校を建てたいのです、 といわれる。 私はあまり深く考えずに売買のことは父に任せ、 逗子の家に帰ってしまった。 その後、 父からの連絡で、 そこに建てられる筈の学校の先生にならないか、 講師料は破格で、 とのこと。 当時は東大に勤めていたが無給だし、 週のうち水、 土、 日と逗子で内科医院を開業してどうやら食べていた時代なので、 否応もなく私は服飾学校の講師になった。当時は教職に就くにはまず占領軍 GHQ の許可がいる。 私のように旧海軍士官はなかなか許可が下りない場合もあるので、 心配したが案外早く許可が出て、 私は生化学ではなく服飾を教える先生として教職の許可を貰ったのだった。 この許可証は後に共立女子短大の講師になるため、 共立学園の事務所に提出したら、 あなたはこの学校で服飾を教えるのですか、 と真面目な顔で訊ねられて困ったことがある。

山脇女史はもと津田青楓画伯の夫人だった頃、 パリで洋裁や帽子作りの修業を積み 、 帰国後も帽子作りを教えておられたそうである。 パリではまだあまりフランス語が分からないころ、 メトロの乗換も分からなくなって環状腺をクルグル廻るうち、 どこかの駅でとうとうトイレまで間に会わずに漏らしてしまった話などを淡々と話された。 そういう時は裾に毛皮のついたロングスカートは便利です、 そこから湯気が出ていたのですが、 毛皮のお蔭であまり目立ちませんでした、 といわれた。津田画伯の関係で山脇女史は夏目漱石の一家やお弟子さんたちとも親しく、 安倍能成 (よししげ)、 小宮豊隆、 寺田寅彦などとも親しかった。 私も紀尾井町の福田屋で開かれた何かの会の時、 同席させて頂いたことがある。 安倍、 小宮等の大先生がおられ、安倍先生が大分酔われていたのを思い出す。 私は学生時代、 木下杢太郎先生の仲間にいれて頂いていたので、 文学関係の方々はどちらかといえば鴎外流のややペダンティックな感じの人々に親しんでいただけに、 漱石のお弟子さん方の開け拡げの賑やかな酒席を呆気にとられてみていたのだった。

漱石のお弟子さんの中で山脇さんから紹介された異色の人物はエリセーエフさんであろう。 セルゲイ・グリゴリエヴィッチ・エリセーエフ (1889−1975) さんは世界の日本学の基礎を基いた人である。 彼はセントペテルスブルグの富豪の家に生まれ、 十一歳の時にパリで開かれていた万博を見物して初めて日本館を見て以来、 日本に魅かれ、 結局ベルリン大学で日本語を学んだ。 1908年に東大に正規の試験を受けて入学、大学院卒業まで 6 年間、 日本語の古典から現代文学までを学んだだけでなく、 歌舞伎 、 日本舞踊、 落語にも趣味があった。エリセーエフさんは漱石一門だったので山脇さんとも親しく、 私たち夫婦が1952− 1953年にアメリカに留学した時はハーバート大学教授だった。 山脇さんはエリセーエフさんに紹介状を書き、 ぜび会ってきて欲しいといわれた。 当時エリセーエフさんは日本文学のみならず、 ひろく一般に日本学を教えておられた。 したがって今の日本ではライシャワー大使の先生といった方が通りがよい。私達はハーバード大学の近くで昼食を御馳走になりながら、 エリセーエフさんのすばらしくきれいな明治の日本語に聞き惚れたのである。 エリセーエフさんの日本語は落語家の円朝から学んだものが大きいといわれている。 エリセーエフさんと神田生まれの私の家内との間の長唄や三味線の談義を聞いていると、 私の生まれた大正時代のそのまた前の明治の東京人の口語はこんなに粋な言い回しをしていたのかと明治の東京語が偲ばれるのである。 鴎外は江戸生まれではないから、 こういった粋な話し方はお弟子さんとの間にはなかったろうが、 漱石は東京っ子だからそのサロンでの会話も 「坊ちゃん」 に出てくる会話のように歯切れがよかったのではなかろうか、 とエリセーエフさんの日本語から推測したのである。

1959年に私の兄が亡くなって、 それまで借りていた駿河台の土地から西片に引っ越すことになった時、 私がハタと困ったのは家の建築資金だった。 住宅ローンなどあまりない時代だったので、 思案に暮れていたら山脇女史から電話で 「あなたのお蔭で山脇服飾美術学校が駿河台に建てることが出来て、 今日の立派な学校になったのですから、 今度は私が何とか融通します」 といわれる。 私はお言葉に甘えることになった。 山脇女史は私の西片の家が完成する前に亡くなられた。 丁度その頃、 私は千葉大学に転勤になったが、 折角山脇女史のお陰で建てた家だから、 東京から千葉に通うことにしたのである。
(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  20世紀のわが同時代人
三浦義彰 千葉大学名誉教授


(32)沖中重雄(1902−1992):1902年金沢で出生。 東京の王子の中学在学中に、 親戚の姫路の沖中家に養子縁組した。 1928年東大医学部卒業、 内科の呉建教授のもとで自律神経系の研究を始める。 1943年助教授に任命される。 上海に日本の医学校の設立計画があり、 一度上海に派遣されたが、 情勢を見て実現不可能と判断し帰国、 終戦を内地で迎える。 1946年東大医学部第三内科教授となる。 1961年学士院恩賜賞を受賞、 1966年に定年退職後、 虎の門病院長となる。 1970年文化勲章受賞。

経済的な不況が続くと、 政治的に中庸の政党よりも右、 左に極端な政党が台頭する傾向がある。 1930年代の終わり頃は右翼と陸軍の一部が勢力を伸ばし、 1941年の 9 月頃になると日米交渉は暗礁に乗り上げ、 戦争必至の空気が漂っていた。 私は東大医学部の卒業をまじかに控えた学生だったが、 その頃の風評によると、 卒業が早くなって私たちは翌年初めには軍医として軍務につくことに決まったという。 この風評に対して医学部長がひそかに橋田文部大臣 (元東大医学部教授) に問い合わせると、 それは単なる噂ではなく、 閣議にも出ている話だといわれる。 それでは卒業前の学生に対して軍医としてすぐにも役立つような臨床教育を卒業までに叩き込もうというので、 卒業間際の学生は一日中臨床の実習をすることになり、 私はある内科教室に配属された。この教室の教授は別の内科出身で、 この内科の教授になったばかりだった。 学生達は教授の回診の後について入院患者の診断経過などを学び、 一休みしていると当直が呼びに来てもう一回回診があるという。 行ってみると、 若いのにすっかり禿げあがった沖中講師が再び学生を集合させ、 もう一度回診をするというのである。 何事かと思って、 沖中講師について行くと、 「先程の教授の診断はみな間違い。 これから本当の診断を教える」 といわれる。 これはよそものの教授に対する旧教室員のレジスタンスなのだということは察しがついたが、 若い講師の診断の方が活気もあり痛快だったので 、 学生はすっかり喜んでしまった。 後に内科の神様といわれた沖中先生にもこんな元気な時代もあったのである。案の定、 12月には戦争が始まり、 翌年の夏にはもう私は横須賀の航空医学の研究所に軍医として配属になっていた。 その研究所に沖中先生は週に一度顧問として来られる。 戦況はまだ勝ち戦で余裕があったので、 余暇に野球の試合なども行われていた。 あの気鋭の沖中顧問は野球は一高時代からお得意のスポーツなので、 海軍でも研究に、スポーツに活躍しておられた。

さて、 戦争も終わり、 沖中先生は戦後まもなく第三内科の教授になられ、 もとからの自律神経の研究のお仕事のほかに数多くのお弟子さんに恵まれ、 日本を代表する内科医になっておられた。 私は1960年から千葉大学に移ったので、 東大で沖中先生にお目にかかる機会はなかった。しかし、 お年始にお宅に伺うと正月の休みの間にどこかへドライブに行こうという話が出た。 その頃、 沖中先生はドイツ製の外車を買われたばかりで、 このシャレタ車に奥様とご一緒に乗られ、 私は家族連れで国産車で、 毎年のようにお正月は日帰りのドライブ旅行に出掛けたものである。 たとえば成田に空港ができるそうだが、 どんな所か行ってみようというので、 成田方面へ出掛けたら、 まだ高速道路もない時だったので曲がりぐねった狭い田舎道を、 私の国産車は小さいので通れるが、 先生の外車は通れなかったり、 先生は帽子をかぶるとお若く見えるし、 奥様もその頃はまだ珍しかったが髪を紫色に染めておられ、 後ろから見るかぎりは若いカップルが外車でドライブと見えたのか、 土地のアンチャンにからかわれたり、 いろいろなことがあった。 行く先は私が千葉に比較的詳しかったので房総半島などが多かった。 まだ道路事情の悪い時代だったので、 よく沖中先生からもっといい道の所へ行こうよといわれていたのである。

お正月の旅行で一番印象に残ったのは、 勿来 (なこそ) の関に近い茨城の五浦 (いづら) 海岸の宿に一泊した旅行であった。 宿で出た名物のアンコウ料理もおいしかったが、 先生と一緒にお風呂へ入った時の先生の顔の拭き方が大変印象に残った。 先生の頭髪はお若いころから見事に禿げておられ、 映画 「王様と私」 の主役、 ユール・ブリンナーに似ているとご自身でもいわれるくらいツルツルである。 したがってお風呂の中で顔を拭く時は一気に顔から後頭部までツルリと拭かれ、 毛の生え際で止まることがない。 見事にお顔も頭も一気に拭いてしまわれるのであった。

1973年に私は 「看護技術」 という雑誌に一年間病態生化学という原稿を連載し、 ついでこれを単行本としてメディカル・フレンド社から出版した。 この本の序文を沖中先生が書いて下さった。 その中で 「三浦義彰教授とは永い間の知己であり、 それぞれ基礎医学、 臨床医学に永くたずさわっている私共は、 医学そのものに対する考え方についてどうやら共通のものを持っているらしく、 日頃、 お互いの会話の中でよく通じる点があって、 そのためか私はあまりこだわりのない気持でこの序文をひきうけることになった」 と書いてある。 確かに沖中先生と私の考え方との間には何か相通じるものがあって、 随分わがままなお願いごともしたと思う。 家内が東大病院に入院中にも 、 ご自身の体調がすぐれない時にも係わらずよく見舞いに来て下さった。

沖中先生というとすぐに思い出すのは最終講義に話された自分の誤診率は14.3%であった、 という数字である。 これは生前の診断と死後の病理解剖とが不一致だった率である。 これはあくまで病理解剖が正しい診断だという前提に立ったもので、 私は必ずしもそうは思っていない。 特にこの頃は臨床検査の方法も1964年当時よりは進歩しているのでいまは生前の診断がかなり正しいものになっていると考えられる。 沖中先生はご自分でもいわれているように実に運の強い先生である。 呉先生に認められ英国の学会にお供したことも、 教授に選ばれたことも、 文化勲章の受賞のことも 、 ご自分の努力の結果ではあるものの、 運勢の強い方だと感心している。 中でも 「よど号事件 (1970年におこったハイジャック事件、 福岡行きの JAL には内科学会に出席の沖中先生はじめ有名な内科医が十数人搭乗していた)」 では咄嵯の機転で69歳と年齢のサバを読んだので、 赤軍から他の人より早く釈放されたのである。 この時は先生の頭髪が少ないのが大変役立ったようで、 これも連の強い方の証拠である。 晩年、 脳の血管障害がおこり、 奥様ともども、 ご自分で作られた虎の門病院分院に長く入院されていたことだけはあまりいい運ではなかったが、 それ以外のことは本当に運勢の強い方であったと思われる。
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