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千葉医学 78 (6) :243-301, 2002

第78回千葉医学会学術大会抄録
T. 特別講演:消化管二重造影法の開発から, 早期胃癌診断実践の道のり
 市川平三郎
U. 招待講演:診断学の進歩からみた消化器がん検診システムの諸問題
 丸山雅一

エッセイ
 私の20世紀
  三浦義彰
  第 10 章 私の球暦
  第 11 章 外人のテニス仲間

  わが国の臨床医学研究 translational research の光と影について
  吉田 尚

話 題
江戸時代の眼科小史
  千葉彌幸

海外だより
Yale University
 上野博一

研究報告書
平成13年度猪鼻奨学会研究補助金による研究報告書

学会
第1033回千葉医学会例会・整形外科例会
第1034回千葉医学会例会・臓器制御外科学 (第一外科) 教室談話会
第1041回千葉医学会例会・第二内科例会・同門会

雑報
ゲッティンゲン便り\
 高野光司

編集後記

 
   
  第78回千葉医学会学術大会
T. 特別講演:消化管二重造影法の開発から, 早期胃癌診断実践の道のり
市川平三郎 (国立がんセンター中央病院 名誉院長)


 白壁彦夫先輩 (1945卒) は, ずっと外科医になろうと思っていたということは, かなり後になって 知ったことだ。 そして, 私自身も学生時代から外科医を夢見ていたのだ。  しかし, 当時は, 病変の位置, 拡がり等に関して正確な客観的な診断のないままに手術をしていることが多く, その様子に何か物足らぬ感じを抱いていた。 これが, X 線診断の道に入った動機だったように思う。 学生時代から白 壁先輩のお手伝いをしながらレントゲン室に入りびたりだった私は, すべての診断に際してスケッチを描く作業を深夜 までお手伝いしながら覚えて行ったものだ。 1948年に卒業してインターンを終わってからは, 第一内科に入局して, ひたすら教わりながらスケッチを書く仕事に没頭していた。

 当時, 腸結核の診断は間接症状ばかりだったのにあきたらず, 白壁先輩が結核性潰瘍を直接に写し出す努力は, 本当に壮絶とすら言えた。 この努力を認められた当時の第一外科・河合直治教授の特別のご好意で入手出来た切除腸を 材料にして, そのX線写真を様々な条件で撮影しているうちに, バリウムと空気とを程よく入れた像が病変を最も正確 に表現していることを知った。 丁度その頃入手されたフィッシャーの本の中にも空気注入法が掲載されており, 注腸検 査にはすべて空気とバリウムを注入することになった。 これが, 大腸二重造影法で, その後の改良によって, 現在の 美しい写真が得られるようになったのだ。

 しかし, これを胃の診断に応用するのには, もう一つの難関があった。 つまり, 胃の粘膜を覆う粘液がバリウムの 付着を妨げていたのだ。 試行錯誤の末, 濃いバリウム液を多量に飲んだ後に, 激しい体位変換をすることで, 美しい 粘膜表面の姿を浮き彫りにすることに成功した。 これには熊倉賢二君 (1950卒) の功績が大きい。 その後, 世界ではじ めて線状潰瘍を写し出すのに成功した。 そのうちに, 見たこともない低い隆起性病変を見つけ, 当時昭和大学教授だ った村上忠重先生の示唆もあり, その例を早期胃癌と診断したのだが, その頃の病理・滝沢延二郎教授は, 癌とは認 めて下さらなかった。 10年後には認めて下さったのだが, その症例が, 術前に診断された早期胃癌症例のわが国の第 一号であった。 その後も, 毎月のように学会発表を続けた。

 昭和37年 (1962), 国立がんセンターが創設され, 梅垣洋一郎・元本学放射線科助教授と白壁先輩のお奨めで, 山田達哉君 (1953卒) と共に東京に赴任した。 驚いたことに二重造影法を知っていたのは, 私達二人だけで, 梅垣部長 を除いては, その効力については全員疑問視するばかりで反対する専門家が多かった。 毎週のカンファレンスで診断の 正確さを知った当時の久留勝病院長が絶大な後盾となって下さったのは嬉しかった。 国立がんセンターでの早期胃癌発見 数が増加し, その成果を出版 (「胃 X 線診断の実際」 文光堂 (1964))して以来, 全国から研修医が殺到した。  この成果をはじめて世界に発信したのが, 1970年ヒューストンで開催された国際がん学会であり, 多大な影響があり , その後, 世界35ヶ国から招かれて講演することになった。

 その後のことは 「ドクター平三郎の世界漫遊記」 タケハヤ出版 (1996) とか, 「胃 X 線造影を極める」 永井書店 (2001) に詳述した。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  第78回千葉医学会学術大会
U. 招待講演:診断学の進歩からみた消化器がん検診システムの諸問題
丸山雅一 (財団法人早期胃癌検診協会 理事長)


はじめに
 近年, 胃に限らず, 大腸においても, 相互に補完的な立場をとりながら進歩してきた X 線と内視鏡診断の枠組が崩壊の兆しをみせている。 X 線診断が急速に退潮し, 内視鏡診断が唯一の検査法になりつつある。 このような状況は, 我が国のみならず, 国際的な規模で拡大しつつある。  X 線検査・診断のシステム自体が崩壊しつつある。 検査法としての優劣の問題ではなく, システムを維持する人材の不足がその原因の最たるものであろう。 歴史の必然として受け止めるしかないこのような状況のなかで, 胃がんと大腸がんの検診, なかでも, 一次スクリーニングを間接 X 線検査によって行う胃がんの検診は危機に瀕している。 そして, 最近, 注目をあびているペプシノゲン法による胃がん検診が, これまでの検診の枠組みに変化をあたえつつある。  大腸がんの検診は, 免疫学的便潜血反応を一次スクリーニングとして行い, その陽性者に対して, 注腸 X 線検査, ないしは内視鏡検査によって二次検診 (精密検査) を行う。 都市部においては内視鏡検査が多く施工されているが, 全国規模でみれば, 注腸 X 線検査も数多く実施されている。 大腸がん検診の問題点は, 二次検診のコンプライアンスが非常に低いことである。

胃がんの検診
胃がん検診の現状
 日本消化器集団検診学会の集計 (平成11年度) によれば, 検診受診者数が漸減傾向にあるとともに, 受診者の固定化が目立つ。 発見された胃がんの68.4% (3173/4638) は早期がんである。 この割合は経年的にみてほとんど同じである。  最近は, 早期がんのなかでも, 内視鏡的粘膜切除術 (EMR) によって完全治癒可能な 1 cm, ないしそれ以下の小病変が日常的に発見されるようになった。 これは主として, 内視鏡診断の進歩に負うところが大きい。 早期胃癌検診協会においては, EMR が可能であった病変の約50%は X 線検査 (直接・間接) によって発見されている。 このあたりが X 線検査の診断の限界であろう。

胃がん検診の精度管理
 間接 X 線検査による胃がん検診の精度については, 感度 (Sensitivity) 57〜90%, 特異度 (Specificity) 77〜91% である。 感度については, ばらつきが大きい。 事実, 平成11年度の集計によれば, 発見胃がん5,113例 (間接+直接) 中, 初回受診で発見されたのは955例 (18.7%) にすぎず, 2,694例 (52.7%) は前年度に受診歴を有するものであった。 また, 2 年前の受診歴を有するもの10.1%, 3 年前の受診歴を有するもの7.2%も無視できない数である。 すなわち, この事実は, 検診によるがんの見逃しを防ぐには, 逐年検診を受ける必要があることを示している。  内視鏡による検診の精度については, これまで, 二つの報告があるのみであり, 感度85.4〜94.5%であるが, 費用, 安全性の面からの検討はなされておらず, 今後の展開は予測困難である。

内視鏡診断の精度
 がん検診以外の場における内視鏡診断の精度については, ほとんど報告がない。 内視鏡検査に従事するものは, 感覚的に, 内視鏡の精度は X 線のそれと比較すればはるかに高いと信じているように思われるが, 実際には, 唯一の報告があるのみである。 これによれば, 1993年度に内視鏡検査で正常と判断された3,672名に対して, 1994〜1996年の 3 年間に内視鏡検査を施行し, 32人 (0.9%) のがんを発見したという (Hosokawa, O, Endoscopy 33 ; 348-352 : 2001) 一施設のみの報告であり, 我が国の現状はまったく不明である。 これまでの経験から言えることは, 内視鏡によるがんの見逃しは多く存在するということである。 ペプシノゲン法 (PG 法) による胃がん検診  本来は, 胃粘膜の萎縮の程度を示すペプシノゲン値 (PG I, PG II) の測定が胃がんの発見に有効であることが報告されて以来, この方法は簡便かつ安価であることから, 次第に検診に採用されつつある。 報告によれば, Cut-off 値を PG I≦70ng, PG I/II≦3 に設定すると, 内視鏡検査による胃がん発見の感度は60〜96%, 特異度は55〜84%である。  しかしながら, 以上の Cut-off 値の場合, 早期がんの30%, 進行がんの29%を拾い上げることができず, また, PG I≦30ng, PG I/II≦2 に設定すると, 早期がんの66%, 進行がんの58%がスクリーニングを逃れてしまう, とする報告がある。 したがって, ペプシノゲン法単独による検診はリスクが高すぎるため, PG 法陰性の場合には間接 X 線検査を勧奨する方法が提案されている。

大腸がんの検診
 検査の方法論における注腸 X 線検査と内視鏡検査の関係は, 胃の場合とほぼ同じである。 大腸においては, 近年, 我が国は平坦・陥凹型大腸がんの存在と臨床的な意義について世界にむけて発信している。 この型のがんの発見についていえば, 内視鏡検査, とくに, 色素内視鏡検査は注腸 X 線検査に比して著しく有利である。  大腸がんの検診では, 便潜血反応を一次スクリーニングとして行う。 陽性者に対しては, 注腸 X 線検査, あるいは大腸内視鏡検査による二次検診 (精密検査) を行い, がんの有無を確認する。 精密検査は, 内視鏡検査が望ましいとされており, 最近はその数が増加している。 日本消化器集団検診学会のデータによれば, 精密検査の方法は施設によって異なり, また, 二つの検査法の組み合わせで行っている施設も数多くある。  検診においては, 便潜血反応陽性者に発見される異常所見の大部分はポリープ (腺腫・過形成性ポリープなど) であり, がんの発見頻度はポリープのそれの十分の一にすぎない。 平成11年度の集計によれば, 全受診者数 (便潜血反応) 1,494,090人に対して, 発見大腸がん0.18% (2,696人), 腺腫1.7% (25,430人) であった。

大腸がん検診の現状−低い精検受診率
 平成11年度の学会データによれば, 受診者の総数は, 3,335,756人, 要精検率は7.2% (240,374人), 発見された大腸がんは4,840 (0.145%) である。  大腸がん検診の最大の問題点は, 精密検査の受診率が非常に低いことである。 前記の学会データによれば, 精密検査の総受診者数は, 143,357人であるから, 受診率は64.8%である。 これを男女別にみると, 男性59.95%, 女性70.81%であり, 女性の精検受診率が高い。 年齢別には, 70〜74歳までは増加傾向にあり, 80%の高率である。 しかし, 40歳〜54歳までの精検受診率は60%に達していない。 働き盛りの年代層で精検受診率が低いこと, これが大腸がん検診の大きな問題点である。

ポリープ (腺腫) の取扱いとサーベイランス
 さらなる問題点は, 大腸がんの約10倍の高頻度で発見されるポリープ, なかでも腺腫の取扱いとサーベイランスをどのようにするか, ということである。 この問題は, 腺腫が癌化するリスクをどのように見積もるか, という大腸がんの組織発生に密接な関連を有するのみならず, 現実問題として, 腺腫を内視鏡的切除すべきか, ということに直結している。 後者の問題は, 保険医療の経済的な観点からしても重大である。  我が国では, 現在のコンセンサスとして, 5 mm以下の腺腫は切除不要でありとされている。 しかし, それでは, 放置する腺腫のサーベイランスも不要であるか, 必要であるならばその間隔はどのようにすべきか, などについては, 医療全体の枠組みとしてのコンセンサスにまでは至っていない。

胃がん, 大腸がん検診の将来
 色々な角度から複眼的に検診の将来を考えなければならない。 大きく分ければ, 検診を提供する行政の問題, 検診を受ける側の問題, そして, 検診を担う側の問題に集約される。

行政の問題
 1998年度からがんの集団検診は一般財源化されて現在に至っている。 以後, 検診を中止した地方自治体はきわめてわずかと考えられるが, 実態は不明である。 ただし, 最近の傾向として, 検診の受注が入札によって行われるようになり, 検診において最も重要な精度が無視され, 価格競争の時代となりつつある。  さらに, 以上のような状況のなかで, 全国的には言うに及ばず, 都道府県レベルにおいても, 40歳以上の検診受診者の総数を把握することがまったく不可能なことである。 上述の日本消化器集団検診学会, 日本対がん協会, そして, 旧労働省, などがこれまで発表した集計結果はそれぞれのデータの出所が異なることが明らかである以外, その内容を追跡することは不可能である。 たとえば, 東京都には対がん協会が存在しないから, この組織を経由するデータは存在しない。  このことは, がん検診の計画性, これに基づく有効性の検証など, 極めて重要な問題を解明するために必須の要素が最初から欠如していることを意味する。

受診者側の問題
 症状はないが, がんが心配だという人は, 検診や健診の専門の機関を利用すべきであり, 逆に, 症状がある人は, 取り敢えず検診を受けるという安易な方法をとらずに, 病人として病院を受診するのが当然である。 しかしながら, 我が国の医療の実態としては, 保険診療の枠組みで検診や健診が行われていることは事実である。 医療行政のあるべき姿から言えば, 保険診療で検診・健診は行わないという原則を国民と医療機関に徹底することが急務であるというべきであろう。  言い方を換えれば, 病院を受診する目的と検診を受ける目的の違いについても, 国民的な啓発運動が必要である。 現状のように, 検診と病人の診療が混在している病院のあり方は, 病人が十分に時間をかけた医療を受けることができないという理由のために, 望ましいことではない。 このことは, 検診と病人の診療双方の精度の劣化を引き起している。

検診を担う側の問題
 我が国には, がんセンターという名称の医療施設が相当数ある。 しかし, それらの機能は, がんの治療が主であり, がんの早期発見ではない。 病院では症状のある患者を診療するという本来の目的を保険診療の枠組みのなかで無理なく行うためにも, 胃がん, 大腸がん, 肺がん, 乳がんなどについては, 無症状の人達を対象にしたがん検診の場がもう少し整備されることが望ましい。  医師が X 線診断を継承できない状態にあることはすでに述べた通りである。 同時に読影医の質の低下がすでに始まっている。 これまで胃がんの検診システムを支えてきたのは放射線技師である。 彼等は, X 線検査のなかではもっとも難しい間接 X 線撮影を実際に行ってきた。 したがって, 今後もがん検診を継続するという前提に立てば, 放射線技師の教育を強化し, 精密検査が必要か否かの判断までを放射線技師に委ねる, という決定を国の施策として行い, トレーニングのプログラムを作成することがもっとも現状に則した解決法であると考える。 そのためには医師法と診療放射線技師法など, 関連する法律を整える必要がある。


(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 10 章 私の球暦
(1) 私のテニス事始め
私は1941年に東大の医学部に 1 年浪人の後に入学した。 浪人中に運動不足を補うため, 自宅のコンクリート壁に向 かって古い木製のラケットを振り回して硬球ボールをぶつけていた覚えがある。 そうしてみるとそれ以前から硬球のテニスを少しは 習っていたのだろう。 おそらく叔父の別荘が新那須にあり, そこへ遊びに行った時, 「近光荘」 テニスコート (別荘付属のクラブ) で従兄弟たちから習ったものだろう。 そんなわけで軟庭はついぞ経験がないから, ラケットのグリップは最初から硬球式のイース タンだった。  私が入学した旧制高校は大阪高校で, 入寮したらクラブ活動の勧誘があった。 私自身は那須で僅かながら硬球の経験があり硬庭部 に入りたかったが, そのころ兄がテニスをやると胸膜炎を起こしやすいと, 医者でもないのに変な理屈をつけて, いったん入った 硬庭部から引きずり出し弓道部に変えさせられた。 今から考えると兄は自分が山形高校入学後, テニスを始めたら以前の結核症が再 燃しかけたことがあり, 結局河原でゴルフの真似事をして (当時はゴルフ場がないので河原でクラブを振ったとか), 運動不足に対 処していた経験から出た話である。 当時のゴルフクラブなど舶来品しかなかった時代 (1923年頃) にうまく父を騙してゴルフ道具を 買う大金を父に出させた兄の手腕には敬服するが, お陰で私はテニス上達の最良の機会を失ってしまった。

(2) お茶の水テニスクラブ
 1930年代から, 外壕通りにある順天堂医院の横手にちょっと奥まって, お茶の水テニスクラブという数面のクレイコートしかな いテニスクラブがあった。 敷地は順天堂の持ち物で, おそらくテニス好きの順天堂の院長, 佐藤達次郎博士のお声がかりで, 順天 堂の医員たちのために出来たものであろう。 順天堂が大学になる前の話である。  私は1938年に東大医学部に入学後すぐにこのクラブに学生会員として入れて貰った。 当時東大経済学部の学生だった, 駿河台の自 宅の近所に住む従兄中村正男の紹介だったと思う。 会員には東大の法経の学生が多く, 地味な雰囲気のクラブであった。 私は午後の 臨床講義をサボってここによく出かけた。 サボり仲間は同じ M gruppe (医学部学生の名簿順に分けたグループ) が多かったから, サ ボると目立ったものである。 しかし部活 (学校のクラブ活動) と違って自由だが, 指導者がいないのでいつまでも上手くならない。 クラブテニスの欠点は学校のテニス部に入れば先輩から仕込まれて, ボール拾いから厳しく躾けられるので, 自然にマナーも覚える のだが, 中年までテニスをしたことのない人がいきなり入ると, 年輩の人にはマナーを教え難く常識程度のことも知らないままのこ とがある。 こういう人のボールは隣のコートにも迷惑をかけるので, なるべくなら仲間に入れたくないのだが, そうもいかなくて, ストレスが溜まるもとになりがちである。 こういったことはお茶の水クラブではなかったが, 神宮クラブでは時々経験した。  1930年代はもう中国東北部の局地紛争が中国全体に広がっている。 出征する若者も多く, 世間の眼を意識すれば学生ゆえに徴兵猶予 の我々が派手にラケットなど持ち歩けない雰囲気もあったが, 本郷とかお茶の水は学生街なのでお目こぼしに与って居た。    このコートの管理人はラケットショップのフタバヤ出身なので, ラケット選びもシープのガットを張るのも引き受けてくれた。 し かしボールだけは輸入品で, 戦時下ではそろそろ手に入り難くなりかけていた。 国産のボールは軽すぎて具合が悪く使えなかった。  女性のプレイヤーは今と違って大変少なく, 本当に運動好きな地味な人だけだったが, 私たちの仲間には従姉妹やその友人などが 加わり, 時に華やかな彩りをみせていた。 しかし, 1941年の12月に太平洋戦争が始まり, 男性メンバーが出征し始めると, 一時は 相対的に女性メンバーが増えたこともあったが, 1943年にもなると, 東京にも空襲などがあって, 誰もテニスなどしていられなく なってしまった。

(3) 戦後のテニス
 戦時中のテニスについては別の所で述べた。 戦中戦後に住んでいた逗子に戦後いち早くテニスコートが復活して誘われたが, 食糧 事情も悪く, それに収入も不安定でとてもテニスどころではなかった。 生活も安定し食事もよくなって, テニスでもしようかと考 えるようになったのは1952年から 1 年間アメリカに留学してからである。  1952年に私はロックフェラー財団から奨学金をもらい戦後初めてのロックフェラー・フェローとして, ペンシルヴァニア大学に家 内同伴で留学した。 日本人の学生も同じ大学に数人留学して居ることが分かり, その連中と日曜日に大学のテニスコートでテニスを 始めた。 家内も以前軟庭をしたことがあるので上達も早くテニスを楽しむことが出来た。  1953年の 6 月には, 私が師事していたブキャナン教授がボストンのマサチュセッツ工科大学の教授に転任したので, 私は残りの 留学期間をボストンに近いコッド岬にあるウッズホール臨海生物学研究所で過ごすことになった。 ウッズホールは海岸で気候がよく, 7 月は毎朝ノーベル賞クラスの生理生化学者の講義があって, 全米のみならずヨーロッパからも若い研究者が集まってくる。 ここは 避暑地だから, 全員オープンシャツに半ズボンで, たまにネクタイなど締めているともう帰るのかと訊かれる。 午後は 3 時頃まで, 殆ど全員が 「泳げるビーチ」 (ここは寒流の流れてくる浜もあって, 泳げる浜は一カ所だけ) に家族同伴で集まり, 日光浴とおしゃ べりで過ごす。 実験を始めるのは夕方になるので, 夜中まで続くことになる。 殆どの人が寄宿舎住まいで食事は食堂ですますから, 仕事のない家内は暇を持て余し, 朝からテニスをしていた。 お陰でここのトーナメントに出場, ついに準優勝する迄上達した。 この 経験が自信になり, 日本に帰国するとその頃出来たばかりの神宮テニスクラブに入り, 私は暫くはゲストで日曜にテニスが出来るだ けだった。  やがて東大医学部にも硬庭部が生まれ, 部長は分院の外科の教授で手術に忙しいので, 当時基礎の助教授の私が補佐役 になった。 学生には留学の経験からテニスだけでなく, 自宅でのパーティや, 外人教師による英会話教室を開いて, つとめて若い 人に接した。 東大には練習コートも少ないので, 部員を神宮クラブに入れてもらい, 練習は専ら神宮クラブで行ったのである。 コートの整備もしないですむ贅沢な部活で後に千葉大の硬庭部長になり, 全部員がローラー引きに汗を流すことが如何に部の結束に 役立つかを知ったのである。

(4) 千葉大学医学部に転任
 1955年の 7 月に私は千葉大学医学部の医化学の教授に転任することになった。 それまで 1 回だけこの大学を訪れたことはあった が, 医化学教室 (当時の名称) を訪ねただけで, どんなテニスコートがあるのかは知らなかった。 初めてテニスコートを訪れた時 の驚きは大きい。 周囲が鬱蒼とした森に囲まれた凡秋谷 (ぼんしゅう谷 加賀谷教授の俳名から命名) の谷間に数面のテニスコート が静まっている。 このコートに 「蒼庭」 という名前は本当に旨いネーミングで, 命名者は詩人であるに違いない。 数本の巨木があ るが, これを切ると時の医学部長をはじめ当事者に不幸が訪れるという伝説に護られて, 森は厳かに眠っている。 ここには簡素な 部室もあり, 夏場の昼寝に好適である。  この部の歴史は古く, 私より卒業年度のずっと古い先輩もいる。 しかし, さすがの蒼庭も戦時中は芋畑と化した。 この畑を再び 立派なテニスコートに復活させた時代の部員が誰かは知らないが, 大変な努力であったのだろう。 当時の部長は私の中学の先輩で 薬理の教授だった小林龍男先生だった。 いいところへ来たとたちまち顧問にさせられたが, 小林教授が定年退職されたのは, そ れから10年も後である。 私は自分の定年までさらに10年間部長をつとめた。  小林教授が定年退職された頃は全国的に医学部に学生紛争がひろがって, この年は団結を誇ったテニス部もついに二つに割れた。 幸いスト反対派のテニス部員が私を陰に陽に護ってくれたので私は殴られもせずにすんだ。 しかし表向き蒼庭でのんびりテニスも出 来ず数年は謹慎生活を送る羽目になった。  やがてストも収まると, 硬庭部は実力を発揮して, 東医体 (東日本の医学部の体育大会) で優勝するまでになった。 一方女子選 手の指導を家内が引き受けたので, 部員諸君との交流の機会も増し, 私たちは揃って夏の合宿に参加するまでになった。  私は1976年に定年を迎え退職したが, 在職中の部員諸君との交流は現在でも続いて旧教室員の人たちと変わらないほどである。 それも 3 年ほど前までは年賀状のやりとりの時期にお互いの消息が分かった程度だったのが, パソコンの普及でメールが盛んに なると, 季節を問わず, 世間からもテニス部からも遠ざかった私に近況慰問のメールがとどく。 家内は今から25年前にくも膜下 出血で左半身麻痺になり, メールの恩恵には直接浴さないが, 療養中の家内に骨粗鬆症のため骨折がおこったなどの情報は旧テ ニス部員には随分早く知れるようである。

(5) 再び神宮クラブで
 千葉大学を65歳で辞めても神宮クラブでは85歳までテニスを続けた。 お仲間はもとからの神宮のクラブ員のほか新しく加わったの は共立女子大で教えた人たちである。 しかし80歳を超えたころから, 私は脚力が落ちて見送るボールが増えてきた。 ことに昨年, 入院してしばらくプレイ出来ずに過ごしてからは歩くのも不自由になったので, 神宮クラブからは潔く退会してしまった。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  私の20世紀
三浦義彰  千葉大学名誉教授


第 11 章 外人のテニス仲間
テニス仲間は楽しい。 勝ったり, 負けたりしている技量伯仲の仲間も楽しいが, いつも惜敗してはいるが, いつかは勝つだろうと思われる, 少し年上の友はスコアの差が縮まって行くのは勝つ方にとっては楽しい。 しかし自分が負ける方になってみると, 体力の衰えを感じて悲しい。 私も80歳を過ぎてから, その悲しみを誰とプレイしても味わっている。  国内のテニス仲間は地方に住んでいる人を除いて, いつでもプレイが出来るので, 手合わせのスケジュールの調整はさほど難しくはないが, 相手が外国人だとプレイするチャンスさえあれば少し無理をしても, 出来るだけ暇を作ってプレイする事にしている。 ことに国際学会の時は各国から大勢のテニスプレイヤーが来るので, スケジュールの調整に苦労する。 よく訊ねられる質問は一体どのようにして, 或学者がテニきちさんかどうかを知るのかということである。 これは案外わけはないことで, 向こうからどこかテニスの出来るところを紹介して欲しいと学会の事務に言って来る。 あるいは会員登録の時にラケットをわざわざ持って来て, デモをする人さえいる。 これは私はテニきちですと広告をしているのだから, 見付けやすい。 次の人達は外人のテニス友達の中でも特色のある人たちである。 (1) Dupuis さん
 彼は学者ではない。 Air France のパイロットだった。 北回りでアラスカ経由, 羽田に来て, 次の南太平洋航路のフライトまで の休養時間に神宮コートに現れる。 神宮テニスクラブは会員のゲストでないと入場出来ないから, 私がパイロットたちのスポンサ ーになるという訳である。  パイロットたちの中でも特に私が Dupuis さんと親しくなったのは彼の誕生日が私と同年, 同月だったという偶然と, 彼の英語 が日本人に通じ難く, フランス語の通じる私が何かと便利だからである。  彼のお陰でゲームのカウントは zéro, quinze, treize, quarante, égarité であり, ボールが入ったか出たかは dedans, dehors と叫ぶ必要がある。  彼の家はパリ郊外の東京でいえば田園調布あたりの Saint-Germain-en-Laye である。 ここには有名なテニスクラブがあるのも田 園調布に似ている。 このクラブは小説 「チボー家の人々」 の舞台になっている。 主人公ジャックの初恋の舞台として, このテニス コートは小説の中に度々登場するので私も一度はどんな所か見たいと若い時から思っていた。 その夢は Dupuis さんが叶えてくれた のである。  60歳の定年退職後は Dupuis さんは南仏ニースの別荘にいることが多い。 ここのマンションの窓からニースのテニスコートは真下 に見えるので, 窓から眺めている Dupuis さんはテニスクラブによい相手が現れると, 出かけていく。 相手もまた Dupuis さんが 網を張っていることを承知で電話も掛けずにテニス・クラブに出かけて来るのである。  Dupuis さんはノルマンディーに生まれ, 第二次大戦中はレジスタンスの闘士だった。 この時習った操縦術を生かして, Air France のパイロットになった, 彼の車に同乗すると高速道路の分かれ道でどっちへ行くのかわからず, Y 字型の股の所に 車を止め, attendez (待って) と言いながら, おもむろに地図を取り出す。 空の上でも同じことをするのか, と訊ねたら, 定 期便の空路はいったん定めたら, 後は機械が決めてくれるから, 自動車のドライブより楽だという。 定年のころには白内障が進み , よく事故も起こさずにすんだと思う。 彼の landing (着地) はかなり乱暴だったが, あれは片目のせいだったかも知れない。 2000年のクリスマスカードの写真はさすがのレジスタンスの闘士にも衰えがみえる。 86歳同士のテニスはもう無理であろう。

(2) Donald D. Brown 君
 この人は常にドン・ブラウンと友人の間では呼ばれている。 ボルチモアのカーネギー・インスチチューション・オブ・ワシン トンの生化学部長のころ (1963年) からの知り合いである。 私はこの年ジョンス・ホプキンス大学の旧友 Al. Lehninger の研究 室でカイコの絹糸腺での絹蛋白の出来るまでの分子生化学的研究のセミナーを行ったが, この時もドン・ブラウンは聞きに来て , それ以後の同研究所はカイコを実験動物に使うきっかけになった。  最初の来日の時, テニスシューズを持参しなかったので, 足の大きな彼に合う靴を探したが日本では売っていなかった。 その 経験があるので, 次回の国際発生生物学会で来日した時は靴だけは持参してもらった。  彼から教えられたことの一つに, テニスシャツの下にアンダーシャツを着る習慣である。 彼によると, アメリカの東部のテニ スクラブではみなシャツは 2 枚だという。 私も東部のペンシルバニア大学に留学していてテニスをしたし, 同じく東部のケープ コッドのウッズホールの臨海生物学研究所で一夏過ごした時にも毎日のようにテニスをしたが, シャツは 2 枚とは気付かなかっ た。 「ウィンブルトンの試合をテレビで見たって臍出しルックが多いじゃないか」 と私が反駁したら, 彼はアメリカの選手にはカ リフォルニア出身者が多いからね, と答えている。  彼のテニスの特徴は双手打ちのバックで, ボールが滑ってきて取り難く私はいつでもストレートで負けてしまう。

(3) Dr. Seimore S. Cohen
 私が1952年にペンシルバニア大学に留学した時, 彼は同じ教室に属していたが, 研究室は小児病院にあって, 普段は顔を合わ せることはなかった。 それが急に親しくなったのは, フィラデルフィア交響楽団の定期公演で必ず顔を合わせることになったから である。  しかし彼がテニスプレイヤーであることは, 1 年後の夏にウッズホールのテニスコートで会うまでは知らなかった。 彼のテニス は技巧派であまり強いボールはないが, 一癖も二癖もあって難しい。 彼は家内とシングルスの試合をして負けたことがあり, その 後で 「ヨシ, 君の奥さんはテニスがうまいが, 気を付けないとテニスをやりすぎて病気になるよ。」 と言った。 彼は占い者ではな いから, その時は何げなく聞き流したが, 家内は1972年の12月にテニスから帰宅後, 風呂の中でクモ膜下出血をおこし, 今年ま で20年以上も療養生活を余儀なくされている。 あのとき彼にはどんな予兆が見えたのか聞いてみたいが, 気味の悪い話である。  くも膜下出血のもとになる動脈瘤は数日で出来るものではなく, 数ヶ月, 数年の間に大きくなる。 予兆としては新しい記憶が損 なわれるので, 当人はメモ魔になることである。 彼はこのことに気づいたのであろうか。

(4) Prof. Efraim Racker
 彼は私より 2 年年長のポーランド生まれで, ウィーン大学卒業後, 戦争前に渡米, 私の知った頃はコーネル大学の生化学の 教授だった。 といっても, 実はウッズホールの海水浴場でデンマーク生まれの生化学者 Herman M. Kalckar から紹介されたように 覚えている。 彼の専門は Kalckar と同じく酸化的燐酸化で, 特に不共役因子の発見である。 不共役因子の研究はダイエットとの 関係で, 特に20世紀の終わりに注目される領域になったが, 彼は惜しくも1991年に亡くなっている。  彼のテニスは決してうまいとはいいかねる。 けれども, テニスを楽しむことにかけては決して人後におちない。 ウッズホールの 浜辺であった時も, 東京のテニスコートで会った時も本当にスポーツをエンジョイすることに徹していた。

(5) Dr. Arthur Kornberg
 彼は1959年に Severo Ochoa とともにノーベル医学・生理学賞を授与されたスタンフォード大学の生化学の教授である。  最初に彼に会ったのは1957年のことである。 その年, 戦後初めての生化学の国際会議が開かれて, 彼の来日が実現した。 初対面ではあったが, 彼とは何と無くウマが合って家族的なつき合いにまで発展した。 その彼がテニス狂であることを知った のはその 3 年後で, その前年ノーベル賞を受賞, その賞金の半分を投じて自宅にテニスコートを作った。  新しく作ったコートでの一家揃っての写真がクリスマスカードになって送られて来たのである。  二人の間の定期戦がいつ始まったのか今はもう定かでない。 デユースを繰り返し 5 − 5 になり, 一勝一敗が日本とアメリカで 舞台を変えながら, くり返され, 今はもう二人ともシニアもいいところである。 この定期戦の中で一番印象的だったのは1981年 12月の対戦である。  京都の国際会議場で開かれていた学会はなか日の午後がフリータイムになった。 彼は早速どこかでテニスは出来ないかという。 京都はあいにくの雪で底冷えのする天気だった。 屋内コートがどこにあるか分からないので, もっと南の方は雪がないのではな いかと考え, 京阪間の M クラブに電話をかけた。 幸い, 雪はないし, コートも空いているという返事。   2 時間後にはコートに立って定期戦が始まった。 ところがである。 例によってデユースを繰り返し, 5 − 5 になった途端, 急に吹雪いて来たのである。 お互いの姿さえおぼろで, 白いカーテンの中から黄色のボールが突然顔を出してくる。 それでも彼 は止めない。 とうとう 7 − 5 で根負けしてゲームを終わり, クラブハウスに引き上げると, きちがい老人のプレイを観戦して いた小母様方から盛んな拍手を浴びた。 1986年から95年までに経験した術後イレウス症例237例について検討した。 イレウスのため入院した213例を晩期イレウ ス症例とし, 腹部手術後在院中にイレウスで再手術を行った24例を早期イレウス症例とした。 初回手術部位では胃・十二指腸が111 例と最も多かった。 単純性イレウスが87.3%, 複雑性が4.6%であった。 悪性腫瘍の再発によるイレウスは全体の 8.0%を占めた。 長期保存群と待機手術群のイレウス管平均流出量は, 手術群では 5 日目で556mlであるのに対し, 保存群では48mlと減少しており, 5 日目までの流出量が手術適応を決定する一助になりうると思われた。 早期イレウス症例では, 再手術までの期間が14〜21日間の 症例で手術時間が長く, 出血量も多かった。 癒着性イレウス治療後の再発率は保存群より手術群の方が有意に低く, 手術を選択す ることが結果的に患者の QOL の向上につながることが少なくないと考えられた。

(無断転載を禁ず:千葉医学会)
 
   
  わが国の臨床医学研究 translational research の光と影について
吉田 尚  千葉大学名誉教授


1 . はじめに
 タイトルにある translational research という言葉はわが国では耳新しいがその内容はわが国の大学内科学教室で行われてきた 臨床医学研究とほぼ一致する。 そして内科学教室の研究活動は医局というわが国独自の組織に支えられて診療技術の開発・普及に大 きく貢献した。 診療の最前線にたつ診療所や病院に対しても最新の医学情報の発信源としてその診療レベルの維持・向上に寄与した 。 とかく, 今までの内科学教室の研究活動は originality に乏しいなど否定的に語られることが多かった。 しかし, translation al research という基礎医学とは異なる研究分野として高く評価されるべきであって, その医学に対する貢献は originality の高 い基礎的研究に劣らないと考えられる。 大学の独立行政法人化, 大学院重点化, 医師卒後研修制度の改革, 医療保険における診 療報酬包括評価制度の導入など大学をめぐる医療環境が激変しつつあるときに, いままで医局という法制上は認められていない組 織に支えられてきたわが国の医療についてその功罪を論じることはあながち無益なことではないと思う。  以上のような見地に立って, わが国の臨床医学研究を歴史的に考察すると共に, 米国における臨床医学研究と対比してその功罪 を論じることとする。 そしてその場合の key word が translational research である。

2 . Translational research とは
 米国生理学会によると translational research は基礎的な研究から得られた知識を疾患の予防, 診断あるいは治療の新しい, よりよい方法に移し変えること, 並びに臨床で得られた洞察から基礎的研究で評価されるような学説をたてることである[1]。 この定義からすると translation は基礎から臨床への一方通行ではなく臨床的観察から基礎への情報発信を含んだ 2 方向性の ものである。  分子生物学の発展によりいまやヒトゲノムの全塩基配列が解読され, 連日のように種々の疾患遺伝子の発見が新聞やテレビで 報じられている。 あたかも近い将来に人類を悩ます疾患のほとんどについて有効な治療法が開発され克服されるような錯覚にと らわれる。 しかし, 現実にはこれらの大発見の多くは基礎医学の領域の中に留まり, ヒト生理学, 病態生理学の解明, 診断・ 治療法の開発に繋がっていない。 このような基礎と臨床のギャップは近年の分子生物学の発展と共にますますひろがりつつある[2]。 このギャップを埋めるためには基礎的知識を臨床応用に "translate" することが要である。 この translational research は bri dging medicine ともよばれる。 基礎的知識を疾患の予防・診断・治療に役に立つよう発展させることと, 臨床の場から基礎に研究 のアイデアや材料を提供することという 2 方向性の交流を表しているという意味で bridging は translation よりわかり易い表現 である[2]。

 この基礎研究の臨床医学への translation, すなわち, 基礎的な生物学上の知見から疾患の予防法, 診断法, 新しい治療法を 開発するにはいくつかの段階がある。 基礎的研究に近い in vitro の研究に始まり, 動物モデル実験, 臨床試験をへて, 標準的 診療法として確立される[3]。 一例として, interleukin 2 (IL 2) レセプターの基礎的研究から移植組織片拒否反応抑制薬を開発 した Waldmann グループの業績が Journal of the National Cancer Institute の NEWS 欄にのっている[4]。 1980年の interleukin 2 レセプターに対するモノクロナール抗体 (anti-tac) 作成にはじまり, このレセプターが正常人の細胞には発現せず, 白血病T細 胞, 自己免疫疾患の T 細胞, 移植組織拒否反応に関する T 細胞に発現することの認識, 抗 tac 抗体がこれらの活性化細胞の分 裂を抑制することの研究が行われた。 Waldmann によると, anti-tac 抗体を用いたこのレセプターの構造と情報伝達機構の研究は 基礎研究であり, interleukin 2 レセプターが活性化 T 細胞にのみ発現し, 白血病の鑑別診断に役に立つことをあきらかにした のは基礎研究の臨床の場への translation である。 これらの研究はさらに成人 T 細胞白血病の治療, Roche 社による移植組織拒 否反応抑制薬に発展した。

 以上のように translational research という概念は臨床医学研究を 1 つの研究分野に認知し, その重要性を強調するものであ る。 そしてこのように translational research の重要性が特に米国で強調されるのは, すでに述べたように分子生物学の発展とく に1973年頃からの組換え DNA 技術導入に端を発し, 1980年の半ばから速度を増した基礎医学知識の蓄積と臨床医学とのギャップの 増大と, このギャップを埋めるべき臨床研究者特に研究志向をもつ内科医 resserch-oriented physician あるいは physician sci entist の減少がある。

3 . 米国における臨床研究の盛衰
 第 2 次世界大戦前の米国では臨床研究は患者の注意深い観察に限るべきという意見が強く[5], 疾患の成因の解明や病態生理研究 などの translational research は, Massachusett General Hospital などごく少数の病院で行われていたに過ぎない。 終戦後も, NIH の医学振興策は基礎医学に対する支援に力点がおかれていた。 しかし, NIH の研究支援が基礎医学中心であることを議会に批判 され, 疾患の克服のために translational research を行う病院, the Warren Magnuson Clinical Center が1953年に NIH に開設 された。 これにより臨床医学研究の推進と人材の育成がおこなわれ, この領域の研究を隆盛に導いた。

 振り返ってみると, 米国の臨床医学研究の最盛期は, 1960−1980年の20年間であった。 しかし, 1970年代になると, はやくも translational research 衰退の徴候が現れてきた。 1979年に Wyngaarden[6] は NIH 研究費応募者の分析から Ph. D. 研究者の急 激な増加, M. D. 応募者の著しい減少に注目した。 そして, 臨床研究医を絶滅に瀕している種 endangered species とみなした。 臨床研究医の減少は1986年ごろからの米国 the American Society of Clinical Investigation (ASCI) 出席者の急激な減少によく 反映されている。 コレステロール代謝の研究でノーベル賞を Brown とともに受賞した Goldstein[7] は, 科学的に訓練を受けた医 学部卒業生が translational research を嫌い, 基礎研究に向かうことにより臨床研究に空洞が生じていることを指摘し, これを Paralysed Academic Investigators Syndrome (PAIDS) と名づけた。 ちなみに, その空洞はしばしば基礎的な研究技術に欠ける M. D. により満たされたとのべている。 Goldstein はあからさまには言わなかったが, 基礎的な研究技術に欠ける M. D. とは米国 以外の国で教育を受けた M. D. を指しているのであろう。 Goldstein と Brown[8] によるとその原因は科学の急激な進歩により臨 床と研究を一人が行うことが困難になったからである。 例えば, 内科の研究者が午前中は患者をみて午後には遺伝子をクローニン グすることを考えてみれば, このようなことはごく稀な例外を除いてうまくいく筈がないのである。 この場合, 米国では大部分 の M. D. は基礎科学を選ぶ。 その理由の一つは, 通常の基礎研究は臨床研究に比べると業績を挙げやすいからである。 基礎科学者 は, 新しい研究手段の開発が進み, 容易に研究をおこなえる課題, あるいは研究の行き詰まりを打ち破る発見が見出されていて 解決の準備の整った課題を自由に選択できる。 このタイプの研究は画期的ではないが, それでも満足できる明確な結果を得ることが 出来る。 その結果は権威ある雑誌に掲載され, NIH の研究費を得られる。 ただし, 最近は技術的な進歩により cDNA クローンや recombinant DNA により作成された蛋白, モノクロナール抗体など, あるいは研究用のキットなどが多くの会社から売り出されて , 深い研究技術を持っていない研究者でも容易に研究が出来るようになった。 研究者にとって多くの実験ができるようになったのは よいが, 競争者を抑えて先頭をきって走るためには休むことなく研究を推し進めなくてはなくなった。 このことは基礎研究と臨床に 二股をかけるのを困難にした。

 これに対して臨床研究者はその対象を自由に選ぶことは出来ない。 例えば, インスリン非依存性糖尿病は遺伝研究者にとっては悪 夢のように困難な研究課題であるが解決しないわけにはいかないのである。 臨床研究者が基礎研究者のように明確な結果をだすこと は稀にしか出来ない。 臨床研究者が NIH 研究費を取りにくい所以である。 これに加えて近年は医療保険などの緊縮財政は厳しく, 医師は病床に貼り付けになって働かなくてはならない状況である。 この意味でも, 臨床と基礎研究に二股をかけることはできなく なっている。 さらに, 総合的な大きな内科学教室がなくなったことも translational research を困難にしている。

 臨床研究が盛んに行われた時代は, 内科のすべての分野を包含する強力な総合内科教室がこれを支えていた。 米国においてもいまやこのような広い基盤を持つ教室はなくなり, 循環器, 消化器, 遺伝学などの専門グループの緩やかな連合体にかわってしまった。 かくして内科研究者の視野は狭くなり, 研究者は臨床医兼研究者であることをやめただけでなく, 興味は一部分の臓器あるいは疾患にのみに限定されるようになった。  現時点において, 生物工学は多くの難病を克服する治療法を開発する可能性を有しているのにかかわらず, 実際に市場に承認される製品はごく少ない。 この理由は, 基礎学者の発想力が乏しいためでもなければ, 遺伝子の分離, 組み換え蛋白の製造, あるいは小分子の作働薬・拮抗薬を製造する能力が不足しているわけでもない。 治療手段の開発速度の遅い理由は, 難病を分析してその克服方法を明らかにする優れた臨床医学研究医が少ないからである[8]。  
現在米国では, この状況を打破する手段として, @学究的な臨床医を卒前・卒後教育により育成し, 若い研究者を研究費などで支持する, A臨床と基礎の共同研究を推進する。 B学会誌への掲載, あるいは研究費の申請の評価において基礎研究の偏重をさけ translational research にも高い評点をあたえるべきであるなど種々の提案がなされている[1,5,8,9]。

4 . わが国の translational research とくに内科臨床研究の過去, 現在と将来の展望
 次に, 終戦以来, その制度を取り入れ (文字どおり translate し) その後を追った米国臨床研究の現状を念頭におき, これと対比しながらわが国の内科臨床研究について考察することとする。  わが国の臨床医学研究を制度上支えたものは講座制と学位制度である。

 わが国の近代の診療, 医学研究制度は明治新政府が明治 3 年 (1870) にドイツ医学への依存を打ち出し, 本格的な医学教育への決意を固めたことにより始まった。 当時, ドイツでは細胞説を樹立した Schwann, 解剖学者 Henle, 物理学・生理学者 Helmholtz が活躍していた。 また, 病理学者 Virchow が細胞病理学説を唱えてから10年余が経過し, 近代医学はまさにドイツを中心に興隆しつつあった。  

 明治 2 年に相良知安と岩佐純が医学取調御用係となり, この二人がドイツ医学採用を強く主張した。 相良知安の建言書は, 独逸は医学万国に秀絶し, いずれの国も規本をここに置いているとし, さらに 「仏方の奢侈は未だ国富に適せず故に独に従えり」 また 「此時蘭は己に国勢弱くして直に独仏の書を読んで翻訳せり, 英は国人を侮り, 米は新国にして医余り無し」 とある[10]。 小川鼎三[11]は 「いま省みて日本の選択は誤っていなかったといえる。 しかしそれはむしろ基礎医学の隆盛ではなかったか。 臨床という立場からすれば, とくにドイツがそのとき冠絶していたとも考えにくい。」 とのべている。 川喜田愛郎[12]によると, 「十九世紀中葉のドイツ医学に目だつのは, 医学あるいは病理学を新しい実験科学の基礎の上に再編しようとするひたむきな努力であった。」 また, 「研究室医学とは, その骨格の上に病気の話のすべてが肉づけできる確信のうえに立つもので, それは, 十九世紀ドイツ医学の栄光をかたちづくる大きな要素であった」 と述べている。 これに対して相良らが退けたイギリス医学は病院医学であった。 臨床観察に基づく患者の症状・経過とその置かれた条件の記録が主体であり, 病院こそがその研究と教育の主体である。 代表的病院医学研究者の名をあげると, Graves 病の Graves, Adams・Stokes 症候群の Adams および Stokes, 腎臓病の Bright, Addison 病の Addison などがいた。  

 以上のように, わが国の臨床医学はドイツ医学に倣って, 病院医学より研究室医学的色彩がつよかった。  

 M. D. (医学部卒業者) のおこなう研究には, Goldstein と Brown[8]によると基礎研究 basic research, 疾患志向型研究 disease-oriented research, 患者志向型研究 patient-oriented research の三つのタイプがある。 患者志向型は医者が患者に直接接触して行う研究であり, 疾患志向型は患者から得られた材料は使用するが, 患者には直接接触しない動物実験や in vitro study である。 わが国の臨床研究に疾患志向型の研究が多いのはその出発時点において当時研究室医学すなわち疾患志向型研究の盛んであったドイツ医学に範をとったことが一因である。 この傾向を助長したのは大学の講座制と学位制度である。  

 わが国の医学校は明治10年 (1877) に東京開成学校と東京医学校が合併し, 東京大学と改称し医学部を設置したのが最初である。 明治19年 (1886) には帝国大学令が公布せられ 「大学院」 が設けられた。 明治26年 (1893) 9 月, 講座制が確立した。 今日の講座制はここに発するのである。  

 大正 8 年に公布された大学令によりそれまで帝国大学以外の大学をみとめていなかったものが制度上公私立の大学を承認した。 1 つの学部をもって成る単科大学も認めたので大学の数は著しく増加した。 すなわち大正 7 年には 5 校に過ぎなかったものが昭和 5 年には46校となった。 千葉大学医学部については, 明治15年, 公立千葉病院が改組され県立千葉医学校および付属病院になった。 明治20年には官立となり第一高等中学校医学部と称していたが, 大正12年に医科大学に昇格した。  

 日本の学位令は明治20年 (1887) に初めて定められて, その翌年, 最初の医学博士が生まれている。 もとは推薦によったが, 論文を提出して医学博士の学位を請求し, これを得ることは明治25年にはじまった。 そして大正 9 年の改正では学位授与の主体が内閣 (文部大臣) から大学に移された。 すなわち, 新学位令では 「第二条, 学位は大學に於いて文部大臣の認可を経て之を授与す」, 「第 4 条, 学位を授与せらるべき者は大学学部研究科において二年以上研究に従事し論文を提出して学部教員会の審査に合格したる者または論文を提出して学位を請求し学部教員会において之と同等以上の学力ありと認めたるものとす」 とした。 それまでは文部大臣の招集する博士会というのがあって, これが学位の審査にあたったが, 新制度では上の条文のごとく大学の学部教員会が審査することとなった。 すでに述べたように大正 8 年の大学令により医科大学の数が増加したこととあいまって, 日本の医科大学において学位獲得を目標とする研究者の数が激増した。  

 わが国の臨床医学研究の特徴は以上のように将来臨床医を志す医学部卒業者の多くが学位獲得を目標として研究をおこなうところにある。 この場合, 臨床研究よりも明確な結論を得やすい基礎研究あるいは疾患志向型の動物実験あるいは in vitro study が選ばれる傾向があったことは否定できない。 また, その内容についても独創性にとぼしく, スケールの小さい研究になりがちであったことも事実である。  

 この講座制・学位制度を批判し改善する試みは何度もなされた。 なかでも, 昭和20年 (1945) にわが国に進駐した連合軍総司令部 (GHQ) は民主化を図り, あらゆる方面で強力に新政策をおしすすめたが, 医学教育制度の変更, 医療レベルの向上にも熱心に取り組んだ。 特に総司令部の公衆衛生福祉部長 Sams 准将とそのスタッフの努力は特筆に価する。 彼らは当時の日本の医学教育制度を次のように痛烈に批判した。 「欠陥の一部はこれまでの医学教育のやり方のうちにあります。 その誤ったやり方の結果は, 医師たちの間に, 大都会に過度に集中するという傾向, 特に大学のある大都会に集中するという傾向を生じました。 これはまた 「障壁主義」 とも呼んだらいい, 排他的な態度に導いてしまいました。 強い官学閥が支配的な影響を及ぼしております。 近代的な実験と批判による理解方法のかわりに正統主義が支配をほしいままにし, 伝統に奴隷的に執着する古ぼけたドイツ式の体系が君臨してきました。 研究ということが実地訓練ということより遥かに多く強調されました。」 と痛烈にしかも適切に批判した。 そしてこれらの欠陥の改善を目的として医学教育制度の改革がおこなわれた。 その主なものは, 実地修練制度 (インターン) および国家試験制度の制定である。 また, 戦時中に軍医速成の目的で濫立された医学専門学校の一部は廃止され残りは三年間の猶予をおいて整備し, 医科大学の新基準に達しめることとした。 しかし, 講座制および学位制度の改革は当時の医学教育審議会の事業計画には 「学校卒業後の研究科生の医学校教育計画の樹立」 という項目があったが実際には手がつけられなかった。  

 昭和28年には学位令改正があり新制大学院設立がきまり, 昭和30年には入学試験が行われて一期生が入学した。 この学位令改正の目的, 専門医制度との関連および昭和39年当時の実情について冲中重雄[13]は次のように述べている。 「日本には医学博士の制度は存在するが, 専門医の制度はまだ確立されていない。 新大学院制度が発足して, 学位を得んとするものは, 大学卒業後, 大学院に入り, そこで学業の単位をとり, 論文を作り上げることにより, 学位が授けられることになっている。 大学院には定員があり, そこに入学できるひとには限りがあるわけであるが, そこには論文博士という道が存在していて, 大学院に入れなくても, 特に優秀な論文ができ, その人の一般的な学力が大学院卒業のものと同等と認められた場合には, 学位が授けられることになっている。 元来, 大学院の方が学位に対する本流で, 論文博士は支流というか, 放水路的なものになっているのであるが, 医学に関するかぎり, 本流より放水路のほうがいつも水量が多いという実状のようである。 結局, ほとんどの医科大学卒業のものが学位を取ることになるようである。 元来, 大学院課程は, 将来, 学者になり, 教職につくような人を養成する目的であるので, そのためには, そう多数の人が学位を取る必要も無いし, また, その本来の目的に対し, 皆がその素質, 能力をもっているとは限らない。 否, それよりも, 学位をとった人の90%以上は実地医家 (個人開業, 病院勤務など) になっているものと思われる。 私はこの矛盾をなくすためには, しっかりした専門医制度を確立し, 大学院制度に対立できる権威あるものとすることが一番よい方法であると思う」。  

 この考えに従えば新制大学院発足と同時に専門医制度も発足すべきであった。 事実, 昭和32年の内科学会評議員会に内科専門医制度案が提案されたが時期尚早ということで否決された。 しかし, 当時, 内科学会理事であった橋本寛敏, 齋藤十六, および冲中重雄はこの発足を切望し, 再度発足準備がはじめられて昭和43年に内科専門医制度が発足した。 試験実施10年間には専門医は期待したほどの数に達しなかったがその後次第に受験者数が増加し平成13年までの間に総数6882名の合格者を出している。 また, 昭和60年には内科認定医制度が発足し, 認定された施設において 3 年間内科学の研修を行ったものに内科認定医の資格を与えている。 平成14年現在では認定医総数は42311名に達した[14]。  

 臨床医が行う研究については基礎学者から厳しい批判があった。 川喜田愛郎は内科学の泰斗であった冲中重雄との対談[15]のなかで 「ザックバランに言って臨床家の研究のかなりの部分に基礎学者にはしばしばだいぶ文句がある。 ともすれば科学的な方法と論理が甘くなる」 と述べている。 また, 「だからといってそうした領域の研究が基礎学者研究者にできるかというと, できない問題がたくさんある。 歴史的にみても, 臨床医学といわれるものの中から, 大きな病気の問題がたくさんでてきた。 たとえばピルケのアレルギーにしてもクレンペレルの膠原病にしても, そうした深い生物学の問題は臨床家によって開拓されたわけですね」 とも述べて, わが国の臨床研究に苦言を呈すると共にその重要性を強調している。 研究に時間をとられて十分に臨床研修をおこなえないおそれがあったことも事実であろう。 しかし, このようなわが国の制度により, 医学の水準が大いに高まったことは疑いない事実である。  

 終戦後 GHQ の指導により導入されたインターン制度は, 身分保障, 経済保証がなく, かつ教育的にも不完全なことから導入当初から医学部学生に強く批判されていた。 このいわゆるインターン闘争は年毎に次第にエスカレートし昭和40年以降には全国横断組織としての青医連 (青年医師連合) の結成となり, 全国の医科大学で大学当局との紛争が頻発した。 この大学紛争は昭和43年の東大安田講堂占拠をピークとし昭和44年の機動隊導入により, なにも問題が解決しないまま悲劇的に終焉した。 そのなかで青医連が強く主張したのが卒後研修制度の改善であった。 しかし大学紛争が終焉するとその前と変わらずに, 講座制と学位制度が臨床教室運営の柱として存続した。  

 このように絶えず厳しい批判を受け, 何回もその改革の試みがなされながら, 明治時代に設定された学位制度, 臨床教室の講座制が100年以上も存続したのは何故であろうか。 その理由はこれらの制度が日本の風土に適した都合のよい制度だったからである。 まず, 博士号については, 明治時代に将来を嘱望する子供に対して, 「末は博士か大臣か」 と期待したことでわかるように, 博士は権威の象徴であった (ちなみに, 明治 2 年佐藤尚中が佐倉から東京によばれて大学東校の最高の地位についたがその地位の名は大学大博士であった)。 医学部卒業生は臨床教室に入局し, 研究をして博士の学位を得ることにより箔をつけ, ある程度の地位と財産が保証された。 日本に蔓延している権威主義は医療技術の優劣よりも博士号があることが医師を採用する場合や, 患者が医師を選ぶ時の基準であった。 また, 大学病院以外には, 医学を研究する場が少ないこと, 臨床研修についても大学病院以外の施設では一部の大病院, 医療センターを除くと医師は多忙で若い医師の研修を指導する余裕はなかったことも大学の臨床教室に若い医師が集まる理由である。 これらの医師の多くは無給であったが医局で世話するアルバイトによりある程度の収入があった。 また。 研究をするにあたって, 自分で研究費を工面する必要はない。 研究生では文部省や学術振興会に研究費を申請する資格は無かったが講座費と, 教室が製薬会社などから集めた研究費により研究をすることが出来た。 たとえ無給であっても臨床教室に毎年多くの医学部卒業生が入局したのはそれなりのメリットがあったからである。 また, 無給な者については, 人員が定員化されないことが多くの入局者が受け入れられることを可能にした。 大学講座の指導者にとって論文博士制度の最大のメリットは大学出の若い優秀な人材が容易に集められることである。 これらの人材の頭脳とエネルギーが臨床講座の研究・診療を支えてきた。 また, 広い基盤に立って, 総合的な内科診療を行うには, subsupeciality をもったスタッフを多くかかえる必要があった。 この点でも専門を限らない内科学という講座は有用であった。 一般病院側からみても安定した優秀な医師の供給源として臨床教室は掛け替えの無い存在であった。 開業医にとっても医療情報源, アルバイト医の供給, 診療の権威付けに出身医局は縁を切ることができない存在である。  

 学位制度, 特に規定では抜け道的な制度である論文博士制度とそれを可能にした臨床講座制はおいそれと変更できない極めて便利な制度であった。 このため明治時代から, 外部からは悪評さくさくであったのにかかわらず存続した。 筆者自身千葉大第二内科教授を務め, これらの制度のメリットを享受した。 筆者を含めておおくの臨床教授は, 青年医師のときは, 無給の研究生であること, それにもかかわらず大学の診療, 研究がおおきく研究生である医局員に依存していることの不合理さを非難したが責任者になるとこれらの制度の有用性を甘受した。 米国の制度と比較しても, わが国の今までの制度により, 教室に若い優秀な医学部卒業者が集まり研究に従事することは大きなメリットである。 アメリカでは既にのべたように M. D. 研究者は絶滅の危機に瀕している 「種」 であり, 大学や NIH はその保存に腐心している。  

 わが国で絶滅に瀕したのは基礎医学研究者である。 多くの医学部卒業生が臨床教室に入局することは反面, 基礎医学教室に入る者が少ないことを意味する。 米国で最近行われた調査によると毎年。 医学部卒業者の約11% (約1600名) が研究者をめざす[5]。 NIH を中心とした長年にわたる基礎研究振興策が実を結び, また, 近年の分子生物学の発展が基礎研究を実りの多いものにしたこともあって, 米国においてはいまや毎年一定数医学部卒業生が基礎研究を目指している。 これに対してわが国では研究志向の医学部卒業生も臨床教室にはいる。 この結果, 米国では絶滅に瀕している translational research を志向する医学研究者がわが国では充分に存在する。 現に分子生物学が発展した1980年以降わが国の臨床医学領域の研究業績は質量ともに世界のトップレベルにある。 反面, 基礎研究を志す医学部卒業生は一部の大学を除くと極端に少ないのが現状である。  

 以上のような状況の下に, 平成 7 年ごろから東京大学など旧帝国大学を中心にしていわゆる大学の大学院重点化が進みこれらの大学では大学講座制から大学院講座制への移行が行われた。 千葉大学医学部においても平成11年に大学院医学研究部 (研究院) が設置され, 医学部の講座は大学院の講座に移行した。  卒後研修についても 「21世紀のわが国の医療を担う若い医師の基本的な臨床能力」 を身につけさせることを目的として医師の卒後研修必修化へ平成16年 4 月から実施されることが決定している。 今回の大学院重点化構想は医学部においては基礎研究者の養成の為には前進であり有益であろう。 千葉大大学院医学研究院のなかに MD-PhD コースがあらたに設けられている。 東京大学医学研究科には医学科・歯学科・獣医学科以外の学部学科卒業生を対象とする医科学修士課程が設置されるなど基礎研究者の養成意欲の強さがうかがわれる。  このような現状にあって将来わが国で絶滅の恐れがあるのは, 十分に科学的訓練を受けた臨床医 (純粋の臨床医および patient-oriented research をおこなう臨床医) であろう。 学部教育においては, 教養学部廃止, 学生の早期臨床体験カリキュラムなどにより, 医学部学生に対する基礎科学の教育時間は短縮されている。 また, 臨床医学研究の場である病院は厳しい医療環境下にある。 大学病院にあっても国立大学法人化, 医療費の抑制を目指した医療制度改革などがあいまって十分な研究開発機能を果たせるのか危機的状況にあるように思われる。 その理由は診療報酬包括評価制度など医療費抑制を目的とした制度が教育, 研究機能をもつ病院にも導入されて, 経済的・時間的のみならず, 心理的にも patient-oriented research を行うゆとりがなくなることが予想されるからである。 このような状況をみると, 将来わが国では分子生物学の発展により蓄積された基礎的な知見を臨床に活用する (臨床と基礎の研究のギャップを埋める) 方向の translational research は世界のトップレベルを維持できても, 臨床から基礎への情報の発信という方向の translational research の前途は暗澹たるものがあると思えてならないのである。 たるものがあると思えてならないのである。 たるものがあると思えてならないのである。

5 . おわりに
 2002年は内科学会創立100周年にあたり, 内科学会誌2002年度の会誌は 「内科−100年の歩み」 を特集している。 筆者は Editorial 「内分泌・代謝100年の歴史−トピックスと日本人の貢献」 を執筆したが, 書き終わってみると, わが国の内科学研究のうち, その成果と日本人の貢献という光の部分だけでは書き残した部分がある思いがしていた。 今回, 千葉医学雑誌からの執筆の機会を与えられたので影の部分も含めて内科学研究の歴史を振り返ってみた。 厳密に資料を検討した学術論文ではなく, 筆者の個人的な思い, 独断, 偏見を恐れずに書いたエッセイである。  21世紀をむかえて, 医学系大学の改革が進行中である。 千葉大学でも2001年に大学院重点化が実施され, 大学院医学研究部 (研究院) が設置されたのに伴い医学部の講座は大学院の講座に組織変えされた。 大学の独立法人化は2004年には現実のものとなる見通しである。 まさに, 明治維新以来の大改革が進行しているように見える。 今まで何回か試みられた医学研究体制・教育体制の改革の歴史を振り返り, この変革が実りの多いものであること祈念する次第である。
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